介護士のジレンマと割り切り

「介護士」としてのやりがい


介護の施設で働いてみて、高齢者をどのようにサポートしていくのかある程度は分かったように思います。

介護士として許される範囲内で、寄り添い方に変化を設けて利用者の反応を確かめることも増えました。

良くも悪くも、介護施設ではありますがアットホームな雰囲気に溢れています。

そんな中で、利用者も普段以上に「甘え」を出して来たりして、こみちとしては「それも介護だろう」と受け入れます。

実際、先輩介護士の中には、面倒な作業を回避する人がいます。

「トイレに行きたい!」

「ちょっと待ってね!」

声こそは優し気なのですが、その先輩が連れて行く姿をほとんど見掛けません。

その内、別の介護士が側と通り、「トイレですね!」と誘導します。

先輩の肩を持つつもりはありませんが、介護士としての「やりがい」を見つけるのは簡単ではありません。

通常、介護士はケアプランと呼ばれる利用者と施設、ケアマネが合意して決めたスケジュールに沿ってサービスを提供します。

いわば実行部隊なので、計画を超えたサポートは認められません。

こみちの勤める施設は、いわゆる「老健」と呼ばれるところで、教科書的な説明をすれば「自宅復帰」を目指した介護施設となります。

つまり、施設にいる間、機能訓練士によって利用者の運動機能を回復、向上させて自分らしく暮らせる「自宅」に帰ることを目指します。

しかし、杖歩行から車椅子へと移行すれば、自宅を改修しない限り自宅復帰は現実味を帯びてきません。

つまり、利用者とその家族の協力もあって、どう自宅介護に戻していけるかをケアマネ含めた関係者が積極的に行わない限り、加齢による運動機能低下もあって、大半のケースでは「一部復帰」でもかなり良い方です。

こみちの経験では、入所から3ヶ月を超える利用者の多くは、そのまま長期利用者になっています。

それは、利用者の潜在的な運動機能回復の見込みが、「3ヶ月」前後である程度の限界点に達するからでしょう。

長期利用者の場合、自宅復帰ではなく特養などの施設に移転するケースが多くなります。

介護士の仕事は、利用者の安全を守ることですが、寄り添いの中で利用者自身の生きがいや自尊心を尊重することでもあるでしょう。

どんな風に接すれば、利用者が自分らしく暮らせるようになるでしょうか。

自宅復帰が困難となれば、施設での暮らしに幸せを見つけてもらうしかありません。

そう思うと施設での生活にアットホームな雰囲気を持ち込み、利用者と介護士の温かな関係を通じた介護支援が限界のように思うのです。

老健なのに特養どこが違うのか?


こみちは特養が提供しているサポートを知りません。

教科書的な説明を鵜呑みにすれば、「終の住処」となる場所です。

介護士を含めた施設の職員が、利用者の最期までを温かく見守ることになるでしょう。

「アレ? どこが違うの?」

正直、全ての老健とは言いませんが、こみちの勤務している老健入所している利用者の多くは1年を超える方々で、この先も自宅復帰は困難と言えるでしょう。

つまり、老健なのに特養同じような役目を担っていて、「リハビリは大切ですよ!」と幾度も説明しているのです。

運動機能回復を目指して、またことあるごとにレクリエーションで身体を動かすことを推奨していますが、結局は自宅復帰は困難で、車椅子生活を続けている状況です。

まだこみちが新米介護士だった頃、機能訓練士の方に「この利用者は自宅復帰できますか?」と聞いたことがあります。

それは単純に運動療法でどこまで機能が回復でき、以前のように自分らしく暮らせるようになるのだろうと思ったからです。

しかし、その訓練士の方は口を聞いてくれなくなりました。

こみちとしてはその反応がどういう意味なのか分からなかったのですが、後々になって「リハビリ」の限界を指摘したことになったようです。

本当にリハビリでは回復しないのでしょうか?

それ以上に、利用者家族が利用者と一緒に暮らせるケースは少ないのでしょうか?

いろんな意味で、利用者は自宅復帰できません。

しかし、老健に入所する利用者は、自宅復帰を目指して施設での生活を続けているとばかり思っていたので、どこか復帰しない程度にリハビリをする現実は、違和感を持ちますし、介護士としてのやりがいをも否定するように思えます。

食事量の減った利用者について


その利用者は、過去に心肺停止状態になり、再入所された時も延命措置を行わないと家族から申し出がありました。

それはそれぞれの人生観なので口を挟む部分ではないと思っています。

そして、その利用者が食事中に拒絶を示し、食べようとしません。

「水分くらい摂りましょう!」

そんな介護士たちの対応でした。

しかしながら、ケアマネからは積極的に食事させてくださいと指摘されます。

積極的とは、つまり介護士の方で誘導して食べさせるということです。

拒む利用者の意思とは別に、結果として食べさせるのは、誰のためでしょうか。

仮に、食べたことで寿命が3年延びたとしても、自宅復帰はあり得ません。

月に数回、利用者家族が面会に来ることもありますが、お菓子などを持参して利用者とひと時を過ごすだけです。

中には利用者家族から「母がトイレに行きたいと言っています」と教えてくれたりします。

もちろん、いつも通りに介助するのですが、内心では「自分の家族なのにトイレに連れて行かないものなんだ」と思うのです。

そんな家族にとって、利用者が自宅に戻ることなど考えられないでしょう。

家族と利用者のドライな関係を目にする度に、介護士としてのやりがいを見失います。

行き場のない利用者を思うと、介護士として温かく支援する以外の方法は見当たりません。

利用者もある特別な人ではなく、どこにでもいた人たちで、加齢により自分だけでは暮らせなくなっただけです。

つまり、年を取れば誰にも起こることなので、「当然」と言えばそれまででしょう。

しかしながら、介護士として彼らに関わってみて、未経験の時に感じていた「疑問」はある意味で解決されました。

「介護」って何なのでしょうか?


ますます分からなくなる一方です。

それと同時に、介護士としてノルマを提供していて、そこに「改善」がないのだとしたら、苦痛が苦痛でしかなくなります。

介護士として耐えることで、利用者が少しでも幸せな気持ちになれるなら嬉しいのですが、トイレに行く行かないとか、面倒な作業を自分はしないとか、介護士の考えることってそんなものしかないのでしょうか。

先輩介護士が、「この場合にはこうしましょう!」と言うことも、所詮はリスク回避でしかありません。

なぜなら、先輩達は医師ではないので、経験則だけが根拠だからです。

まして、老健でありながら自宅復帰にアシストできる機会もほとんどないとなれば、介護士の業務はプログラミングされたロボットと変わりません。

実務者研修を受けていた時に、ケアプランの作成を学びました。

その時も、「どこまで利用者のことを踏み込んで作るのだろうか?」と思っていたほどです。

実際は、ヒアリングと言っても形式的だったり、常識的な範囲で聞き取った事実だったり、人が行う以上はある一定のライン基づいてしまうのはやむを得ないでしょう。

まして、利用者家族が受け入れない意思を示せば、自宅復帰さえ選択肢から除外されます。

変な説明かも知れませんが、介護士の報酬が上がらないのは、「介護士の業務が「そこに」あるから」ではないでしょうか。

現実的な話をすれば、自分でトイレに行けない人を支えるには、1人の介護士いても20人を支えるのが限界です。

実際には24時間年中無休となれば、数名の介護士がいないと1人の利用者さえ支えられません。

つまり、自宅介護がどれだけ大変なのかにも繋がるのですが、歩行が難しいレベルなったら「自宅介護」は相当に困難です。

我々が当たり前のことも、一度できなくなってしまうと、それを再び取り戻すのは容易ではありません。

まして、誰かが支えるとしても、それすら簡単ではないのです。

「介護」とは何かと哲学的に考えても、現実としてはそんなところまで話は進まずに、誰がトイレに連れて行けるのか?と言うことで毎回揉めるのです。

機能訓練士が全身の機能を回復させられない以上、利用者の不具合は介護士によって支えるしかありません。

そこには難しい話などなく、「ハイ」と行動できることが大切なのです。

こみちは、介護士と言う職業にどこか特別な気持ちがあったのかも知れません。

トイレ誘導を拒む先輩のやるせなさも、介護士として抜けられないジレンマと戦った結果なのでしょうか。

それはどうかとも思いますが、利用者の行き場がないと言う事実は、介護をするうえでも考えさせられる難しい問題です。