ここだけのナイショ話

介護の現場仕事から足を洗いたい!

前日、お伝えした通り、第34回介護福祉士試験は何かとんでもないことでもしていない限り、どうにか突破できたと思っています。

思えば3年前、それ以前に介護の仕事など全く眼中になければ、どんな仕事なのかも分からない状況で、始めたのが実務者研修です。

介護施設で働くなら、実務者研修よりも簡単な初任者研修だけでも特に困ることなどありませんし、勤務先の先輩たちの中にも初任者研修だけという人も多いのです。

誤解ない範囲で話せるば、現場仕事に関しては介護福祉士も実務者研修も初任者研修も関係ありません。

それ以上に手先が器用だったり、行動力のある人の方が向いています。

逆を言えば、学歴などで考えるタイプは介護現場には向いていません。

なぜなら、介護現場で求められるような仕事を望まないからです。

介護に適しているタイプは、周囲からの避難や批判に対しても動じないで、困っている人の立場になってやり切る人だと思います。

よく見かけるのが、器用だけど仕事を選んで逃げちゃう人。

これは本当に多くて、特に問題なのがその人自身、気づいていないこともあります。

例えば、製造のような仕事では、一発の完成度が評価される業界もあります。

車のデザインや設計のような、「繋ぎ合わせる」ことで生み出すような仕事では、「何」を選ぶのかが重要で、何回繋いだのかでは評価されません。

その意味では介護現場の仕事は真逆で、時に今さっき終わったばかりでも必要になればまた一から始めなくてはいけません。

それが時に何度も繰り返されたりします。

普通の人であれば、何度かなら我慢するでしょう。

しかし、それが10回とか、いつものことになってしまうと、ちょっとうんざりします。

介護現場の仕事には、良くも悪くもそんな面があって、時に働くスタッフの気持ちを失わせます。

例えば、仕事現場で使う洗濯機が故障して、作業で出るお手ふきやエプロン、ランチョンマットを利用者の人数分手洗いするとなったら、どう感じますか。

もちろん、その仕事ができるか否かではなく、他の仕事にプラスしてその仕事も組み込まなければいけないとなった場合です。

当然ですが、課題をこなす働き方になるでしょう。

そうしないと、増加した作業を終えられないからです。

しかし、利用者との距離は増え、介護士として働こうと思った動機は何処へやらで、気づけば雑務をこなす日々に追われてしまいます。

やはりそれでは介護士になってもやりがいは感じません。

今の勤務している職場には、これに似たようなことが幾つも重なり、懸命に働いている理由が利用者のためではなく、不手際や管理不足から招かれます。

こみちとしては、3月末を目処にしたいです。

2月でも良いのですが、流石に言うのが遅いと思うので、今月中に気持ちを伝え、来月から就活します。

とは言え、父親の介護認定も控え、別件の問題もこみちが関わらないと進展しないこともあり、父親の存在意義が問われていて、でも少しねじ曲がった構図のまま時が流れています。

「お父さんに聞かないと」「私たちは年寄りだから」

最近、母親がよく使うフレーズですが、少し言葉の意味を考えて欲しいくらいです。

父親が背負う訳でもなくて、でも保身の言葉は好んで使う。

そして、もしもそれをこみちたちに振ったなら、どれだけの犠牲を両親の不手際のために費やすのか。

叔母の件で消えた数十万円はもう過去の話で、今度は父親の身に起きた問題で頭を下げなくてはいけない。

父親一人で行ければいいのですが、家族に向かっては大きなことを言えても、結局は何もできないままです。

相手に連絡することも出来ず、自身の気持ちを伝えることも出来ず、結局、話が大き過ぎて抱えられずに放置させてしまうということが昔からの悪い習慣です。

こみちにもそんなところがありますが、父親はもっとそうで、やり切ることができないタイプです。

見かねた誰かに声を掛けてもらい、いつも途中で投げ出してしまう。

その結果が、今の生活に表れています。

ある意味、介護という救いの場所で頑張るのもそろそろ良いようにおもいませんか。

3年間、いろいろことを言われて我慢し、最終的な資格にも手が届いたと言うのなら、投げ出したではなく、一つの節目を迎えたと言えませんか。