「生きる」意味を考える
こみちの場合、妻との約束があって、それが「妻より長生きすること」でした。
何か臭って来そうな恋愛話を思い浮かべるかもしれませんが、そうではなくて単純に妻の最期を「看取る」という約束です。
このブログが主に介護士系の話を扱うのは、こみちが今も現役の介護士だからで、もっと言うなら中高年の仕事探しを一緒にできたらということがコンセプトです。
それはつまり、「生きる」目的は人それぞれですが、そのために欠かせない「収入源」を考えたり提案したりという意味で「中高年の仕事探し」がブログのテーマになっています。
中高年になって、コレが楽しいということが減って、冷めた気持ちで見てしまうと何もかもが「楽しくない」のです。
比較的好きな絵を描くことでさえ、何を描こうかと考えている間に面倒な気持ちが湧いてきて、「後でいいか!?」となってしまいます。
以前使用していた投稿型の仕事サイトを、2年ぶりにログインしましたが、何だか盛り上がっていませんでした。
文章依頼にしても、イラスト依頼にしても、何故だかとても寂しい気持ちや虚しい気持ちになって、とても案件を受けるような意気込みが出ません。
改めて「生きる」って何でしょうか。
以前、思っていたのが、自身の人生は成人するまでの「20年」だけというものです。
じゃあ、21歳からはどう生きれば良いのかというと、ズバリ「次世代の人のために生きる」という考え方です。
それはつまり、結婚などを機に子孫を残し子育てはすることも含まれます。
子育てを通じて、幼少期から成人までの成長を当事者とは別の視点からもう一度体験することになります。
一方で、結婚をしない、子どもも育てないという生き方も否定されるべきではなく、ただ注意するべきは「生きる理由」を自身で見つけていくことが必要です。
なぜなら、中高年と呼ばれる年齢まで生きてみて思うのは、時代や社会の進歩によって生活スタイルは異なるかもしれませんが、「生きる」という意味では長く生きても最初の20年で遭遇した出来事が次の20年にも繰り返され、ただそこに「自身の老い」が影響してきて、段々と自身の肉体と精神が万全ではなくなります。
だからこそ、3度目以降のサイクル(60歳以降)では、時に断捨離や本当に手元置いておきたい物とそうではない物を意識的に考える必要が出てくるでしょう。
例えば、介護施設に入所している高齢者の日常を考えると、朝起きて寝るまでの移動距離が100メートルにも及ばないこともあります。
それだけの移動距離の中で変化するものとはどれくらいあるでしょうか。
でも、老いるとはある意味でそれでもいいのです。
その中に、自身が本当に残りしておきたい家族もことや思い出、そして少しの日常の変化があれば、幸せを十分に感じられるからです。
そうやって人は段々と行動範囲を絞り込み、やがては1日に一歩も歩かない日がやってきて、最期を迎えるのでしょう。
まだ20代とか30代の方で、生きる理由を探している人がいるとしたら、それこそとりあえず「生きてみる」ことでしょう。
「なぜ生きるのか?」の明確な答えが見つからなくても、生きていればいいのです。
「生きていれば…」、それでは意味がないと思うかもしれませんが、実はそんなことなどありません。
というのも、「ただ生きる」ことも本当は難しいことで、だからやはり誰もが苦労します。
生きる理由や目的を見出そうとしたり、自分は何者なのかと考えたりして、「もう少し生きる」を楽にしようと工夫するからです。
ある意味、目的探しをして見つからず、だから生きるのが辛いを無限にループしてしまいます。
しかし、「ただ生きる」という答えで止めることで、その無限ループも解決しますし、「ただ生きる」ためには、自分のためではなく、誰かのために生きてみることです。
自分が苦手なことをしてみたり、他人が苦労する支援を始めたり、そんな風に生きる目的を自分自身から別の誰かへと変えてしまうのです。
本来なら、それは「子ども」だったはずですが、自身にまだ子どもがいない人やもう既に成人されているというような場合には、全く別の誰かのために例えば「思い切り遊ぶこと」で、そんな楽しみ方ができるとか、腹から笑えるという体験をしてもらうのです。
そして、意外と気づくのは、今の自分では他人を救うことなどできないってこと。
どんなに些細なことだとしても、他人の役に立つのは簡単ではありません。
だからこそ、例えば介護の勉強もそうですが、料理や車の運転をもう一度、誰かに提供するという目的で考えてみることです。
自分で車を運転していた時とは違い、他人が快適に安全に、時には車で移動していることさえも忘れてしまうくらい意識させないように、サービスを提供できたら、その時にはきっと今までとは異なる人生観になっていることでしょう。
「生きる」を考える時に、自分の未来やなりたい自分探しに進むとなかなか答えに辿り着きません。
欲しいのは「頑張れる環境」!?
結論を言ってしまえば、頑張れる場所があると生きるのも楽しくなるはずです。
でも、それが見つからない内は、時にやり切れない環境と知りつつももがくしかなかったりします。
あるお仕事を見つけるサイトで、「無料で使える動画編集アプリの紹介記事をを書いて欲しい」という案件がありました。
でも、その指示書を詳しくみると、最終的にはとある企業が製作したアプリケーションをPRするためのものでした。
確かにその仕事を熟せば、1000円くらいは貰えるので、日に10個もできれば1万円稼げることになります。
じゃ、Webライターとして頑張ろうとはなりません。
誰が得をしているのか見えないからです。
何もすることがなく、目的が単純に報酬という場合なら、それも一つの手段ですが、「生きる」という意味で考えれば、それを半年、一年と続けても裕福にもなれませんし、スキルが身につくとも言えません。
なぜって、本当に良いと思って勧めるなら良いのですが、あまり使い勝手すら知らないアプリケーションを指示書に従ってそれっぽく書くことにストレスが溜まります。
だったら、同じライターでも自分が良いと思うことを伝えられる環境にいるべきです。
きっと、生きるのが苦しく感じる時期は、そんな変革期と重なるからでしょう。
今までの惰性でも辛く、でも頑張れる環境も見つかってはいない。
でも、みんなそうやって、意識が変わっていくのでしょうし、こみちもフラフラとしながらも介護士として、また別の何かで頑張れる環境を探そうとしています。
こんなこみちの考え方が、どこかで誰かの生きるヒントになってくれたら嬉しいです。