もしも登山に失敗したらどうなるのか?

 人生を「登山」に置き換えると

こみちは十代の頃よくいろいろなことを想像し、仮説を立てて空想を巡らせるような少年でした。

例えば、我々人間は自力で空を飛ぶことができません。

それゆえに「空」への憧れも強く、例えば「登山」をしてその山頂からの眺めに感動するのでしょう。

全ての物がまるで模型のような小ささで、つまりはどんなに大きくて動かないようなものでさえ、「上」から見ればそれはとても小さくて取るに足りないような存在だと気付かされます。

もしも絶対に「動かないもの」だったとしても、それを動かすことに人生を捧げるよりも、もっと大切にするべきことが「視野」を広げるとわかってきます。

例えば、ある学校で「いじめ」にあっている子どもがいて、どうにも学校に行くことができなかったとしたら、動きそうにない「障害物」をどうにかするよりも、もっと別の場所に目を向けて生きていけばいいと言えます。

つまり、日本国内から世界に目を向けて、自分に合う場所で生きて行くことも悪い選択肢ではないでしょう。

これは社会人にも言えることで、ある会社に就職しても、その社風や雰囲気が肌に合わないなら無理して時間を浪費しなくてもいいように思います。

人生を登山に置き換えると、視野が広がることで気づくこともあります。

なぜ山に登るのか?

全ての人が「山」に登るわけではありません。

むしろ、「山に登ること」は昭和の時代を象徴する行為かもしれません。

平成、令和と時代が移り変わり、昭和時代のような「熱」は必ずしも必要ではなくなりました。

例えば、「視野を広げる」ことで得られるのは、目の前のことや人も「空から見れば小さな存在」だと言うことです。

では実際に自分や山に登ってそれを確かめてみないと分からないことでしょうか。

逆を言えば、その手間や時間を「先人の知恵」として学び、別のことに人生を費やせるように変化したのです。

生涯所得が数億円と言われた時代もありますが、年収300万円とか250万円とか、それ以下だったとしても自分らしく生きることができているなら、本当に不幸なのかと言う議論にも注目しなければいけません。

昭和時代、大学進学や一流企業に入ることがある種のステータスでした。

いろいろな理由があると思いますが、例えば社会的な憧れや平均年収が高いとされていたことも理由でしょう。

しかし、今の時代、YouTube で当てた人はそれこそサラリーマンの年収以上を稼いでいるはずです。

しかも重要なことは、従来の働き方では考えられない仕事で稼ぐことができています。

それこそ、街を歩きその景色を撮影することが仕事になるのです。

つまり、以前なら当たり前のように言われてきた「視野を広げること」も、今となってはそれが唯一の選択肢とは言えなくなったのです。

そして、今の時代に「山に登ること」は、視野を広げることのためではなく、また別の目的や意味があるのでしょう。

だからこそ、視野を広げるために「山」を選択してはいけなくなりました。

つまり、以前ならそれが成功への近道だったのかもしれませんが、今では役目が違っているのです。

ある冒険家の命を守るために

昔、ある冒険家が自身の夢を叶えるために、ヨットで世界を巡る冒険に挑戦しました。

個人としては十分なトレーニングもつみ、あとは天候にさえ恵まれたら冒険が成功するかもしれないというところを迎えます。

例えば、世界で最も高いエベレスト山は、無料で入山することができないなど、危険もあって冒険にも資金が必要です。

しかも、頂上まで到達するにしても、その手前で天候回復を何日も待って挑むこともあるそうです。

そう考えると、ある一人の冒険家が思いつきでエベレスト山を登るなど無謀極まりない行為と言えます。

さて、話をヨットで世界を巡ることにした冒険家に戻すと、彼はその冒険に成功しませんでした。

そして、途中で冒険を断念するだけでなく、多くの優秀な人によって命懸けで救出され一名を取り留めることになったのです。

どれだけの人命と資金を掛けた救出劇だったのでしょうか。

「視野を広げること」や「夢を叶えること」は、人として生きるうえで大切なエッセンスです。

しかし、人生に於いて無くてはならないものではありません。

なぜなら、令和という時代になって、昭和時代とは大きく変化したものの1つが「体験」による優位性だからです。

つまり、現代における冒険とは、無謀な挑戦でもなければ、自己満足のために他人を巻き込むことでもありません。

何より、世界中を巡ることも、行ったことがないような国の日常に触れることも、手段を工夫すれば誰だって叶えられるからです。

むしろ、自己責任を超えて、「挑戦」を勇者のような気持ちで考えてしまう方が、昭和っぽい考えでしょう。

まして、失敗して人に助けられたことを忘れて、いつしか冒険という自己満足な行為を繰り返すことを我々はどう感じとるべきでしょうか。

令和の時代に生きるなら

人目を引くような行為は必要ではありません。

むしろ、淡々とした繰り返しの中に成功が隠れています。

例えば、前人未到の危険な冒険などは求めずに、前例ある成功体験を自身で分析し、さらにひと工夫を加えるくらいでいいのです。

生命を脅かすような行為は、今やバーチャルで体験可能です。

何より我々がそこで得たいのは「体験」であって、危険ではありません。

実際には想定外のことが起きて、命を脅かすようなことも、バーチャルなら危険なく体験できます。

それはつまり、宇宙旅行やエベレスト山登頂さえも特別なことではなく、ある意味で誰もが「体験」できてしまうことです。

だからこそ、既成事実に工夫を加えるスタイルでいいのです。

我々が成功を掴むには

未踏の地を探すことよりも、成功者を探すことが大切です。

そして、彼らがどうやって成功者になったのかを徹底的に調べましょう。

運やタイミング、人による引き立てがどれくらい影響しているかを調べれば、自分で再現できる可能性も予測できます。

そのタイミングだからということは、再び成功するとは言えません。

しかし、割と高い確率で成功できることも結構見つかります。

我々が成功するためには、何よりその成功体験を探すことなのです。