自分の存在価値を評価してみると

 本当に価値あるスキルとは何か?

例えば、介護老人保健施設の「施設長」になる条件をご存知だろうか。

一方で有料老人ホームの「施設長」はどうだろう。

介護老人保健施設の施設長に就任するには、原則として「医師」の資格が必要になる。

つまり、実際に医師として現役で働いているかどうかではなく、医師免許を持つことが「価値」になるのだ。

ある意味、資格を取得する目的の一つは、その資格を得ることで許されたり認められたりすることがあるからだ。

介護現場で働く人にとって、国家資格に位置付けられる「介護福祉士」にどんな利点が隠されているのだろう。

もっと簡単に取得できる初任者研修が有れば、実は介護施設で働くことができる。

細かなことを言うと「資格手当て」の部分で、月額数千円程度の差が生じることもある。

それでも、もともと介護スタッフの年収は平均で300万円台という報告もあるから、四大卒で社会人になった人なら大半の人は数年の内に超えられる金額かもしれない。

つまり、初任者研修だろうが介護福祉士だろうが、単純に稼ぐために「価値」という意味では、「四大卒」の方が評価される。

「大学を卒業する」ということは、単に専攻した分野を深く学べるだけではない。

社会保険労務士などの有力な「資格」を受ける受験資格を見比べても、大学を卒業していることで優遇されることは多い。

東大や京大のような国内でも難関校を出ていなくても、「大学」と名前がついていることで、社会的には「価値」を受けられる。

「若さ」という価値

中高年になって、20代や30代の若い世代を羨ましく思える。

それはつまり、「若さ」に価値があるからだ。

しかし、こみちにだって20代はあったけれど、その時は「若さ」の価値に気づいていなかった。

それくらい当たり前で、むしろ「若さ」が無くなるとも思っていなかった。

「若さ」には、社会的な意味での価値と肉体的な意味での価値に分類される。

社会的な意味では、30代から40代になって就活で「年齢」が採用される重要なポイントであることを知った。

肉体的な意味では、集中力や持続力が年齢と共に減少したし、「楽しむこと」が段々とできなくなるのも年齢と関係する。

若い頃なら「夢」もあるが、中高年になると「現実」ばかりの話が増えて、心から熱くなれるものがなくなってしまう。

そんな風に考えると、就活で年齢が問題視される理由は、職場の雰囲気をとっても、若い世代だけの場合と、中高年ばかりではかなり違うからだろう。

若々しく過ごすことは、それだけ大変で、俗に言う「若作り」ではなく、生き生きとした年の取り方ができる人は、「若さ」を失っていない。

スポーツ選手とコーチの関係

スポーツ選手として評価される人は、記録を残している。

他の選手では到達できない領域まで進むことができる人だ。

しかし、そんな選手だって段々と記録は落ちてしまうし、練習量もケガするリスクも全盛期を過ぎると変化してしまう。

だからこそ、現役にピリオドを打ち、引退を決意する。

一方でコーチになれる人は、優れた記録を残した選手ばかりではない。

むしろ、選手時代よりもコーチとして活躍する人も多い。

コーチに求められるのは「理にかなった指導」であり、優れた選手にはそんな理屈だけでは説明できない「才能」が必要とされる。

だからこそ、選手としてはトップになれなくても、名コーチと呼ばれる人が誕生するのだろう。

職業やポジション、同じ業界でも自分に合う合わないが存在し、でも合う仕事だけでは幅が広がっていかない。

言うなれば、選手として引退し、そのまま業界から離れてしまうような経緯にも通ずる。

いつかどんな名選手だって引退しなければいけない。

むしろ、素晴らしい選手だとしても、50年以上もトップで君臨するようなスポーツなら、他の選手が育っていないことに落胆を覚える。

健常者と障がい者

皆さんはパラリンピックをご覧になっていただろうか。

こみちとしては、「障がい」という括りの曖昧さや、逆に何かのハンデを受けて乗り越えた人の強さに気付かされた。

何より、こみちよりも凄いことを成し遂げる人に変わりないし、中高年になってこみち自身は目や耳、脳の機能が低下して、以前よりも不便を感じることが増えた。

車イスを使う人は、日常生活でちょっとした段差を気にするだろう。

しかし、それを回避する手段さえあれば、不便を感じることもないし、段差に困っていない人と同じ気持ちになれる。

こみち自身は「障がい」をそんな位置付けで考えている。

「そんな」とは、現状では「回避」できないことで障壁になっていることを指す。

つまり、自由に泳ぎ、走り、ジャンプできる環境があるなら、もう障がいという括りで考えることはなく、健常者とされる人でも自身の機能を制限してパラリンピックに参加できたらさらに身近な目標になるだろう。

結局、社会が勝手に「障がい」を作り出し、順応しないことで健常者と区別したがる。

でも、よくよくパラリンピックを見れば、一方的な健常者でもできないことを軽々とこなしてしまう。

走り幅跳びで7メートル以上もジャンプできる選手があるが、彼以上に飛べなくても「障がい」とは呼ばない。

ある意味、呼ぶか呼ばないかの問題で、本当は同じポテンシャルの人などいないのに、勝手にラインを引いてしまうのだろう。

利用者と介護士

高齢者になると、特に足腰が弱くなる。

足腰の機能低下は、行動範囲に関係し、交友関係をも変えてしまう。

さらに言えば、その人の暮らしや喜びさえも一変させるほどだ。

介護士として働くと、「老いること」の意味を知る。

何より老いた高齢者の気持ちに近づけば、どれだけ高齢者本人焦ったく感じながら生きているのかを考える。

「もう歳だから…」と段々と諦めてしまう姿を見て、いずれは自分にも同じような時が来ると悟る。

甘やかして欲しいのではない。でも、少しくらい時間が掛かっても、あからさまに迷惑そうな顔を見せないで欲しい。

なぜなら、高齢者の多くが、自身の焦ったさに気づいていて、そこに傷つき悩んで今を生きている。

なのに、そんな顔をされたなら、どれだけ深く心に悲しみとなって刺さるだろうか。

つまり、介護士が手を出すから利用者を甘やかしているのではなく、利用者の焦ったく感じながら不便に生きている時に支えればいい。

一人では立ち上がれない時でも、必要なタイミングでそっと手を貸してくれたら安心して立ち上がれる。

つまり、利用者は何もかも全部を任せたいのではなく、できないところや困難に感じることを支えてくれたらいい。

それを思うだけで、介護士の意識は変化する。