意外と説明しても理解されない「寄り添い」の本質

 人に尽くされることを「当たり前」と感じる人

「ギブアンドテイク」という言葉を聞いたことがない人は少ないだろう。

しかし、テイクは求めるがギブに対する方法を知らない人も多い。

「何かをしてあげる」とするなら、「親切にする」と思っている人もいる。

しかし、実は「犠牲を伴うこと」が大半で、余力でできることで「ギブ」になることは少ない。

つまり、苦しい時や助けて欲しい時のような状況でこそ「ギブ」は成立するのであって、自身のことを済ませた暇に何かすることではない。

わざわざ、あることのために遠回りしたり、一回で済む時に二度三度と繰り返したり、実はギブするのもかなりの負担だったりする。

それはつまり、誰から与えられた「テイク」でも同じで、誰かもまたわざわざ手間を掛けて「テイク」したのであって、「ついでに」と建前を言うこともあるが、結構煩わしいことを乗り越えた結果なのだ。

「寄り添い」とは何か?

介護士になると「寄り添い」を求めれる。

中には誤解して、単純に「優しくする」と認識してしまう。

その傾向が、介護現場でも多い。

また、「優しさ」を取り違えて、「甘やかす」になってしまうこともある。

そもそも「寄り添い」とは、相手の心に溜め込んだ感情に触れることであって、そのためには単に相手と向き合うだけでは不十分なことも多い。

特に初めて「寄り添い」を実践するような場合、いきなり相手と向き合っても、会話さえ続かないだろう。

なぜ会話が続かないのかというと、相手の関心ごとや興味あることを知らないのだから、同じことを話しても合わせられない状況が起こってしまう。

「寄り添い」を始める前に、いかにして相手となり得る環境を把握するかに尽きる。

例えば、行動範囲に制限がある場合、そもそも手段として選ぶことができない条件があることを意味している。

それさえ理解していなければ、相手の悩みを制限を超えた手段で解決できると思ってしまう。

「簡単ですよ! 手を放してみてください」

しかし、相手は転倒するからと簡単には手を放そうとしない。

「いいですか! 手を放すんですよ!!」

時に相手の悩みがちっぽけに感じ、寄り添っても解決できないと結論づけてしまうだろう。

「寄り添い」は難しくても「同情」ならできる!?

ここで指す「寄り添い」と「同情」の違いは、発展性の有無だろう。

つまり、「寄り添い」は相手の話を聞くことではなく、聞きながら問題の本質にまで興味を巡らせる。

しかし「同情」は、相手と同じ感情になること。

「そうですね」と頷くだけでも、相手は「同情」を感じられるかもしれない。

つまり、寄り添いには大きな負担が強いられるが、同情だけならもう少し気軽に、その場感覚だけでもできてしまう。

そこに如何なる難題が隠されているのかを考える必要もない。

正直、少し面倒に感じるタイミングで、何かをお願いされた時に、自身の都合を優先したら、寄り添いはもちろん、同情にもならない。

お願いの理由や動機を分析するには、寄り添いの発想が不可欠になる。

しかし、根本的な解決は難しくても、相手の目線になったり、そっと手を差し出すだけでも、同情になり得る。

「今はこれだけしかできないけど…」

もしもそんな風に説明してくれたら、例えば少し待たされたとしても大人なら待ってくれるだろう。

それを、「こっちだって忙しいのだから」と、自己都合を優先したような言動で対処すれば、もう同情にさえなっていない。

「寂しい人だ」と思って、同情さえできなくても「責めない」こと。

経験に乏しいなどから、逆に自由過ぎても戸惑うだけになる。