退所まで3日となって
仕事をする立場になると、一日の勤務は長いようでも必ず終わりがやってきます。
そう考えれば、「あと3日」がどれくらいの長さなのか想像できるでしょう。
少なくとも来週の同じ日には、もうこの場所で生活していません。
今はまだ知らない場所を「新たな棲み家」として受け入れているはずです。
こみちは、介護士として、ライターとして、一個人として、その利用者の心境を聞いてみたくなったのです。
利用者の話では、新たな施設は利用者の娘夫婦の住まいに近いみたいです。
これまでのように「個室」で、今と変わらないサービスも受けられるとのことでした。
違うのは、自宅復帰を目指す「老健」ではなく、終の住処として選んだ「特養」だということでしょう。
さらに言えば、娘夫婦といっても60代なので、社会的には定年を迎える時期とも重なります。
つまり、娘夫婦にしてもこれからの生活プランを見直すところでしょう。
定年後に海外移住するという人もいるでしょうし、パートでも「仕事」を続けたいと思う人もいます。
趣味に没頭したい人や、友人や夫婦でお店を始めることだってあるでしょう。
一方で、80代90代となった父母も年には勝てず、一人暮らしなど難しくなれば、介護施設を利用することになります。
「自宅」を拠点に必要な介護サービスを受けるという方法もありますが、その為には子どもたちの協力が不可欠です。
先の話で言えば、娘夫婦の老後次第で「施設入所」一択ということもあり得ます。
介護の世界では、利用者の尊厳や個人の尊重が問われます。
しかしながら、娘夫婦たちにとっても尊厳や個人の尊重があって、利用者の生き方だけが優先されるとは限りません。
例えば、老健から有料老人ホームに移るというケースで、老健では十分に行えなかった趣味やサークル活動などが活発に行われているのなら、利用者の満足度もアップするでしょう。
一方で、リーズナブルな暮らしを幅広い利用者に提供している特養を選ぶ利点とはなんでしょうか。
こみち自身、その利用者に「なぜ有料ではなく特養に?」とは聞けませんでした。
現役の介護士として思うのは、「自宅」以上に心地よい場所はどこにもありません。
しかしそれでも介護施設が必要で存在しているのは、利用者の健康的な暮らしと利用者家族の負担を考えてのものだと思います。
預貯金が十分にある人なら、基本的なサービスにオプションをたくさん付けて、より自分らしい毎日が過ごせるようにしたいでしょう。
それでも「自宅」とは同じではありませんが、適度な距離感のある施設での生活にも心地よさはあるからです。
基本的なサービスというのは、衣食住に関するサービスを指します。
栄養のバランスが取れた食事に、安全性の高い住まい、さらに衛生的な衣類を身につけることがそれに当てはまります。
しかし、食事は栄養摂取のためだけにあるものではありません。
家族や友人などと、時には見晴らしのいい場所やステキな音楽とともに、季節感や旬を感じながら同じ時を過ごすためでもあるでしょう。
同様に、プライベートや遮音性、お気に入りのものに囲まれた空間を作ることは、自身らしい生き方の象徴です。
4人部屋の場合、カーテンで区切られた空間だけが自分の場所で、他人の生活音や明かりがこちらまで届くことも仕方ありません。
人寂しいと感じる人にとっては、それも心地よさですが、自分の場所が欲しい人にとっては他人との距離も気になるでしょう。
好きな服や髪型、メイクなども自己表現の表れです。
長い髪は整容に手間取るとの考えから、好みとは関係なく短い髪型を選ぶしかないのも寂しいところでしょう。
自身の好みを削ぎ落としていけば、残るのは人が人として暮らしていくための「衣食住」だけが残ります。
どこまで省くのかは、個人的な見解と「予算」によって決まってきます。
これは施設だけの話ではなく、我々の暮らしにも言えることでしょう。
稼ぎの良い仕事に就けば、それだけ自由に使えるお金が増えるので、趣味として海外旅行に行き、異国の文化に触れることもできます。
一方で、自身のスキルアップを考え、仕事は必要最低限にして、資格取得や下積みに時間を注いでいる人だっています。
結局は「どう生きていくにか?」になるのですが、それを自分で決めたのか、誰かによって決められたのかでも満足度が異なるでしょう。
3日後に退所する利用者が、新しい施設でも元気に暮らしてくれたらと思います。
「イヤなら戻って来るから!」
笑って話してくれましたが、もう戻って来ることはないでしょう。
実際、これまでにも何人かの「卒業」を見てきましたが、「再入所」した人は1人もいません。
というのも、老健に入りたい人も多く、しかも「ユニット」はなかなか空きがないからです。
人生は片道切符!?
行った先が、これからの「自分の場所」です。
我々の仕事探しにも言えますが、採用されたらそこが「職場」です。
以前の勤め先で何があったとしても、もうそのことで自分の出る幕はないでしょう。
でもそれでいいのであって、人は前に進むためにも「捨てながら拾う」のです。
仕事探しをする時、自分の可能性や将来性を考えたりしますが、結局はどこまで拘って、どこで妥協できるかで「幸福」が変わります。
社会に交わらなければいつまでも「自分」しかなく、社会に交われば「自分」が見えなくなることもあります。
でもそれは、他人から見た「自分」ができるからで、時に自分の知っていた「自分」ではなかったりします。
「こんな自分になりたい!」
長年目指して来たのに、「現実の自分は良くも悪くも全然違っていた」。
それで良いのかも知れません。
仕事だって初めて見れば良さに気づきます。
まして、これまで培ったことはどんな仕事にも活かせます。
そう思うと、仕事探しも随分と肩の荷が下りるでしょう。
理想も大切ですが、現実も大切。
ある意味で、利用者の退所には、そんな話が隠れていたのかも知れません。