仕事としての「介護」
本来、ビジネスにおける仕事とは契約の履行にあります。
「何をどうしてくれたら、〇〇円を支払います」というものです。
「何を」という部分はとても幅が広く、条件が厳格に定められた場合もあれば、履行者の裁量に委ねられる場合もあります。
媒体を問わず、デザイナーと呼ばれる職種の方々なら、事前にクライアントと制作の方向性をすり合わせたのちに、条件に合ったモノを作り出すことが仕事になります。
別の言い方をすると、何時に出社しなければいけないとか、お昼休憩は何分までというルールは、デザイナーの仕事として定められたものではなく、サラリーマンとして会社と従業員という関係から従うべきものです。
フリーランスになれば、そんな会社との約束事もなくなる代わりに、仕事での結果がすべてとなり、そこには妥協や言い訳は認められません。
このように、作り出すことを仕事としているデザイナーの場合、スタイルに自由度が高い分だけ、相手が求める以上の仕事をすることが問われます。
では、介護士の場合はどうでしょうか。
こみちは介護士の仕事を理解するために、「介護」そのものを理解しようと考えました。
その際の結論を言ってしまうと、「介護」は個々の人生観の中にあるものだと気づいたのです。
例えば、ある舞台で初めて主役を演じる役者がいたとしましょう。
他の役者と同じように稽古を続けて来たとしても、主役を張る以上、作品の重要なキーパーソンにならなくてはいけません。
だからといって、白々しい演技は不要ですし、あまりにもサラッとしていては存在感も出せません。
どう演じることが主役としての役割なのかは、ある意味で「その場に立った人」でなければ経験できないことでしょう。
もう一度、介護の話に戻すと、介護で他人様の人生観に寄り添う際に、介護士が全く経験したことがないような生き方をして来た利用者を心から支えることができるでしょうか。
こみちは、できないと思っています。
仮にできるとすれば、介護士が経験したことがない「経験」を想像し、同じ気持ちになろうと自分なりに努力した場合に限られると思います。
もちろん、それでも完全な理解は困難です。
しかしそんな風に「介護」を捉えてしまうと、多くの介護士は理解に苦しみ仕事をすることができません。
そこで、両者に歩みよりを求めて、「施設介護」という形を生み出します。
注意)「施設介護」とは、今回の説明上、こみちが考えた造語です。
「施設介護」を生み出すことで物事をシンプルに捉えられ、どんな人生観を持った利用者に対しても、介護サービスとして提供できることに大きな利点があります。
その特徴の1つが、スケジュールによる「介護サービス」の提供です。
何時にどんなことをすれば良いのか事前に決めることで、未経験の介護士でも仕事の流れを容易に想像できるようになります。
具体的なサービス内容は、現場仕事に慣れながら覚えて行くことで十分です。
注意点やミスしやすいポイントを1つずつ確認しながら仕事に慣れていけるので、初心者からでもスムーズに溶け込めるでしょう。
そのためにも介護施設は、介護士が現場仕事に慣れるように十分な研修や指導を行う必要があります。
また、未経験者の場合には、そんな配慮がある施設を選ばないと、「施設介護」を身につけるまでに長い時間が掛かるでしょう。
こみち自身、トランスと誘導、排せつ介助、食事や入浴支援、さらに個々の利用者への寄り添いが介護士の基本形だと考えています。
もちろん細かく言えば、それら以外にもたくさんポイントはあるのですが、優先的にこれらをマスターすれば、少なくともスケジュール管理に従って仕事を進めることができるはずです。
器用な人なら3ヶ月ほどでマスターできるでしょうし、こみちのように不器用でも1年以内に最低レベルまでは到達できます。
仮に到達できなかったとすれば、勤務日数が少ない場合や、基本形に掛かる仕事を担当していなかったからだと思います。
しかし現実に目を向けると、1年経ってもオムツ交換ができない介護士もいます。
そして、そんな人はトイレ誘導さえ限られた利用者だけを担当し、仕事の多くが制限されたままなのです。
一方で、「施設介護」に長けてくると、「介護」を考えなくなる人もいます。
その原因は、介護士として勤務するとスケジュール管理があり、ほぼ決まったサービスの提供を繰り返すからです。
利用者のことを根本的に理解しなくても、もっと表面的な部分だけでもそれなりに介護士として勤まります。
ちょっと想像してください。
これまでに自分自身を含めて何人の方を深く理解できたでしょうか?
理解しようとすることと、理解できたことは全く意味合いが異なります。
そして、自身を含めて「人を理解する」というのは簡単ではありません。
そう思うと、「介護」のために他人を理解することが必要でも、それがどれだけできたのかは判断基準が曖昧です。
「施設介護」に長けたベテラン介護士は、「介護」に興味を持つ新米介護士のこだわりをどう捉えるでしょう。
「介護」の理解が難しいことを共有して、その奥深さや「施設介護」の役割を話し合うかも知れません。
または、自身の施設介護に対する経験を新米介護士にも話して、「介護」も同じようなものだと説明することもあるでしょう。
先の役者の例を使うと、クラス会での演劇で主役を任された経験と、どこかの何千、何万と収容できる演劇会場での経験では、そこで得られる経験も異なるはずです。
そこで介護でキーワードとなるのは、「断定」を禁じることです。
介護方法に唯一はありませんし、同じ目的でもアプローチが異なることも不思議ではありません。
つまり、「介護はこうだ!」と決めつける指導者ほど、部下の介護士の成長を阻害して行くはずです。
後輩介護士に断定的な押し付けをしてしまう施設や先輩介護士が、利用者には寄り添いを実践できると思いますか?
「こうでしょう!?」「ああでしょう!?」と自身の価値観で身につけた「施設介護」を提供し続けます。
ある意味で、洞察力や観察力、経験値によって「介護」への理解が異なる後輩介護士には、そんな押し付けほど厄介なものはありません。
もちろん、「施設介護」への理解不足から、ミスや失敗もありますが、それは後々になれば補えることですし、「教えてください」と言われた時に先輩としての「経験」を伝えれば十分です。
なぜなら、そんな配慮にも後輩介護士は理解ができますし、むしろ「考える機会」を与えてくれた指導方法に敬意を払うでしょう。
「施設介護」と「介護」は別次元の話ですし、「介護」と「介護テクニック」も同様に異なります。
その根本的な違いを無視して、同列で考えてしまうと、「介護」が急に安っぽくなってしまいます。
実際に利用者はオムツ交換だけを望んでいる訳ではありません。
介護士の接し方次第で、生き生きとしますし、他の利用者とも楽しい時間を過ごせます。
そのためにも、難しくとも「介護」と向き合うことが介護士には必要で、他の介護士の振る舞いや試みを素直に認めることも不可欠です。
介護士である前に、捨てきれないプライドや自尊心が残念な人を作ってしまいます。
介護の仕事って奥が深いのに、安っぽい人間関係で介護の仕事がつまらなくなってしまうのは本当に勿体ない話です。