「苦しい」は人それぞれ違うけれど
思えば、こみち自身も「苦しい」と感じていた時代がありました。
今だって、介護士として「職」を得ていますが、この先も継続できるかは微妙です。
だからといって介護士の仕事を安易に切ってしまうと、収入を得られる選択肢を失うことにもなります。
「行きたくない」「辛い」と感じても、今はまだ介護の仕事を続けることがいいと思います。
なぜ、介護の仕事が「苦しい」のか?
スタッフの異動や退職も重なり、職場の雰囲気が少しずつ変化しています。
特に悪習だったサービス残業の時間が減り、勤務後に早く帰ることができるようになりました。
それまでは、職場が落ち着くまでと15分くらいの見えないサービス残業が当たり前だったのです。
本来なら、今の質を維持させるつもりなら「人員を増やす」しかありません。
またはサービス残業を継続して、疲弊している今の人員で回すことになるでしょう。
堪えきれない人は辞職し、新たな採用が決まるまではスタッフの負担はさらに掛かって、利用者へのサービスも低下します。
こみちが一番苦しいのは、仕事の大変さ以上に利用者を放置している状況が増えていることです。
介護士に命じられたスケジュールをこなすことで手一杯になり、利用者からお願いされても応じることが難しくて、「今は無理だよ!」という表情で働く自分や他のスタッフを見ると、施設で暮らす利用者にすれば、どれだけ「切ない」ことでしょう。
以前は、無理すればできた状況も、どんどん厳しくなって、何から削れるかを考えることが心情的に虚しくて、気が重くなってしまいます。
誰得なのか?
思うに、ビジネスで成功する人としない人の差は、「誰得」をどこに置けるかではないかと思います。
あくまでも仮説の話ですが、介護士の仕事でスタッフが「得」をしたいなら、回りが負担を強いる状況にすれば良いのです。
よくあるフレーズとしては「原則」という枠組みを決めて、それをスタッフの仕事と定めて、イレギュラーや突発的な案件は状況に応じる体制にします。
「申し訳ないですが…」「仕方ないですね…」という関係が出来上がります。
一方で今の職場では、「〇〇して欲しい!」「申し訳ないないですが、少しお待ちいただけませんか?」という流れです。
つまり、謙るのはスタッフなので、できないことや遅れてしまうことに「謝罪や弁解」をしなければいけません。
ただ、いわゆる「上」とか「下」ということだけでは考えていません。
こみちが高齢者になって施設で暮らすことになった時に、どんな気持ちになるだろうと想像すると、周囲から邪魔者にされていると感じることが一番辛いと思うのです。
「またトイレですか?」
この「また」のひと言が、利用者を傷つけてしまいます。
だからこそ、「申し訳ありません」とスタッフであるこみちは率先して謝罪します。
良いか悪いかではなく、少しでも「自分らしく」を保てるようにしてあげたいからです。
実際、こみちよりも寝たりたり誘導したりが早いスタッフがいます。
テクニックも凄いですが、「時間がないから」と利用者を煽りながら急かさせます。
確かにスタッフとしてはスケジュールが片付けばそれだけ負担も減ります。
何より、作業の早いスタッフは、「もうこみちスタイルでは無理」と思うからこそ、手法を変えたのでしょう。
どこまで「削減するか?」は、異業種以上に介護の仕事では大きなポイントです。
仕事場で、いつも利用者使った食器をキッチンのシンク内に放置していくスタッフがいます。
コップ一個とか二個の話ですが、「きっとまとめて洗った方が効率的」とでも考えているのでしょう。
しかし、洗うのはその人ではありません。
毎回、こみちや別のスタッフなのです。
つまり、「誰得」で言えば「放置しているスタッフ」となるでしょう。
使ったまま補充しない。元の場所に戻さない。
面倒な仕事は気づかないふりをする。
そんな仕事の仕方が増えてしまうと、気づいた人はいつも以上に追加作業を抱えるのです。
休み明けに職場に出て、「よろしくお願いします」と利用者に声掛けすると、いつもちょっとした異変を感じます。
あからさまに機嫌が悪い人や、必死で話しかけてくる人、大人しく黙り込んでしまっている人など、前回の勤務中に感じていた印象ではありません。
「元気でしたか?」「ご飯は食べられていますか?」「良い天気ですね」などなど、話し掛けて個々に様子を確認しながら、特に気になる利用者には時間を置いてからまた接するようにしています。
それさえもできないのが、人員不足の職場です。
個々のことなど構っていられないので、通常の業務を淡々とこなすことに、こみちとしては気持ちが沈んでしまいます。
出勤しても、業務をこなすだけで、利用者のことに時間を割けない。
働いている意味があるのかと落ち込みます。
でも、この場合でも利用者の家族などは利用料金は掛かりますが、お金で自身の時間を買うことができています。
そんな利用者家族と面会した時に、「うちの親、元気そうね!」「〇〇さん、一緒に歌を歌って過ごされました」「ヘェ〜」というような会話をしながら、介護士は高齢者になった利用者だけでなく、自分と同年代の利用者家族に対しても同じように尽くしてしまいます。
客だからというなら、異業種のようにサービス内容に沿った業務でも良いはずです。
あくまでも高齢者で入所された人が、自宅では支えられない事情があって施設に来ていると思うからこそ、介護士として少しでも役立ちたいというスタンスです。
しかし、中にはスタッフの仕事に不満を持つ人や、もっと仕事をして欲しいと訴える利用者家族もいます。
「申し訳ありません」と言いつつも、現場スタッフは意図的に手を抜いている訳ではありません。
でもそんな説明をしても、「そうでしたか?」とはならないでしょう。
「こっちは利用料金を支払っている」と思う方が先だからです。
誰が本当は得をしているのでしょう。
実は、みんなが得していないこともあります。
と言うのは、施設を時間を割いて訪れた利用者家族も、日々忙しい毎日を過ごされているはずです。
やっとの休日に施設を訪れることが負担でないはずはありません。
そこでスタッフから家族の様子を聞いて、「もう少し上手くやって欲しい」と思うことはあるはずです。
その時は客とか料金とかではなく、問題をこれ以上増やしたくないと言う気持ちからです。
同じようなことは、現場スタッフ同士でもあって、「どうしますか?」とすぐに聞いて来る人がいます。
その人にすれば判断できないからだと思うのですが、忙しい時ほど「自分で判断できないのか?」と思うものです。
介護の仕事は、誰得になっているのか分かりにくく、だからこそ真面目に考えると心が傷み、放置するとだいたいは言えない人や立場の弱い人が損しています。
なかなか苦しい状況を抜け出せません。
抜け出せるチャンスが来ても、そのチャンスに手を出せないことや、出すために誰かの「損」を必要としているとわかってしまうからです。
言い換えれば、自分が先に「得」を取れる人は、いろんな場面で損をしません。
でもそれは、周囲が支えてくれるからで、「あの人には理解できないだろう」と問題解決の人員から早々に外されているからです。
今朝のニュースで
またオレオレ詐欺が起きたことを報じていました。
受け子のスーツ姿の男性が、高齢者宅に現金を受け取りに現れたところを防犯カメラが撮影していたのですが、それって「誰得?」なのと感じます。
人は誰でも窮地になると正常な判断は難しくなります。
子どもを助けたい親の心情が、いつも事件の罠に引っ掛かります。
しかし、受け子として雇われた人だって、逮捕されるリスクは分かっているでしょう。
でもそうするしかない状況があるからこそ、危険と承知で加担したのです。
だからこそ、そんな受け子を刑事事件として訴えても、「誰得なのか?」と言う問題になります。
裁判になれば、動機や生い立ち、日頃の生活ぶりなどを勘案して、事件の量刑が決まります。
でも、二十歳を過ぎて、80代になった高齢者を相手に、騙してお金を持ち去れる精神をどうやって更生させることができるでしょう。
介護の仕事でも、残り時間と作業量が全く合わずに、しかも動けるのは限られたスタッフで、諦めて投げ出すか、必死で突き進むかの二択になることなど少なくありません。
そもそもで言えば、配置された人数と作業量がアンバランスで、それを割り振った管理者に問題があります。
しかし、問題に直面した状況で、「管理者が悪いからだ!」と騒いでも意味がありません。
それよりも、必死で解決した時に、「計画に無理がある」と見直せれば良いですが、さらに苦しい状況が頻発すれば、もう苦しい状況が日常化します。
職場としては望ましい状況ではありませんが、ある意味で仕事とはそう言う部分も含まれます。
ではなんで「受け子」になったのか。
介護士として頑張る気持ちで話を聞けば、「エエ?」と思うような理由を話してくれるかもしれません。
でも、当人には困難なことで、またはもっと別の解決策があったはずでも、そこに到達できません。
刑務所で、ただ規則正しい毎日をすごしいても、それだけで社会に戻れば、本当に必要んsことは知らないままになってしまいます。
大切なには、「考えること」として「相談できる信頼ある人」を作ることでしょう。
でもそれは、我々にだって難しく、なぜなら自分としては考えているし、相談できる人もいると疑わないからです。
しかし、本当の意味で「考えるとは何か?」相談できる相手は誰か?」となった時に、問うべき方法や相手を見つけないまま生きてしまう方が多いのです。
高齢者介護では、「加齢」による低下を見越して、どこを目標とするかが重要なポイントになります。
それだけ人が人を支えることは簡単ではありません。
弁護士の仕事や裁判官、検察官なども同様の悩みを抱えているはずです。
人はいいけど、根気がないと言う人は社会生活で上手い生きれません。
むしろ、少しずる賢くて、継続した生活を送れる人の方が生きやすいでしょう。
でも人間として、どちらが好ましいかというと難しく、支え合う社会があるなら、人がいいタイプも生きられるはずです。
しかし、親や兄弟、配偶者を失って、急に生活が荒んでしまうことも起こり得ます。
サラリーマン時代は良かったのに、独立して人生が狂うこともあります。
だからこそ、なかなか「苦しい」状況を抜け出せないのでしょう。