介護士の倫理観を検証してみた!?

「トイレ誘導」は利用者の自立支援なのか?


介護施設で求められるのは、「利用者の生き方」に寄り添える介護です。

とは言え、具体的にどんな支援を指しているのかは、施設ごとに考え方も異なるでしょう。

介護支援が提供させるのは、「生活の中」です。

音楽や演劇の舞台のように、ステージやホールではありません。

つまり、「衣食住」に関わる割合が高く、どんな場所で、どんな物を、どんな格好してということがメインテーマなのです。

音楽や演劇のような感情や感性に訴えかけるエンターテインメントであれば、演じる方もある限られた「感性」という部分に共感されることを目指せます。

ところが、介護においては、正確に物事を捉えることが難しい「認知機能の低下」に見舞われると、いくら順序立てて説明しても相手が想いを受け取ることができません。

「トイレに行きたい!」

「ついさっき行ったはずですよ!」

「年寄りだと思ってバカにしているでしょう! 誰か連れて行ってよ!!」

我々の感覚では、2時間くらいはトイレに行かなくても平気ではないでしょうか。

なのに、5分とか10分の間隔で「誘導」を訴えられたら、介護士はどうすれば良いでしょうか。

利用者らしい暮らしを支えるという意味では、トイレ誘導に応じるべきでしょう。

実際、頻尿で悩む人は、何度もトイレに行ってしまうでしょうし、それを「さっき行ったから行ってはいけない!」と行かせなくする人はいません。

一方で、尿意が鈍感な利用者には、通常の下着ではなく、リハパンやパットを使い予防に努めているのです。

「パットしているから心配しなくても大丈夫ですよ!」

そう説明して、利用者が訴えるトイレ誘導を拒否できるでしょうか。

中には、2時間経っていないことを根拠に、利用者の訴えるを無視する介護士がいます。

当然、利用者は「どうして連れて行ってくれないの! 好きでこんな所にいるんじゃないのに!!」と館内に響き渡るような大声で喚き出します。

そんな時、他の利用者が動揺して落ち着かなくなることもあって、見かねた別の介護士が「トイレなの?」と声を掛けるのです。

無視した介護士はというと、涼しげな様子で何事もなかったように振る舞います。

もしも、別の誰かが誘導するのなら、何も利用者が気分を害する前でも良かったはずです。

ではなぜ、トイレ誘導を拒否したのでしょうか。

一つには、限られた人数で現場を仕切る以上、重要度の高い仕事から支援することになります。

トイレを訴えたからと言って、一人の利用者だけを何度も連れて行くのは介護士の負担を増大させるだけだからです。

そこで、議論となるのが、「トイレは何分間隔が常識なのか?」ということでしょう。

普段なら、半日以上も平気でしょうし、胃腸の調子が悪い時なら何度も行きたるなるはずです。

結局のところ、健康的な状態で考えるのか、そうではない時で考えるのかでも異なります。

利用者の暮らしを、中高年の我々と同様の認識で捉えることに問題はないでしょうか。

しかも施設に入所する利用者は、生活面での支援を求めている人です。

「定時」のサービスだけで、十分とは思えません。

どこまでの範囲を介護とみなすかは、個々の介護士の倫理観に委ねられるでしょう。

ただ、実際の経験として、中高年の我々が当たり前に思うペースも、若い世代から見えれば随分とのんびりしています。

キーロックを解除するスピードを見ると、「随分と若い子は早いなぁ」と感心します。

高齢者がレジの支払いでもたついてしまうのも、その年代になれば仕方ないこなのです。

ある意味で社会はそれを受け入れながら成立しているからです。

介護士にすれば、1回のトイレ誘導も10回の誘導も報酬では同じことです。

しかし、転倒しないように注意しながら、利用者を安全にトイレ誘導するのは楽な作業ではありません。

気を使いながら、用が済んだ時はホッとするからです。

もしも3回を1回に減らしてくれたら、介護士としては別の仕事で利用者の暮らしを支えられます。

どこで線を引くのが妥当なのかは難しい判断ですが、一方的な介護士の都合や、利用者のわがままだけで決まってはいけない話でしょう。

介護士の中にも、面倒な作業を回避して、記録ばかりつけている人がいます。

確かに記録も大切なのですが、それだけに何時間も掛けてしまうと、他の介護士たちが動き回るしかありません。

介護同様に、「その人はこのスタイルしかできない」と決めつけると、トイレ誘導に応じるしかなくなりますし、2時間経過していない場合には放置されて失禁することになるでしょう。

結局のところ、この手の問題は、理解や想像力によって答えが異なります。

今を節約して老後に備えるのも生き方であるように、今を懸命に生きて未来まで変える人もいます。

つまり、質素だから良いのか、活動的だから良いのかは未来になってみないと分かりません。

ただトイレ誘導を訴える利用者に残された時間は我々よりも短いでしょうし、「今、何の心配もない」という気分が幸福に繋がるかもしれません。

「漏らしてしまうかも」

そんな気持ちで、30分も1時間も過ごすことにどれだけ意味があるでしょうか。

ある意味で言えば、そこから何かを学んだとしても施設で暮らす利用者には大きな変化ではないでしょう。

施設の決められたスケジュールに沿って生活している以上、「トイレに行きたい」が自分らしい生き方を決める数少ない選択肢でもあるからです。

ただ食べて、ただトイレして、ただ寝るだけになったら、利用者の日常生活は急に活気を失うでしょう。

ただ、一人の介護士がどんなに頑張っても、他の業務と並行しながら利用者のトイレ誘導を30回もできるとは思えません。

利用者が自立できない時は、用を足している間ずっと腕に力が入っています。

衣類の着脱をその度に繰り返し、トランスまで行うとなれば、介護士だって自分を削っている感覚になります。

余分な物を差し出す感覚だけでは介護はできません。

どこまで自分の持っているものを差し出していけるのかが介護です。

腰痛に悩みながらも利用者の要望に応えようとする。

強制はできませんが、介護現場に立つとそこを求められていることに気づきます。

自分の都合で進められるのは、多くが介護ではなく、事務作業だったりします。

介護士も自身の身を守り始めると、差し出すようなことを控えて、最低限の仕事をし始めます。

いくら介護士とは言え、ひどい腰痛持ちになれば、仕事はおろか、自身の老後生活にも影響するでしょう。

どこまで担うべきか。

介護士の倫理観を簡単に定義付けるのは本当に難しいことです。