想いを受け止める力

「 想いを受け止める力」を身につける必要性

これまで、介護士として働きながらいろいろと試行錯誤をしてきました。

一般的に必要とされる「寄り添い」も、「想いを受け止める力」に他なりません。

「誰かを好きになる」ことにきっかけは必要ないかもしれませんが、そこにはこれまでの経験同士が結びつき「相手に対する信頼や憧れ」が「好き」という形になったものでしょう。

「優しい言葉」を掛けることで相手は親しみを感じて心を開いてくれることがあります。

しかし、上部の優しさでは、その場こそ取り繕うことができますが、人に幸福感や安らぎを与えることはできません。

結局のところ、優しい言葉の正体は、相手が望む言葉を本能的に察することで、当然ですがその瞬間は相手が嬉しいと感じて心を開いてくれます。

しかし、そこに何もないと気づけば、再び心を開かないばかりか、最悪の場合には「優しい言葉」を本能的に拒絶し、想いを受け止めたいと望むときにも手遅れになったりします。

閉ざされた心は、さらに繊細な言葉を通じて、幸福感や安らぎにつながるような触れ合いがなければ、もう相手にも気持ちが伝わりません。

特に一度でも完全に閉ざされてしまうと、もう外部からこじ開けることは不可能で、むしろ「心」を再構築することになるでしょう。

介護施設の存在意義

ある利用者がこんなことを言いました。

「施設は、段々と老いていく私たちを待っている場所なのか?」

つまり、老いていく中で、身体にも痛みが現れます。

医療的なケアを受けることで、改善されたり、癒されたりするでしょう。

それはある意味で、寿命を伸ばすことでもあり、誤解を恐れずに言えば家族の負担を継続させることでもあります。

ときに介護施設のどこかで、「意図的?」と疑いたくなるようなスタッフの対応を見にします。

少なくとも、利用者の健康状態を把握するために診察を受け、さらにその後の治療をどこまで行うのか、利用者やその家族との対話から導き出すことになるでしょう。

しかしながら、医師に診察を依頼しないことや、明らかに利用者が継続的な苦痛を訴え続けている場合でも、スタッフが気付かない状態が増えています。

それは、スタッフの知識不足なのか、それとも施設による何らかの対応を理解してのものなのかは分かりませんが、施設内で行われている現状を家族が本当に知っているのか気になることも少なくありません。

こみちは、介護士として働き始めて、施設に身を寄せる利用者たちが健康的な日常生活を送りながら、その天命が尽きるまでを静かに見届けたいと思っています。

もちろん、医師でも看護師でもないので、身体の健康を改善させることはできませんが、それでも安らげる日々を提供したいと奔走します。

とても残念なことですが、「安らげる日々」をどう提供するのかは、介護士によっても異なります。

一般的には、初心者研修などで学ぶ知識をもとに、利用者と接することを指すのでしょう。

しかし、「寄り添い」そのものは、それぞれの理解に委ねられるもので、「声を掛けること」と思っている人もいるでしょうし、「黙ってそこにいること」と答える人もいるはずです。

解釈に大きな違いが生まれるのは、「寄り添い」を理解したときに、どう自分で「言い換えた」のかに関係します。

例えば、今のこみちであれば、声を掛けることもありますし、黙って手を握っていることもあります。

それは、利用者が何を求めているのかを目で見て観察し、いくつかの「投げかけた言葉の反応」を通じて心理状態を探っているからです。

どんな言葉が相手の心に響くのかは、信頼関係や介護士の経験、人生観などで変わってくるでしょう。

家族のような存在になることもあれば、「先生」となって威厳を示すこともあります。

また、子どものような存在として教えてももらったり、相談に乗ってもらうことも珍しくありません。

介護士だから利用者よりも「しっかりする」必要はなく、時には全面的に指導を受けながら、反復の中で「サポート方法」を学ばせてもらうことも多いくらいです。

「違う!」という指摘を受けて、別の試み方を探るのも、介護士の大切な仕事です。

介護士だけでは気づかない「寄り添い」の方法も、介護施設は介護技術として体系化し、経験の浅い介護士でも寄り添うことができるように勉強会などを開催するべきでしょう。

特にオープンから5年くらい経つと、当初のスタッフも何割かは入れ替わり、組織化を強固にする意味でも見直しが必要な時期です。

こみち自身が思う「心の温かい人」の特徴

人の温かさは、「見返りが期待できない状況」ほど顕著になります。

言い換えれば、波に乗っていたり、楽しい時なら、周囲に多くの人が集まってくるでしょう。

ところが事業に失敗したり、隠していた汚点が露わになった時、それまでいた取り巻きは悲しいほどあっさり立ち去ってしまいます。

つまり、その後、この人に好転の兆しが見えない時ほど、人は関心を持ったりしません。

心温かい人は、そんな状況で態度を変えることなく、一定の距離感で接してくれるでしょう。

心が弱く、人に頼りたくなる深層心理に乗じて、優しいふりをして近づくこともしません。

あくまでも、互いが自立できるように配慮しながら、それでも関心を持って接してくれる人たちです。

こみち自身が思うに、心温かい人はとても思慮深いはずです。

さらに、経済的にも安定していて、目先の利益に目がくらむこともありません。

それでいて、健康的であり、精神的にも体力的にもタフな人たちです。

そうでなければ、人に優しくすることはできませんし、自分のことで忙しい人なら相手のペースに合わせる余裕もないでしょう。

それを踏まえれば、介護士として稼ぎたい人が、根本的に「心温かい人」にはなれません。

だからこそ、職務上の「寄り添い」を身につけて介護技術として利用者の接遇に活かすべきなのです。

残念というべきか、当然というべきか、こみちは働いている介護施設で「心温かい人」を数えるほどしか知りません。

その一人が看護師として働いている人で、いつも誰にでも一定のトーンで優しく接してくれます。

なにか訴えた時に、自身の状況から話したりしません。

できない時には、その理由を隠すことなく説明し、その後の対応にまで触れてくれます。

何分後ならできるとか。こういう理由で応じることができない。と言った具合に、その対応は誠実で信頼できるものです。

こみちが介護士になるまでのあれこれ

幼少期の頃から、こみちはいろんな意味で大人に気を使いながら過ごしてきました。

顔色を伺うことや、言葉づかいや態度を変えることも身につけた「子どもらしくない子ども」でした。

ただそれは、こみちの行動をしっかりと観察している大人だけが分かることで、同世代の友だちや面識の薄い大人たちが気づくことは稀です。

学校の担任でも、こみちの心理状態に気づいて心配してくれた人もいましたし、何も気づかないでさしたる接点もないままになった先生も少なくありません。

例えば、医学部に進学したクラスメイトの中で、「進学理由」を訊ねたときに「医学の限界値」に興味や戸惑いを感じていたこみちのような友人はいませんでした。

また学生時代に教職課程を専攻したクラスメイトで、最初から先生になりたかった話も耳にしたことがありません。

それでも、今では医師として活躍していたり、先生となり生徒たちにいろいろな経験や体験を伝えています。

多分、そこには、寄り添いを学術的に咀嚼した試みがあったはずです。

人の感情の奥深くを知ろうとするのではなく、職務を全うするのに必要な範囲で、知識や技術を学んだということです。

例えば、YouTubeなどで介護技術を調べていくと、「精神疾患」のようなとてもデリケートなカテゴリにも遭遇します。

人の生活を支える意味では、介護士の仕事に含まれるのですが、精神疾患のような広範囲でまた深くもある領域を生半可に知ることは避けるべきです。

その際は、介護技術や知識をベースに、基本を重視したアプローチがオススメです。

というのも、精神疾患の注意点は、「考え抜く力」と「考え続ける体力」が深く関係していると感じます。

自分では考え続けているつもりでも、ある時期から考え方がループしたり、一向に進展がなければ、問題解決どころが出口のない深みにはまってしまいます。

また、考える力が十分にあっても、継続的に考え続けられない場合には、問題の解決まで行き着かずに、これまたループ状態に落ち入ります。

哲学者のような人は、十年単位で一つのことをあれこれと考えることができるのでしょうから、数時間や数日で疲れてしまうこみちでは、とても理解できません。

それでも、共通点を示すことで、気持ちを共有することはできるかもしれません。

心の中の葛藤をスケールダウンしてもらい、またはいろんな言葉を交わしながら触れ合うことで、介護士としてできることを見つけられるでしょう。

いずれにしても、人に完全に寄り添うことはできません。

分かったつもりになって、いつの間にか勝手な知識を押し付けることは避けたいからです。

その一方で、経験を共有化できれば、これまで自身にはなかった見え方に気づくこともあるでしょう。

介護士という仕事を通じて、人に寄り添うことの意義と、価値に気づくことで、時には施設介護の限界や早急な改善も感じます。

やはり、介護士は難しい仕事に変わりありません。

だからこそ、人生経験豊富な中高にオススメしたい職業なのです。