中高年になって親との同居で覚悟すること

 生きてきた「時代」が違うということ

顕著に感じるのは、物に対する管理の仕方でしょう。

例えば物を捨てるタイミングにも現れます。

汚れて使えなくなった物でも捨てようとしません。

加えて、自分で整理してまとめてくれたらいいのですが、例えば古いタオルを雑巾として縫っていればいいものの、バケツ中に溜め込んでしまいます。

「これ、要らないでしょう?」

「使えるよ!」

「だったら丸めて放置しないで!」

そんな感覚の違いはよく起こります。

物が手に入らなかった時代を経験してこその行動と理解もできるのですが、「管理すること」までは繋がりません。

これも最近の話で、土用の丑の日に鰻を買うと言っていたら、買って来たのは飾り程度に添えられた微妙な感じの鰻弁当。

鰻そのものが好きではないらしく、でも土用の丑の日だからというモチベーションはあって、その結果が「鰻の入った弁当」になりました。

「安かった」

よく使う言葉ですが、品質を問わずに金額の大小で判断する傾向が強く、だったらお金を出すから鰻そのものを買って欲しいのです。

それが嫌なら、鰻以外でもいいので、なんだか虚しくなってしまう弁当を嬉しそうに食べる気にはなれません。

家で仕事をしている時、「風呂が空いたよ!」と部屋に現れます。

机に向かっているだけでは仕事をしていると思わないようで、何度も「風呂だよ!」と言い続けます。

「聴こえているし、返事もしたよ!」と仕事の手を止めて答えると、「聞こえなかった」と続きます。

以前、部屋にいる時でも仕事をしているから「気にしないで欲しい」と伝えたことがあります。

しかしまた最近になって「言わないと!」という思い込みが、後には引けない行動に突き進ませます。

その度に「大丈夫だから」と言っても、しばらくすれば元通りで、「風呂だよ!」が始まります。

もちろん、風呂ばかりではありません。

食べ終わった食器をテーブルに放置してテレビを見始めるので、「食器はもう使わないの?」と聞くと、「今、片付けるつもりだったのに!」と注意したことを顔をしかめて反論します。

放置するのは、コップ一つとか、お皿一枚とかで、なぜか最後の一個が片付きません。

洗面台の照明がついたままで、使うのだろうと一旦自分の部屋に戻っていると、「洗面所空いたよ」と言いにきます。

しかも、照明はついたまま。

「いつ使うか分からないから、消してもいいよ」というと、「使うと思って消さなかったのに」と少し不満顔です。

ゴミ出しもそう。

朝、食事をこみちたちがし始めると、「今日はゴミの日だから」とキッチンのゴミ箱をバカバカと開き、ゴミ袋をいじります。

以前も回収の時間はまだまだだから、「食事中はゴミを弄らないで欲しい」と言ったものの、もう記憶にないのか「忙しい」と一生懸命です。

時々、認知機能が低下しているのかとも心配ですが、部分的にはちゃっかりしていて、「ゴミが重いなぁ」と聞こえるようにつぶやきます。

「ゴミ出し大変なの?」

「重くて大変!」

食事も落ち着かない終了し、結局はゴミ出しの件がメインになります。

身体に油が悪いと思い込み、油も敷かずに焼き物をしたり、そうかと思えばスーパーで揚げ物をたくさん買ってきたりして、健康的な食事に気をつけているのか疑問にも思います。

時間があると食事を作ってくれたりもするのですが、肉は完全に火を通すものと思い込み、時にはゴムの板みたいだったりで、感覚が違い過ぎると時にため息が出ます。

興味深いのは、共同生活ではあっても、同居が介護の意味を含んでいるとは想像していないことでしょう。

夫婦だけの時には起きなかった複数のドレッシングが冷蔵庫に並んでいるのも、老夫婦には豊かさだったりするようです。

「一本でいいよ。マヨネーズやソースだってあるんだから」

もちろん、「そうだね」と言っても、習慣が変わることはありません。

施設で暮らす高齢者は共同生活を理解しています。

しかし、親の介護ではそうはいきません。

互いに譲り合おうと持ちかけても、結局は何も変わらずに親の生き方をそのまま受け入れるしかありません。

お腹が空くからとオヤツを買ってくれるのですが、揚げパンや甘いお菓子ということも常で、「そんなに食べない」と言っても、棚にはお菓子がいっぱい詰め込まれています。

「暑いからアイス買っておいた!」

「ああ、ありがとう」

要らないと言っても理解されず、ありがとうと言えばまた買ってくる。

そんな繰り返しだったりします。