いつもの「不安感」が襲ってきた!

 「不安感」の正体

こみちは、もともと理系の人間で、原因と結果、因果関係など、理由と成果に何らか関係を探します。

年齢を重ねるに連れて、その条件は複雑化し、また自身の老化現象もあってその状況を明確に掴めないことも増えました。

以前なら「なぜだろう?」と気になることを、有らん限りの労力を使って調べたりしましたが、そんな気力も段々と薄れ、今は「まっいいか!」で済ませてしまうことも増えました。

「不安感」とは、忘却することも解決することもできない曖昧な状況や位置関係を指していて、「気になるけど解決しない」という不安定な気持ちから起こっていると思います。

「不安感」の原因

年が明けて、新年も始まりました。

一方で、昨年から継続していることも、改めてリスタートしたという感じです。

こみちの場合には、今月末の試験も気になりますが、叔母の今後や両親、妻のことも心配している事項です。

いつもはほとんど不満を口にしない妻が、ポツリと「大丈夫かなぁ」と独り言のように呟くのが聞こえました。

そんな時、こみちは無意識にその表情を見て、妻の気持ちを想像します。

正直なところ、妻の精神はかなり追い詰められていて、苦しいけれど言い出せないという状況だと感じます。

その原因もいくつか思い当たる節があって、その一つがこみち自身のことで、もう一つが叔母の今後に関連する悩みです。

年末、父が注文したという通販サイトの商品が届きました。

「何これ?」

家族からの追求に、「家族のためだから」と説明し、しかも代金を家族全員でプールしている預金から出して欲しいと言ったのです。

父親以外の誰もが反対し、それ以上に叔母の今後のことで100万円近い出費が予定されている中、未だに身勝手な行動をしてしまう態度に心底落胆をしました。

しかも、父親自身としては表向きの持ち金は無いと言い張り、でもちょこちょこと自分用の物を購入していることは分かっていて、妻にも以前から欲しいと言われていた物も我慢してもらっている状況です。

というのも、以前と変わらない生活を見せると、父親は敏感に察知して、自身の生活を変えようとしません。

どこか、困ればこみち夫婦で乗り越えると思っているような節があるのです。

少額ではありますが、今年も父親にお年玉を渡したのは、決して生活に困っていないからではなく、叔母の件で少なからず家族の雰囲気が悪くなったので、気持ちを明るくして欲しいと考えてのことでした。

しかし、昨夜も家族会議で父親は自身の気持ちや見通しを全く話しません。

母親も、「私たちはもう年を取っているから、お二人におまかせします!」と言い出します。

「ちょっと待って。それはだめだ。四人で考えよう」と慌てて否定したものの、本来なら父親が主となって叔母の今後を対処して欲しいくらいです。

しかし、最近の父親は、というよりも父親という人間は、自分のことには熱心でも、家族の気持ちを親身に考えるタイプではなかったので、叔母の件で自分から動くなど想像できません。

今朝も5時に起きてこみちが4人分の朝食を作ったのですが、父親はいつも出来上がった頃に顔を出し、当たり前のように食べてテレビを見て過ごす生活です。

妻も母親も、こみちも仕事があるので、父親にいつまでも小言を言っている時間はなく、結局は何も変化しない、でも叔母の件はどんどん迫っていて、そのモヤモヤした雰囲気を家族の誰もが明確ではなく、無意識にストレスとして感じています。

あれこれと予定を立てて、夫婦で貯めたお金を当たり前のように差し出すしかないというのは、金額以上に気持ちが切なくなってしまいます。

しかもそれを妻に説明することもできず、落ち込む妻を見てどうしたものかとこみちも不安感に襲われるのです。

在宅介護とは何か?

まず、施設介護を受けるには、月額10万円以上の余裕がないと難しいでしょう。

その時点で施設介護は諦めるしかありません。

つまり、在宅介護が始まります。

では在宅介護で一番の問題とはなんでしょうか。

現役介護士でもあるこみちからすれば、オムツ交換のような介助ではなく、先の見えない不安感です。

今、父親は無職。主な収入源は年金だけです。

そして、その年金額だけでは補えない暮らしを続けていて、それは母親からの援助とこみち夫婦からの支援で賄われています。

家族のために定まった家事などの義務を持たないで、食事などを当たり前のように食べている状況は、本人はまだ気づいていないかもしれませんが、既に「在宅介護」が始まっています。

父親自身の医療費の負担が増えた時に、誰が支払うのかと想像すると、正直、こみち自身は何のために働き、生きているのかさえ分かりません。

少なくとも、父親が母親を労い、家事にも関心を寄せてくれればいいのですが、「オレは膝が痛い。お前には分からないだろう!!」と母親に詰め寄る姿を見て、もどかしい気持ちだけが家族に残ってしまいます。

こみち家の場合、今は父親を3人で支える形ですが、これが母親も向こう側になり、夫婦に重くのし掛かるようになれば、妻にも申し訳ない気持ちが増してしまうのです。

在宅介護とは、精神的な面がとても厄介で、時に生きる気力とか未来を望まない苦しみと向き合わなければいけません。

100円ショップで購入した1000円のワイヤレスイヤホンで、音楽を頻繁に聴きたくなるのも、聴いている時は悩みを忘れられるからです。

「もっと良い音で聴けるイヤホンが欲しいなぁ」

そんな気持ちになっても、今は一万円でも節約しなければいけない時期。

本当に仕事をしている時でしか安心出来なくなってきました。

そうでもしないと、テレビを見入っている父親の背中が浮かんで来て、それはモヤモヤした不安感の象徴にもなっています。

働かなくなってしまうと、人は他人から面倒な存在になってしまいます。

ただ他人なら、放置すればいい話ですが、家族という存在や見過ごせない小さな良心が邪魔をして、心配してしまうのです。

自身が生きることをできなくなったという事実は、ある意味で介護を必要としている状況なのですが、介護福祉士の勉強では個人の尊厳や自立支援を求められるものの、実際には介護しなければいけない家族の負担や不安、ストレスまでは積極的に想定されていません。

「介護してもらうためにこれまでどう生きて来たのか?」

こみち自身を含めて、心底、ため息が出てしまいそうです。