改めて考える「人」としての尊厳とは?

 きっかけは勤務している施設にいるある利用者

こみち自身のイメージとして、標準的な人が認識している世界観が0から100というスケールであるなら、施設にいる利用者は0から30とか、50から100など、多くは以前よりも狭くなった世界に進む。

多くの人は、失われた31から100まで、0から49までを思い出し、利用者の多くは以前よりも「認識が狭くなった」と感じだろう。

しかし、「失われた」部分ではなく、「切り捨てた」と考えるべきで、使いこなしていた外国語でも、しばらく使っていなければ、やがて段々と記憶から失われてしまい、記憶から排除されてしまうことがある。

つまり、生活が変わり、必要としなくなって認識は、時とともに変化するものなのだ。

実は、勤務している利用者の一人が、日に日に扱いづらい存在となっている。

介護スタッフへの暴言がふえ、居室への立ち入りや身体に触れることを異常に拒む。

以前はトイレ誘導もできたが、今は肩や腕に触れることさえできない。

一方で、トイレが正常に行えずに、便座の周辺が汚れている。

少し異様に見えるほど、床にまき広げられたトイレットペーパーが異様に見える。

この利用者のことではないが、認知症について試験勉強をしている時に「前頭側頭型認知症」と呼ばれるタイプがある。

特に感じるのは、ピック病と呼ばれる病気である。

他の認知症と比べて、何が決定的に異なるのか詳しい知識をこみちは持ち合わせていないが、その攻撃性には介護する者を悩ませるだろう。

日に日に、というか以前はできていたことが、いつの間にか出来なくなってしまうことを体験し、認知症の進行で脳内では何が起こっているのだろうかと思う。

というのも、表面的に失われて見える部分も、実は今の生活に必要な範囲に変更されただけで、実はより感覚としては細やかになり、敏感になっているのではないかと理解しているからだ。

脳内の情報伝達が神経細胞の活動で行われているとするなら、それこそ神経細胞が病変し、欠落してしまうと、これまでとは異なる感覚や感情に変化するのも当然だろう。

それにしても、介護力は信頼関係が不可欠だ。

それこそ、認知症の利用者に対してはできる限り早い段階で、敵ではないことを伝えておきたい。

「〇〇さんは、何が好きなの?」

そんなコミュニケーションさえ出来なくなってしまうのは、介護環境としてはかなり末期的な局面を迎えてはいないだろうか。

目と目が合っただけで、手であしらわれ、距離を縮めることさえ許してくれない。

そんな関係になってしまうと、もう自宅に帰ることもできないだろう。

前頭葉の領域から側頭葉へと神経細胞の変位が進めば、言語や聴覚についても以前とは異なる感覚を利用者は得るだろう。

場合によっては、利用者自身が日本語を話せていないことも気づかないかもしれない。

介護スタッフからは、言葉としての原型が失われて、単なる音として耳にするのかもしれない。

異様性や異常性が増していく利用者を見ていると、その人の脳内で何が起きているのか気になる。

単なる介護スタッフの不誠実さだけで、今の態度が作られたとは考え難い。

人の理性や感情をコントロールしている脳の情報伝達が、これまでとは異なることになったなら、ある意味での人格変化が起こり、気づけば以前のその人らしさは失われ、残された唯一の部分だけが特徴となっていくだろう。

潔癖でリーダーシップに長けた人は、他人のミスを受け付けない独裁的な振る舞いへと変化する。

改めて思うのは、「学ぶ」ことでものの見え方が変わるということ。

その利用者を見て、扱いづらい存在と思うのではなく、その人に何が起きているのかを理解しようとすれば、異なる対処法があったと気づけた。

大脳全体が萎縮してしまった時に、人は一体lどんな風に変化してしまうのだろうか。

身体に触れることも許してはくれない状況で、入浴介助を行うスタッフは、かなり肉体的にも精神的にも大きな負担を感じている。

この利用者に関しては、医療的なケアも必要に応じて検討しなければいけない時期が来るだろう。