介護とは何か?
「介護」というと、オムツ交換というイメージを思い浮かべる人もいるでしょう。
確かに間違いではありません。
しかし、叔母の介護施設探しを始めて、両親の対応を見て、「介護」とは何かを考えさせられました。
こみち自身、介護とは「懐中電灯」のようなものとイメージしています。
つまり、部屋の明かりを点けられれば、どこに何があるのか見渡せます。
もう少し言えば、家具の配置次第でライフスタイルや利便性に影響が出て来ます。
しかしその段階は「次」のことで、まずは「どれだけ見渡せるのか?」がポイントなのです。
その意味で「懐中電灯」といったのですが、眩しいくらい明るくても照らせる範囲が狭いと、「見た景色」を記憶出来なきと、探しているものや物の配置も具体的把握できません。
老化とは、その照らせる範囲が段々と狭くなって行くことなのです。
若い世代から見れば、もたもたしているように感じてしまうのも、把握できる情報量が少なく、その処理にも時間が掛かってしまうからでしょう。
これはこみち家で起こった話。
テレビの通販番組を見て、勝手に父親がある商品の購入を申し込みました。
その後、支払い明細が届き、母親も購入を知ったという状況です。
しかし、母親にするとATMを使っての振り込みが分からないらしく、父親に頼みたいものの、父親にすれば足が痛いからと母親に押し付けます。
本来なら、夫婦間の話ですが、母親はこみちの嫁に相談し、それが巡ってこみちの耳にも届きます。
ここで思うのが、夫婦間、又は個人のこととして状況を済ませることができなくなると「介護状態」というわけです。
なぜなら、こみちや妻が、母親に「お父さんに言えば?」というと、「足が悪いから無理だよ」と返ってくるでしょう。
つまり、「お父さん=足が悪い」が母親に見えている視野で、「どうすればお父さんが動くのか?」「足はどうすれば痛くないのか?」という部分まで含まれません。
最近、何かする時、「とりあえず」が増えてきました。
「振込できないなら、コンビニ支払いにしてもらおう」とつながらず、「振込なんてできない」となったまま問題が停滞します。
時に、もう終わっていると思った昔のことを父親や母親が言い出して、「あの時の話でしょう?」と昔話のつもりで耳を傾けると、手付かずのまま放置されていたということも起こり得ます。
このブログ記事を読んでくださる方ならご存知だと思いますが、叔母の介護施設探しは今も継続中です。
しかし、こみちが動き出してからは、父親は相変わらずテレビ鑑賞の毎日で、母親もそんな父親にイライラしているものの、施設探しに関しては「過去の話」になっています。
これが両親の介護の始まりとも言え、以前考えていた「介護とは?」のイメージとは異なります。
つまり、以前はできていた社会的な手続きが処理できなくってくると、「老い」が迫っているということです。
父親のように、テレビ鑑賞と食事、トイレやお風呂に一人でもできるだけでは、自宅介護と区別できません。
それこそ、短時間でも週に一回でも社会とつながる労働や参加がなくなってしまうと、それは介護の入り口まで迫っているでしょう。