本来なら「理屈」では通用しない時代!?
優しい人などいません。
高齢者だって、他の高齢者には冷たいのが基本です。
ではなぜそうなるのでしょうか。
「優しい」は、「寛容」から生まれるのではなく「強さ」から生まれます。
意外に感じることかもしれませんが、そもそも「優しくすること」は誰にでもできることではないのです。
多くの場合、「優しさ」は「依存」を誘います。
相手を手名付ける方法として、「優しさ」を利用する人だっているほどです。
例えば、ある国のスパイが、機密情報を得たい時に、映画で観るようなアクロバティックな作戦を取るのでしょうか。
その事情に詳しくはありませんが、ベースは「優しさ」を利用するのだと思います。
つまり、「優しくしてくれる」と印象付けることで、相手は心を開きます。
この基本的な人間の感情を利用するのでしょう。
時には少し判断ミスをして、いつもなら断ってしまうことも、優しい人だからと言う印象が「需要」に繋がることも珍しくありません。
それは男女の色恋でも同じで、ライバル関係にいる異性よりも、全く異なる立場にいた異性が肩肘を張らずにいられる相手に思えたら、それだけで「恋に落ちる」準備はできているでしょう。
もう少し触れるなら、恋と愛は異なります。
端的に言えば、恋は「自分が思うもの」で、愛は「相手が思うもの」だからです。
トキメキを求めるのは恋で、相手を思うのが愛です。
食事を作って「美味しい」を期待するのが恋ですが、健康的に満足してくれたらそれで十分なのが愛と言うわけです。
介護士の仕事で、「恋」的な優しさを演じる人は少なくありません。
一方で、本当に必要なことは「愛」であることに変わりありません。
しかし、「愛」はどれだけ相手を思うことができるのかになり、実はこれまで「愛されていない人」には分からない感情です。
こみちの「愛」の源は「誰もが平等」と言う考え方
こみちの母は、とても大人人です。
争うことを望まずに、もしもそうなったら「欲しいもの」でも譲ってしまうようなところがあります。
ただ、本当にコツコツと絶え間なく努力を続けられる人で、こみちも大人になってその強さに気付かされました。
大人であることや子どもであること。国籍や文化の違いで、扱いを変えることを好みません。
少し話は飛びますが、日本国憲法の14条に「平等権」が謳われていますが、その内容のベースは「同じ条件ならすべての人にも」と言う意味合いです。
つまり、ある人だから優遇すると言うことではなく、条件に合う人が受け取り、合わない人は受け取れないとすることで「平等」を保っています。
話をこみちの母に戻すと、彼女は大人と子どもを分けることがありませんでした。
お菓子を配る時、「子どもだから何個」ではなく「一人何個」と言う言い方をしていました。
そして、目の前に空の水筒が並んでいた時、必ず自分ではなく他人のものから水を注ぐのです。
不足や不良、不満は、公平に分けるのではなく、母自身が被ることが多かったです。
それを知って、こみちは自分と母の水筒があると、母を優先しましたし、これが他人だったとしても変わりませんでした。
そうやって母から「愛」を教えてもらったのです。
公平にできる人はたまに見かけますが、相手を想える人は滅多に見ません。
「愛すること」は、「愛されたこと」がないと、なかなか自発的に生まれる感情ではないのでしょう。
令和時代に愛は生まれない!?
もしも誰かを想って何かを優先しても、それを「愛」と感じて、別の誰かに優しくできる人は多く多くありません。
実は介護と言う愛がありそうな職場で、献身的な介護士や看護師を見かけることは稀で、愛を持って働いている人は意外なほど目立ちません。
なぜなら、自分のために動いているのではないので、「愛」を感じる瞬間はとても短く、気づかない人は見逃してしまいます。
例えば、「ラッキーだった」と思うことも、その場面を遡ると、誰かが気づいて譲ってくれたのかもしれないからです。
譲った方は、「ありがとう」を求めているのではなく、その相手が「困らない」ことが目的なのです。
日常生活では、「ありがとう」とさえ言われない前に、先読みして上手く行くように行動しているのが、愛ある人です。
その意味では、愛を感じるよりも、今日はラッキーだったと偶然を思う人が増えたように思います。
電車で空席に座れた時に、その数秒前に別の人が譲ってくれたことに気づいていなかったりします。
ただ、愛に疎くなる人が増えると、愛ではなく、優しい人は「ココどうぞ」とアピールする人になります。
「あの人が席を譲ってくれた。優しい人だ」と思えるのです。
愛を深く理解していると、それは愛ではなく「良い人」です。
見返りがないと良い人は動きませんから、「ありがとう」をとても期待しています。
しかし、本当はそっとして欲しかったと言うような場面でも、「ありがとう」欲しさに良い人ぶりをアピールしてきます。
こみちはそんな行為がとても面倒で、良い人が嫌いです。
しかし、良い人はありがとうと言われないことにとても敏感で、逆に優しくしたのに何も言わない非常識な人と相手を思うこともあります。
好きで手を出して、ありがとうを求められても、その度に「ありがとう」と言う方も大変です。
介護現場では、利用者の多くが「ありがとう」を言います。
こみちは「当然の事ですよ。むしろ、こちらの方がありがとうです」と言うほどです。
と言うのも、「何かした」に対してありがとうを言ってもらうのではなく、「これだけしか出来なかった」に対してありがとう(申し訳ない)と思うからです。
本当ならもっとしっかりとしてあげられるのに、どこか簡単に済ませてしまったことに申し訳なく、それでも不満を言わずにいてくれる寛容さにありがとうなのです。
ただ、もうそこまで愛を感じる人は少ないでしょう。
令和時代に、相手を想っても、ラッキーで終わる可能性が高いばかりか、職場でも良い人が誉められて、愛を捧げても何もしていない人に見られます。
だからと言って自分から「愛」をアピールできるでしょうか。
つまり、それだけ時代が変化し、全てにおいて「深い愛」を持つことはできません。
もう少し愛し方を変化させ、愛するべき人を愛し、優しくする人とは分けるべきです。
介護士になる利点
ビジネスとして介護士を考えると、分け隔てない愛を注げるのも特徴でしょう。
確かに、良い人はいても愛ある介護士は多くありませんし、あまりにいないことで悩んでいる介護士もいます。
そんな相手には「裏切り」は何よりご法度で、ズルは禁止です。
なぜなら、それだけ愛を注いでくれるので、母がしてくれたように「平等」を保つためです。
その意味では、異業種で行き詰まった人が介護士として働くメリットは多いはず。
愛を感じられる人は職場に増えれば、自然と職場も利用者も平和で穏やかな雰囲気になります。
その環境の良さを知れば、あえて介護士を目指す理由も生まれるでしょう。
ただ、今の介護業界は人手不足で、愛を実現する環境が整っているとは言いがたいです。
上手く人を使おうとする姿勢が見て、嫌になってしまうからです。
でもそれを乗り越えないと、愛ある職場にはなりません。
中高年の方で介護士を選ぶなら、それを目指して欲しいと思うのです。