コロナウイルスが教えてくれたこと

お金を持っているだけでは…


コロナウイルスが世間で騒がれるようになって、我々の生活は一変しました。

働き方にも大きな影響が出ているでしょう。

介護業界は、そんな中でも粛々と仕事を続けています。

もちろん、介護士には出勤前に体温の計測を義務づけ、体調不良の場合には出勤できないこともあります。

利用者家族の施設訪問が原則禁止になるなど、利用者が暮らしているので細心の注意を払いながらも、施設内の雰囲気は良好です。

こみち自身、これから目指すべき仕事は経験に基づいた判断力を活かせることがポイントだと考えています。

もっともそのためには、「ステージ」が必要です。

ここでいう「ステージ」とは、判断力を活かせる「場」を指します。

極端な例を挙げると、どんなに有能な考え方であっても、影響力がなければ存在していないのと同じです。

社会性の低い人が、個人で何かを発想しても、それに耳を傾けてくれる人が現れなければ、どこにも伝わっていきません。

一度に多くの人に伝わることも大切ですが、価値観の分かる相手に伝われば、その人を介してさらに情報が拡散されることだってあるでしょう。

そう考えると、質の高さが担保されていれば、最初の影響力は低くても、場合によってはきちんと日に目を見るのかも知れません。

いずれにしても「ステージ」を持つことから、これからの一歩が始まると思います。

一律の配布と制限された配布


「この人はスキ」「あの人はキライ」という感情論はご法度です。

しかし、政策上の目的から、「ある条件に合致した人を優先的に支援しよう」と基準を決めることは「公平性」が保たれていると言えます。

介護の世界では「介護」の内容を定義づけするのがとても困難で、だからこそさまざまな視点や尺度を取り入れて支援策が練られています。

「寝たい!」と訴える利用者がいた時、自宅であれば誰に断ることもなく居眠りするのではないでしょうか。

しかし、健康的な暮らしを維持するために、施設で暮らす利用者は時に介護士からベッドへの移動を拒まれたりします。

「もうすぐ食事ですよ!」

本来なら、食事の時間をずらせばイイだけなのですが、施設にはタイムスケジュールが決められていて、何時に何をするというように定められています。

また、昼間に寝ると、夜中に目を覚ましてしまうということもあり、何かと施設管理のために利用者の生活は制限されます。

介護では「自立支援」というスローガンを掲げ、利用者中心の生活支援を目指しています。

しかしながら、自宅での生活と施設での生活は同じではなく、介護支援を受けるということは「自身の生活」は担保されなくなってしまうのです。

それでも、融通の利く有料老人ホームなら、自宅同様とはいかないまでも、ある程度の選択肢があるかもしれません。

しかし、自宅同様の暮らしを手に入れることは、もはやお金だけでは解決できない問題なのです。

どんな介護サービスがあるとイイのかを決めるとしても、それを実現する現場の介護士が理解していなければ、意図通りのサービスにはなりません。

そう考えると、成り行きではなく、最初から明確に意図してサービスを提供するのは簡単なことではありません。

経済支援の場合でも同じことが言えるでしょう。

ある人は月に10万円で暮らせると思っています。

しかし、別の人は30万円は必要だと感じています。

「ひと月何円の暮らしが望ましいのか?」を議論する場合、誰がどんな理由で決めたとしても、「でもね」という反対意見があるはずです。

なぜなら、寝る間も惜しんで働いて裕福な暮らしを維持したい人もいれば、お金は必要な金額だけ稼いで、家族との時間を大切にしている人もいるでしょう。

誰が支援を受けるに値する人なのかは、政策上の狙いによってもかなり異なってくる曖昧な部分です。

子育て世代を救いたい場合と、再建させたい中小企業を救いたい場合でも異なるからです。

また、稼ぐ金額は高くないものの、安定して稼げる介護士と、羽振りが良かったものの今は休むしかない業界とでは、どちらに優劣があるのかさえ決めた次第でしょう。

介護に話を戻すと、利用者の満足度を高めるには、利用者家族との関係が大切だったもします。

つまり、困っている人だけに手を差し伸べても、その周辺環境が改善されていないければ、支援も成果に繋がりません。

これは経済的支援にも言えることでしょう。

つまり、あるピンポイントの人だけを救うというのは難しく、支援はある程度の範囲で段階的に行うべきだと感じます。

しかしながら、事を難しくしてしまうと、時間だけが流れてしまい、「現状」が著しく変化してしまいます。

今なら1000円でも良かったのに、明日になると体調不良で動けなくなり、お金だけでは解決しなくなったという事だって起こり得るのです。

そうならためにはスピード感も大切で、慎重になり過ぎて及び腰になると「もっといい案はないか?」と決断できないままになってしまいます。

凄いと言わせたい人


介護士の仕事は、利用者の満足を支えることです。

いっしょに楽しむ時でも、主人公はいつも利用者です。

介護士としては、〇〇がいいと思っていても、利用者が別のものを選べばそれを尊重するべきでしょう。

経済的支援を行いたい場合、支援された人の生活が改善されることだけが目的ちは限りません。

例えば、支援した人への感謝や称賛が大切な場合だってあります。

良いことをして、誰にも気づかれなかったら、少し残念に思いませんか。

良いことをしたのだから、誰かに誉めて欲しいという心境です。

「凄い」と言われたい人にとっては、支援の結果と同様に評価されるか否かもポイントになっています。

「確かに良さそうな案だけど、これでは誰が支援に協力したのか分かりにくい」という意見も出てきます。

一般的な介護士の場合には考えないポイントですが、評価されたい場合などには気になる人もいるかもしれません。

一般的なサラリーマンの出世レースでは、上司が部下の成果を吸い上げることも珍しくなく、顧客だけ以上に自身の評価を気にする場面は多いのです。

「一目瞭然だから、一律にしよう!」

それでは、誰が考え判断したのか伝わりません。

その意味で、「凄い」が欲しい方は採用したくない案でしょう。

「あの時、あの政策に救われた」というストーリーが欲しいのです。

介護現場でも、手間の掛かる作業を避けたり、責任や負担が増えるのを嫌う人がいます。

それを避けた時に、誰かが尻ぬぐいすることになるので、少なくとも自分の番になったら全うするべきでしょう。

「できない」とか、「別の仕事があった」と理由をつけて、いつも楽を選ぶ介護士もいます。

生き方ですし、価値観でもあるので、「そんなの止めたら?」とは言えません。

目立ちたい人や自己評価が欲しい人は、コツコツと地味な介護士を選ぶべきではないでしょう。

もっと華々しい世界で、「あの人って凄いよね!」を目指す方が似合います。

ある意味で政界に身を置く人たちが、介護士とは異なるかちかを持っていても不思議はないでしょう。

「なぜなの?」

それぞれの業界特有の癖が、一般的な視点から外れて見えることもあるのでしょう。