他部署から逃げたして来た利用者
その利用者は、当時の担当部署でも手を焼いていた一人でした。
こみちとの出会いは数カ月前で、「助けてください!」と訴えフロアーに飛び込んで来た時です。
その後も「助けてください!」と訴え、後を追うように担当の介護士たちも姿を見せました。
すでにその利用者は精神的に動揺が見られ、とにかく腰掛けてもらうことと、すぐに連れ戻さないことにしたのです。
そんな騒動もしばらく経過し、ある日、フロアーリーダーから「〇〇さんが移動してくる」と聞きました。
名前を聞いても、その人があの時の利用者だとは思いません。
でも、別の介護士から噂を聞き、こみちも「あの人」だと気付いたのです。
実際に入所して
あの時に見せた利用者の慌てぶりなど、どこにも感じません。
何より穏やかで上品な人だったからです。
絵を描くことが好きで共通の話題にしていたのですが、ある日急に表情が変化し、「胸が苦しい」とあの時を思わせるような様子なったのです。
その時、こみちはいくつもの仕事を抱えていて、1分も余裕がありません。
でも、その表情を見れば、ここで放置はできないと思いました。
「ちょっと座りましょう」
落ち着かせる意味もあって利用者を座らせ、脇に腰掛けて様子を伺いながらゆっくりと声掛けました。
「どうかしましたか?」
「胸が苦しいんです。もうずっと我慢して来たから…」
残念ですが、その時点で利用者がどんな悩みを抱えているのか把握できていません。
「ここ(こみちが働くフロアー)にいると辛いですか?」
どんな反応を見せるのかと利用者を見ていると、「ここの人はとても親切です。でも、ずっと我慢して来たから。それに、何でここにいなければいけないのでしょうか?」と話してくれました。
利用者の話に出てくる「ここ」とは、「自宅ではない介護施設」だと気付いたのです。
もしかすると、介護施設に入所する際、十分な説明がなかったのかも知れません。
「家に帰りたいですか?」
「もちろんです。家に帰らせてください!!」
しかしながら、利用者を自宅に帰らせることはできません。
何よりも自宅では受け入れられない状況があったからです。
ですが、嘘だけで相手を納得させることが難しいとも思いました。
そこで、「今すぐに家に帰るのは難しいんです。すぐに家族が迎えに来ることもできませんから…」
「分かっています。帰れないですよね」
「そうですね。1つにはコロナウイルスの感性予防もあって、家族の面会も控えてもらっています。でも、それが解除されれば、また会いに来てくれるでしょう。ここで一緒に待ちませんか?」
こみちの説明かなり直球でした。
でも利用者は小さくうなづき、「分かりました」と言ってくれたのです。
絵を描く毎日
利用者は日中の大半を絵を描いて過ごしています。
部屋には大きなスケッチブックがあって、花などを精密に描くのです。
幸いこみちも絵が好きなので、「上手ですね!」とか、「この色、良いですね!」と感想を伝えます。
時にはスケッチブックを抱えて見せに来てくれることもあります。
帰宅願望とは何か?
家に帰りたいと訴える利用者は少なくありません。
施設でどんなに手厚くサポートしても、利用者の心をすべて包み込むことはできません。
不安もあるでしょうし、孤独感や疎外感もあるはずです。
でも利用者は人生の先輩であり、我々が思う以上に大人です。
できる限り分かる言葉で説明すれば、最後は「分かったよ!」と言ってくれるのです。
それはきっと、介護士と利用者の信頼関係が作りだすもので、言葉のうまさや誤魔化しではありません。
時には、個別に利用者とじっくり話をして、今の気持ち悩みも教えてもらいます。
時間にすれば20分くらいでしょうか。
それを利用者ごとに何人かずつ行いながら、彼らの不安を少しでも取り除けるようにしています。
幸い、その利用者もあの時のような表情は見せません。
無理して我慢していたら意味ないことですが、施設での生活にどこか居心地の良さを感じてくれたら、それは介護士としても達成感に繋がります。