もしかして「自分だけなのか?」と思う瞬間

 介護士として働いている人は多いけれど

こみちは自宅復帰を目的とした介護施設(老健)で介護士をしています。

そもそも介護士として働ける自信はありませんし、今も続いていることに我ながら驚いているくらいです。

当時を思い出して、介護士として働けないなと感じていたのは、「介護って何をするの?」という答えが分からなかったからです。

むしろ、医師や看護師のように目的がはっきりとしていて、それに対処することが仕事なら働きやすいと感じます。

ところが、介護士という仕事は、「これができないといけない」という必須条件もありませんし、「これができれた大活躍間違いなし!」という条件もありません。

その曖昧さ故に、例えばオムツ交換もトイレ誘導もできない人が介護士として働いていたり、常勤職員として夜勤までこなしているのに、利用者の呼び掛けを無視したりする介護士もいるほどです。

「トイレに行きたい!」

ある利用者が訴えたとしましょう。

大切なのは、トイレに行ったか行かなかったではなく、「なぜ、そのような応対をしたのか?」についてしっかりと利用者に説明することです。

当然のように感じますが、それを当然と感じない人も介護士として働いているのが現実です。

利用者の異変

こみちはこれまでにも健康だった利用者が段々と老いていく姿を見届けています。

ターミナルケアに入った利用者が、最期は水も口にしなくなる姿も見ました。

ある人は、それを寿命というでしょう。

しかし、人間には段階があって、あるタイミングで「老け込む」時があります。

そして、そのステップを下ると、もう上がることはありません。

以前は時がそのタイミングを告げるのだと思っていたのですが、どうやら不安や憤り、やるせ無さなど「マイナスの精神状態」が続くと早いペースで落ちるように感じます。

実をいうと、数日前からある利用者の異変が気になっていました。

そして、今日、その利用者に異変が起こったのです。

それに気づいて、こみちは声掛けをしましたが、以前のように笑ってはくれません。

それどころか、どこを見ているのかさえわからないほど、遠くに視線があります。

このままでは「利用者が落ちてしまう」と感じて、こみちは同僚に事情を説明し、時間を作ってもらいました。

少しでも向き合って話すことが大切だと感じたからです。

しかしながら、思うような結果は得られませんでした。

何よりも以前からこのブログに記載している先輩介護士が、スケジュールに沿った応対をするべきだと迫ってきたのです。

確かにこみちがその利用者と時間を過ごせば、日常の業務をその先輩も行わなければいけません。

ただそれだけの理由で、こみちは利用者との時間を中座することにしました。

その後、もう一度利用者に話しかけましたが、少し時が遅かったようです。

「もう私のことは放っておいてください!」

静かな拒絶反応があり、その後はもう顔すら向けてくれなくなりました。

看護師の見解の後

その利用者の容態を気にして、看護師が様子を確認に来ました。

先輩介護士が看護師の説明を聞き、「服薬している影響ではない」と伝えられました。

介護士は看護師の子分ではありません。

看護師には看護師の、介護士には介護士の、専門的な見解があって当然です。

というのも、容態と薬が関係しないと判断したのは看護師の見解であって、介護士はそれを踏まえて自分たちが行うケアを見つけ出すのが仕事です。

看護師の意見で、利用者の容態を認識して終わりではありません。

しかしながら、先輩介護士はもう事態を把握したような雰囲気で、利用者への興味を失ったように思います。

そんな応対が、時に利用者を一段、二段と老いさせてしまうことに気づいていないのか、気づかないふりをしているのか分かりません。

看護師も自身の見解を伝えたら、利用者にどう接して欲しいとは言ってきませんでした。

きっとこのまま誰もが手を伸ばさなければ、さらに利用者は老いているステップを1つまた1つと下るとでしょう。

そして気づけば、水も飲めない状況に陥り、まぶたを閉じることになります。

本当に早ければ2週間で、利用者の様子が激変します。

時々、「ワザとしてますか?」と聞きたくなるほどです。

満足度という言い方もできますが、信頼関係が失われると利用者は一気に老いて行きます。

コロナで家族に会えない時期だからこそ、せめて変わらない姿を見せたいのですが、それも叶わなかったように感じてしまいました。