日本国憲法13条にも同じ言葉がある!?
幸福追求権とは、自分が思い描く未来の自分を目指せる権利。
国がそれを叶えてくれるものでもないし、助けてくれるものでもない。
ではなぜそんなことを日本国憲法に記載したのかというと、「憲法」は国民が国に「委ねた権利内容」だからです。
国を構成する一つとして「議会」があり、政治家がいます。
彼らが我々国民を支配しているのではなく、我々が彼らに権利を与えているというのが建前なのです。
もっとも、「国民が国に委ねる」の部分で、「国民とは何か?」も議論の対象でしょう。
例えとして、二十歳になった人なのか、生まれたばかりの子どもも含まれるのか、日本国籍持たない人はどうなのか、いろんな議論が含まれるでしょう。
また、「委ねる」に関しても、手続き上の瑕疵(不具合)がなければいいのか、一般常識に照らべきなのか、権利の範囲や内容についても話し合いの対象となるはずです。
小難しい話はここまでにして、幸福追求権にテーマ戻すと、我々一人ひとりが自身の幸福を手に入れることは容易ではないことが分かります。
というのも、介護の仕事をしていると、利用者はその人なりの幸福を手にしようと試みますが、介護士によって判断され、時にそれが施設の都合によって拒まれることもあるのです。
ある利用者がトイレに行きたいと訴え時、介護士の一人が「わがままを言わないでください」と言い返します。
「高い利用料を支払っているんだ!」と続ける利用者に、「他の利用者も同じだけ支払っていて、貴方だけが特別じゃない!」というのです。
確かに両者には言い分があります。
介護士も嘘を言っているのではありません。
ただ、両者の解決には貢献しているとは言えず、なんだか胸の内でストレスを伴うでしょう。
こんな状況は珍しい話ではなくて、いろんな場面で起ります。
ポイントは、「根本的な解決」よりも「その場の解決」で問題に向き合うケースが増えたことでしょう。
あるトラブルが起こった時、その原因を調査して、再発防止を図らなければ、再びトラブルは発生するはずです。
しかしそこまで掘り下げると影響も大きく、時間も掛かります。
そこで、トラブルの被害見合った対象策で済ませるのです。
先のトイレを訴えるケースで言えば、「汚れた下着交換する」ことなるでしょう。
しかし、利用者にすれば、交換したからと言って、羞恥心や自尊心が保たれるとは言えません。
それでも、そのような応対をするのは、社会のねじれた構造にあるのでしょう。
例えば「大卒」とはなんでしょうか。
学歴社会という社会構造を維持する上で、「大卒」は重要なワードになります。
しかし、実社会では大卒でなくても才能や知識、技術を持った人はたくさんいます。
吐出した才能なら生きていけるのですが、「その人らしさ」分類されることはどこか軽視され、いつの間にかなかったように扱われることも多いのです。
大卒なのに仕事ができない人もいるはずです。
それは、知識の積み上げだけで社会が動いていないので、実際に働くと戸惑うからです。
1+1はいつでも「2」ですが、人が求めるものは時間や気分で変わります。
言い換えれば、ワンパターンで対応できることの方が少なく、状況や立場で臨機応変に変えることが求められます。
言い換えれば、社会がそうなっている以上、常に根本的な解決策に趣を置くのは注意も必要です。
介護の現場では、その特殊性もあって利用者の権利が軽視されることも珍しくありません。
ただ、そこに疑問を感じたとしても、社会がその傾向にある以上、簡単に変えることはできないでしょう。
だからこそ、現場の介護士は悩み、解決策を模索しながら、自身の幸福追求権をまっとうするのでしょうから。