本当の自分を知っていますか?
例えば、血液型占いみたいなもので、「〇〇型だから…」とその特徴が自身に当てはまっていたりしなかったりした経験はありませんか。
ある意味で、何かを指摘されたことで、自身にそんな特徴があるのかと初めて気づくことがあります。
というのも、どんな長所も短所もその人にとっては当たり前のことで、他人と比較して初めてそれがどんな特徴なのかを知るからです。
時にそれが自信になったり、またコンプレックスになることもありますが、長所だから、短所だからという範疇ではなく、自身の個性をしていかせれば有益な特徴ですし、活かせない時には折角の個性も封印されてしまいます。
その意味で、こみちは自身のことをエンパスやエンパス気質と感じたことがありませんでした。
そもそも、エンパスという言葉の存在を知らなかったくらいです。
ネットなどで検索すると、エンパス気質がある人の特徴がいくつか挙げられていて、それに何個該当したのかで簡易的なチェックができたりします。
確かに、エンパス傾向に無いとは診断されませんが、チェック項目のいくつかを見て、「こんなのみんなもそうなのでは?」と思ってしまうものも少なくありません。
例えば、人の話を聞いている内に、自身の体験なのか分からなくなるというものがあって、他人の話を理解するためには、そこで出てきたワードを知っていなければ不可能です。
さらに言えば、ワードに関連する情報や知識も問われるでしょう。
そんな風に複合的に理解しながら話を聞いていると、大体は「〇〇の時と同じような状況だったのかもしれない」と、断片的に理解しやすい類似体験が無意識に脳内で照合されて、理解を深めて行くものでしょう。
つまり、全く想像すらできないような話では、事実として客観的に受け取ることしかできないので、そこに感情さえも起こりません。
でもこれってこみちだけに起こる話ではなく、誰もが手法や程度は異なるにしても同じような処理をしているはずです。
言い換えれば、その時の照合が不十分だと話をしっかりと理解できていませんし、より深く理解できたなら当然ですが言葉にしていない感情さえも探ることができるでしょう。
というのも、先日、妻から「コーヒー飲む?」と訊かれました。
その数分前、こみちは少し怒っていて、家族と離れた場所に移動して来たばかりでした。
妻の何気ない表情を見た時、わずかですが唇がいつもより緊張していて、ふと「もしかして、わざわざ声を掛けてくれたのではないか?」と勘が働きました。
その時はあえて「どうだったの?」とは確実していませんが、態度や表情を見れば誰だって気持ちを口で聞かなくてもある程度は分かるはずですし、特に前後関係を考えればさらにその言動の背景が見えてきます。
でも、これって誰にでも起こることではないですか。
もしかして、こみちが当たり前のように出掛ける前にお腹が痛くなったり、試験会場で気持ちが舞い上がってしまうのは、周囲の反応を過敏に受け取ってしまうからでしょうか。
程度こそ違っても、誰だって同じように気持ちがブレるのは経験済みだと思ってしまいます。
ただ、妻の表情を見て、「もしかして」と感じた時に、これがエンパス気質だとしたら、みんなは気づかないことなのかもしれないと思ったのです。
というのも、今の職場で気の合わない先輩介護士がいて、「本当に何で?」と思うほど、感情を逆撫でします。
「〇〇をして!」
今、その方向に向かっているでしょう?と内心では思うのですが、歩いて行った方向だけでは分からないのかもしれません。
だから、毎回、「だから向かっているでしょう!!」と思うのですが、それを毎回指摘されて何となく気分が悪くなります。
むしろ、向かっている「気」を感じて、「〇〇して」と思い付いたのではないかと思ってしまうくらいです。
なぜって、その時間にその方向に向かうって、もうそれしか無いでしょうと思うからです。
こみちがエンパスなら
正直なところ、介護士をするならエンパスは向いていません。
逆に分かりすぎて、疲れてしまうからです。
当たり前ですが、人が喜んでくれる条件というものがあって、それに近いと相手は穏やかな気持ちでいられます。
逆にそこに遠く、また近づいていない状況では、どうしてもイライラとなるでしょう。
でも、10名の利用者全てを満足できる状況にはできません。
そんなことを一人でしようものなら、疲れ果ててしまいます。
この前、ADOさんの曲をこのブログで紹介しました。
流行ったのはもうかなり前で、妻には「今?」と笑われますが、今どハマりして時間があるとずっと聴いています。
音楽を熱心に聴くように、小説を何冊も連続して読んだりするのは、自分の感情をコントロールしたいと思うからです。
聴きたいと思う音楽を聴くと、乱れた感情が整理されるように感じ、例えばADOさんの曲が今のこみちを癒してくれるのです。