介護施設は介護士の「質」で評価するべき!?

良い介護施設の条件を考えよう


休日明け、職場に出て感じたのは「違和感」でした。

この「違和感」、今回初めて感じたのではありません。

休みを明けると毎回感じるものです。

違和感とは具体的にどんな状況を指しているのかと言えば、利用者に笑顔がなく、呼び掛けに対する反応が格段に悪くなっている所です。

また、備品の補充やフロアのテーブルやイスなど、どこか調和が感じられず、雑然としています。

実際、何かしようと思っても、備品がないので、それを探すところから始めなくてはいけません。

何より、利用者に声掛けした時、「もうココが嫌になった」とか、「家に帰りたい」と今までそんなことを口にしなかった人から聞かされました。

「何かあったの?」

ある利用者は、心身機能の低下によって、介護士に頼むことが増えました。

しかし、介護士に声掛けしても「すぐに対応してくれない」ことも多いことから、虚しさを感じてしまうと言うのです。

また、別の利用者からは、「介護士から一方的に怒られた!」と言っていました。

状況を詳しく聞けば、時間的な余裕が無くなり苛立った介護士が、利用者を急かしたことが原因です。

これから問題を解決するには、個々の介護士が作業スピードを向上させる必要があります。

また、介護士同士の連携も不可欠でしょう。

レクリエーションで起こった利用者からのクレーム


その日のレクリエーションは、利用者たちと一緒に介護士も混じって歌を歌うと言うものでした。

70代から90代の利用者たちが懐かしく感じる曲を選び、介護士の一人がMCとなってレクリエーションが始まりました。

こみちは歌が得意ではありません。

カラオケで歌うことはあっても、何十人もの前で披露する自信がないのです。

それでも、こみちがMCになった時は、利用者たちを見渡しつつ、キーマンを見つけて選曲したり、曲選びをしています。

やり方はそれぞれなので、どれが良いとか、良くないとかはありません。

ただ、MCが暴走したり、利用者たちが興味を失ってざわつき始めたら「要注意」でしょう。

その日、こみちは裏方役でした。

手拍子をしたり、MCが見落とした利用者を見つけて、曲を紹介したり、一緒に歌うことが役割です。

利用者の中には、かつて民謡を嗜んだ人がいれば、ほとんど声を出さない人もいます。

でも、歌を聴くのが好きな人や、介護士がそばにいれば落ち着いて座っていられる人もいて、対応も幅広くなります。

そんな中、ある利用者からMCをしていた介護士に向かって「何がしたいのか分からない!!」と不満が出たのです。

その利用者は、比較的自分の意見をはっきりと言える人ですが、事実、その前兆は10分くらい前からありました。

「次はこの曲を歌いましょう!」

一方的に曲を決めて、勝手に進行していたMCに、利用者の興味が薄れていたからです。

もちろん、その場にいたこみちにも責任はあります。

さらに、レクリエーションが始まった頃、MCの言葉に反応した一部の介護士たちが奇声をあげ、しつこく何度も繰り返したことに利用者たちが冷めてしまいました。

所詮、介護士のパフォーマンスなど、プロの歌手やお笑い芸人とは比べものになりません。

そのことで、利用者たちが怒り出したのではないのです。

むしろ、利用者たちはもっと冷静に見ていて、施設内での「レクリエーション」としても、十分とは言えないクオリティーだったことに異論を唱えたわけです。

最後はベテラン介護士とMCをした介護士が交代し、レクリエーションを仕切り直すことになったのです。

MCをしていた介護士は「すいません」とは言わずに、「プロのパフォーマーが登場して来ました!」とまだ状況を理解していないコメントを続けていました。

レクリエーションがどうと言う話ではなく、介護士が「寄り添い」をするうえで克服するべき課題があることに気づくべきでした。

介護士個人もそうですが、施設としても「寄り添い」がどうあるべきかを考えて具現化するべきなのです。

学術的で真面目な話も必要ですが、冗談やユーモアも生活を潤わせるためには欠かせません。

けれど、その冗談やユーモアが利用者たちに受け入れられていない時は、速やかに方法を変えるべきです。

介護士同士で盛り上がり、騒いでしまうのは問題ある行為でしょう。

以前、こみちがMC役でマイクを握り、今まさに始めようとした時に、横から別の介護士が割り込んで来て、レクリエーションを始めてしまったことがあります。

利用者たちがざわつき、「こみちさんが司会じゃないの?」と言い出しました。

挙句のあてに、集取がつかなくなって「こみちに代わります!」と言い出したのです。

その時も変な雰囲気でしたが、利用者たちがこみちの話に耳を傾けてくれたので助かりました。

なぜ、介護士が介護に専念できないのか?


人が誰かに何かを頼む時、大きく2つのパターンがあります。

その1つが事務的な用事です。

ただ、事務的なので、正確で明確な仕事が求めらます。

介護現場で言えば、清潔感を保持した入浴や排せつ介助などが挙げられるでしょう。

もう1つが、安心感や安らぎに繋がる「肌の温もり」です。

不便を感じる利用者が、介護士に妙な遠慮をしていては安らぎは得られません。

ただ、専属の担当ではないので、いつでも迅速に対応できないこともあります。

待ってもらう時にこそ、利用者と介護士の信頼関係が試されます。

一方で、信頼関係が維持できない場合もあります。

利用者に認知機能の低下が見られる場合には、状況を判断したり、約束事を守ることが難しいからです。

ただそんな場合も含めて、介護士は利用者に応対しています。

先ほどの「レクリエーション」にも言えることですが、歌手のような魅力的な歌声がなくても、「互いの信頼関係」や「温かみの共有」は可能でしょう。

こみち自身としては、介護士がその答えを模索することが「介護スキルの向上」に繋がると感じています。

そのためには、利用者それぞれの性格やこだわり、問題意識などを知ることが大切です。

それには何より話すことが必要で、観察しながら利用者の気持ちが分かるはずです。

しかし、この領域をマスターできれば、もう介護士以外の仕事もできるでしょうし、「稼ぐこと」を優先するなら介護士以上に好条件の職種も見つかります。

つまり、介護士として働くことに面白味を感じて続けるなら、絶対に「介護スキルの向上」を目指して欲しいと思います。

ただ、介護士として働く人の中にも、利用者や職場の同僚を含めて、人間観察をしていないタイプも多いと感じます。

施設の方針として「寄り添い」を具現化する意義は、実はそこにあると思うほどです。

寄り添いと言っても、いろんな考え方があり、決して1つの方法とは限りません。

しかし、柔軟性を保つと言うことは、理解している介護士には当たり前でも、理解していない介護士にはさっぱり分かりません。

何より、理解していない介護士が多いと感じます。

利用者に馴れ馴れしくすることや、愛称で呼ぶことを寄り添いの一部と捉えてしまう介護士がいるのも、それだけ理解不足だからでしょう。

「帰りたい」「虚しくなる」と利用者に言わせてしまうのは、それだけ介護士の応対に乖離があって、心が満たされていない証拠だと思うのです。

今になって本当に介護は難しい仕事だと感じます。

相手を理解できるためには、それ以上に自分を理解していなければいけません。

先日、起業のことをテーマに書きましたが、介護士として活躍するよりも簡単なのではないかとすら感じます。

それだけ、介護士として働くことは容易ではありません。

まして、スケジュールだけに合わせた作業など、本質として「介護」とは呼べないでしょう。

利用者の笑顔が戻り、安らぎを感じて過ごしてもらえるようにしたいものです。