中高年の介護士が考える「もしも20歳に戻ったら」どう生きるか?

 本音を言うと

多分、時代が変わっても同じような歳を取り、老化が気になり出した中高年になっているでしょう。

良い意味で、こみちはバブル期を体験していますし、当時の活気や夢が叶うという信念も信じられた時代を生きてきました。

その意味では、夢を掲げることに戸惑いはありませんし、それに向かって努力することも変わることはないでしょう。

今にして思えば、寝言にしてももう少し現実味のあることを言えと言われそうですが、当時のこみちはアメリカのマサチューセッツ工科大学に強く憧れていて、それは当時NHKで放送されていたロボットを作って対戦する大会に出場されていた学生たちの楽しそうな雰囲気に感動したからです。

単純にロボットを自作するというだけなら、今からでも始められることですし、SNSを駆使すれば仲間を募ることもできるでしょう。

しかし、当時のこみちが憧れたのは、世界各国から集まった学生が、片言でも言語を使い自身の考えや行動を通じて、仲間や社会と関係を築いていく姿に惹かれたからでした。

今になれば、都内の地下鉄にも乗れますし、東京タワーにも登ったことがあって、それは田舎育ちの少年だったこみちにすればすごいことなのです。

もしも大学でアメリカに行っていたなら、卒業後はまた別の国で働いているかもしれません。

もちろん、日本に戻って自分が望むような生き方ができる地を探しているでしょう。

そんな生き方は、少なくとも20代の内に同じように夢や希望も持った仲間と共に成長することで相乗効果も生まれます。

令和になった現代では、当時ならそんな方法しか思いつかなかったことも、別の方法で叶えることができるのかもしれません。

いずれにしても、当時はまだ二足歩行できるロボットに未来を感じていた時代で、ドローンやバク転までできるロボットなど想像でしかなかったことです。

東京での暮らしを覚えたものの、バイクで全国をツーリングして訪れたり、サラリーマンで出張したりして巡った国内もありますが、スケール感だけで言えば当時の夢には及びません。

もっと現実的な将来設計を考察すると

中高年になって分かることは、人生はそういつまでも続いてはくれないことです。

しかも「健康」を損ねれば、中高年でも一気に時間は喪失されます。

一方で、喪失されることを怖いと感じることもありますが、例えばあと100年生きられるとしても、生き方が変わるとは思えません。

つまり、今と同じ価値観を持って生きているでしょう。

楽しく暮らせる人は長生きをエンジョイできますが、人生に特別な意義を感じられない人は長生きも修行のように思えるかもしれません。

ただ、人生が80年前後なのだとすれば、個人差はあっても老いた時にできることは似たようなことです。

違うのは、毎日を喜べる気持ちを持てるかどうか。

つまり、他人に感謝できることに気づけるかとも言えます。

少し介護士という立場で触れるなら、現役時代に活躍していた人ほど、個性的ですし、他人の痛みにも敏感です。

一方で、感謝に気づかないまま年老いてしまうと、何か個性とは異なる「癖の強さ」が現れます。

助けられたことに感謝するよりも先に、不満や不平が口をついて、介護士としてはそれを含めて支えるのですが、内心では「どんな人生を送られたのだろうか?」と勝手な想像までしてしまいます。

仮説を立てるなら、誰もが不平不満を持つことは否めません。

しかし、その先に進むために、耐えることや我慢すること、さらには優先順位を下げるなどして、解決しています。

そこを実践し、体験しているかは大きなポイントではないでしょうか。

つまり、意義や理屈を理路整然と話すことは、老後に於いては重要ではありません。

若い頃なら、論破することを価値あるものと考えてしまいますが、持論も老化現象の前では無意味だからです。

正しいことが優先されるなら、そこを突き詰めることが人生の価値になるのですが、老化現象の本質を知るとそこばかりではないことも理解できます。

少し前なら他人様の排せつ物を処理することなどできそうにありませんでした。

実際、作業中に利用者から「嫌でしょ?」と言われたりします。

でも、それで利用者が気持ちよく生活できるなら良いと思いませんか。

そんな風に感じますし、作業そのものは大変ではありません。

むしろ、時間的な制約の中で終えなければいけない心理的なプレッシャーがあるだけです。

つまり、一日中オムツ交換だけの介護なら、体力は消耗しますがそれほど大変ではありません。

中高年から介護士を始めて思うのは、「どう老いていくべきか?」の答えを探すことです。

「快適な老後」という漠然とした言葉ほど無責任な言葉はありません。

なぜなら、「快適」のように心理的な要因を、まして利用者すべてに平等に提供するのは簡単ではないからです。

そこから先は、介護士一人の問題ではなく、介護業界が考えるべき大きな課題です。

結局のところ、現実的な将来設計を立てるにしても、ポイントになることは変わりません。

例えば若い世代であれば知らないこともあるはずで、そんな人でも信頼して働き続けられる会社に出会えたら、人生は豊かになるでしょう。

そのためには、理想的な経営だけではなく、若い世代から見ても興味深いと感じるきっかけを提供することです。

「黙ってついてくればいい!」というような上から目線の発想では、信頼できません。

その時に感じるのは、人生は実に平凡だということ。

面白いことができる人は、本当にすごい才能の持ち主だということです。

大人が見栄を張らずに、嘘もつかずに正直になれたら、若い世代も信頼できるでしょう。

しかし、こみちを含めて大人になると見栄を張り、大人独特の嘘で体裁を取り繕います。

だからこそ人間なのですが、場合によっては老害と言われたりもするでしょう。

そして、正しい手順を踏むことで、夢が叶うのは事実です。

叶わない理由があるとすれば、根本的に何か大きなミスをしているでしょう。

例えば、カラオケで100点満が取れたとしてもプロの歌手にはなれません。

理由は簡単で、その人を支えたいと思う人が現れるとは限らないからです。

つまり、技術は個人の鍛錬で克服できますが、人との縁は生まれ持った才能とも言える不思議な部分です。

そう考えると、東大に合格する方が、人気お笑い芸人になるよりも簡単かもしれません。

理由は適切な手段と努力によって可能性が高まるからです。

自分にどんな特徴があって、どこを伸ばすべきかを早く気づいて取り組めれば、それだけ夢は早く叶うでしょう。

逆に、いつまでも適正のない分野で努力を重ねても、なかなか結果に表れません。

でもそんな生き方も否定されるべきではありませんし、その経験が新たな生き方へと繋がることもあります。

こみちも人生に迷いつつ、自分らしく生きられる道を探しています。

今の行動が、どんな形であれ未来に繋がると嬉しいのですが。