介護士だから考える「生きる」ことへの理解

 介護士として高齢の利用者と接する中で感じること

中高年と呼ばれる年代になると、耳が遠くなったり、老眼になったり、集中力や持続力が衰えたりして、「老い」を実感するでしょう。

つまり、そんな中高年からさらに20年くらい歳を重ねた高齢者は、そのような症状をより強く感じるでしょうし、人生の結末をもっと身近に感じるはずです。

40歳の自分と、50歳になった自分でも違うでしょうし、70歳80歳になれば、その時に思い描くこれからの夢も変化するはずです。

実際、現役の介護士として施設で働いてみて思うのは、「利用者がこの日常に満足しているのだろうか?」ということです。

何も、重箱の隅を突くような話を言っているのではありません。

自分で一人暮らしできない状況になったのなら、ある意味で安全面や健康管理などを考慮して入所するのは悪い選択とは思いません。

しかし、自身では一人暮らしを望んでいるのに、半ば強制的に施設入所に追いやられることは本人にとっても不本意でしょう。

「自分らしく暮らしたい」

誰もがそんな願望を持ち、そのためには仕事をして経済活動を行い、また義務や役割を果たすことで実現できるのかもしれません。

しかし、老いることでその役割も不十分となり、いつしか主要なポジションから外されてしまっては、結果的に「自分らしく生きること」を奪われてしまっているのかもしれません。

施設運営で簡単にできることと実現が困難なことがある

施設運営を始める際、新しい建物を作ることは比較的簡単です。

同時に間取りや水回り環境など、建設関連も割合実現しやすい目標です。

では、何が大変で、どこに施設の評価が現れるのかというと、「スタッフの育成」に尽きると感じます。

スタッフの育成というと、現場スタッフを思い浮かべるかもしれませんが、施設長をはじめとした全スタッフであり、さらに言えば経営母体となっている施設や組織にも及ぶでしょう。

特に末端の現場スタッフでは、それこそ時間給計算で1000円と1200円、1400円、2000円、3000円といった具合に分けるなら、その単価給に見合った人材しか集まらないことも忘れてはいけません。

つまり、施設運営では、よりスタッフの育成に力注ぐなら、同時にそれに見合う報酬を提示しなければ絵に描いた餅でしかありません。

稀に経験を積むために安い単価を知りながら、働いているスタッフもいるでしょうが、彼らはいずれ自身が希望する条件に異動するでしょう。

結局、残っていく人材は給料に見合う人材だけで、多くが1000円相当なら、それ以上のサービスを提供できるはずがありません。

つまり、介護施設を運営する場合、介護報酬以外の収益をどのように獲得していけるかがポイントなのです。

それはつまり「介護される側になっても、自分らしくを忘れない」ということです。

簡単に思えるかもしれませんが、施設に入れば施設のスケジュールに管理され、いつしか利用者主体ではなく、施設主体のライフスタイルになってしまいます。

苦渋の決断を家族会議で報告

入院している叔母の施設探しを経験し、分かったことは、家族と行政の距離感です。

行政は、家族が動くほど、距離を取って見守ります。

一方で、家族が無理をしても、そこにストップも掛けません。

つまり、家族が動くほど、頑張れば頑張るほど、利用者の介護から手を放してしまいます。

自宅介護で家族の介護に疲れたなら、「もう自分だけでは無理です!」と意思表示を示さないと、誰も手助けしてくれません。

そして、今回、さまざまな理由や経緯もあって、こみちは叔母の施設探しを行政に依頼しました。

例えば、無理をして叔母をサポートするために、経済的にも時間的にも負担量を増やしていけば、当然ですが叔母の介護はより充実します。

一方で、両親の介護ではどうでしょうか。

さらに、自身のキャリアアップはどうなってしまうでしょうか。

こみちが80代になり、仕事を続けるのが難しい年齢になって、例えば叔母や両親を支援しても、自身が助けてもらえるとは限りません。

なぜなら、介護や支援は見返りとは無縁だからです。

でも老いてくれば誰しもが必要になることで、だからこそどこまで関わればいいのかを判断するには、「生きる」に対する考え方が必要です。

不自由でも安全に暮らせればいいという人と、自分らしく生きられない人生などいらないという人では、生きるに対する考え方が大きく異なります。

ある意味で、介護士はそんな様々な価値観や人生観に寄り添うことが求められていて、だからこそこみちは叔母にとって心地よい方法になればと意思表示しました。

つまり、手を出すほどに叔母は行政から支援を受けることができず、さらに我々こみちたちによって望まない生活を強制してしまうでしょう。

一方で、叔母から手を引いたと、両親に伝えると、少し面白い反応がありました。

それは、叔母の立場を悲しんだりせず、むしろ自分たちの平穏が戻ってきたと喜んでいます。

どうにも我慢できず、「人を手放すことの重さに気づいて」と伝えても、まだまだ老いた人間の境地を両親は感じていないようです。

特に高齢者はちょっとしたきっかけで、これまでの生活を奪われてしまいます。

だからこそ、中高年の頃以上に毎日を充実させるべきなのです。

しかし、そんな願いも当たり前に伝わるものではありません。

何よりも両親は叔母の施設探しになどとっくに興味を失せているからです。

自分たちの時に、どんな気持ちになるのかは、その時になって初めて感じるものと捉えているのでしょう。

そうでも思わないと、老いる恐怖に堪えられないのかもしれません。

でも、人が人を手放す虚しさに少しは気づいて欲しいと思いました。

大切な兄妹の面倒さえ見られないことに、少しは胸を痛めて欲しいと思ったからです。

今日、一つの決断をして、問題が解決できることもあります。

でもその苦しい決断を、父親と母親にも感じて欲しかったです。

なぜなら、誰しも人を置き去りにすることは辛いもので、でもそうすることでしか得られない未来があるからです。

その決断を果たすには、人力を尽くしたという覚悟がないと心に深い傷が残ります。

両親にはこみちの気持ちは届いていませんが、それもまた「生きる」ことなのでしょう。