高齢者の暮らし
中高年と呼ばれる年代になると、20代の時とはいろんな面で変化を感じます。
その中でも、理解力、判断力、突破力は、如実に低下して来ます。
簡単に個別の解説を加えると、理解力とは情報収集力でもあります。
もう少し踏み込めば、世論の動きや市場の動向など、生活に影響するさまざまな要素が、「ネット」を経由して変化しています。
ネット上の情報が我々を動かし、暮らしさえも変化させることが珍しくありません。
つまり、「ネット」など情報収集の手段が少ないと、いつの間にか取り残された気持ちになったり、マイペースに暮らすしかなくなったりするのです。
判断力とは、理解力を経て行われるスキルになります。
ある情報に触れたとしても、それがどのような種類のもので、どんな影響を与えるものかまで汲み取らなければ意味がありません。
子どもたちの学習が、単なる暗記からプレゼン力に移ろいでいるのも納得できるでしょう。
「AはB」という一対の関連性を理解するだけでは不十分で、「ABC」という組み合わせが、「HIJ」と同じ関係、または同じような関連性にあるということにまで想像を膨らませることが重要です。
そのためには、得た情報が何を意味しているのかを理解したら、さらにどんな影響に繋がるかまで推測する「判断力」が求められます。
さらに突破力では、判断した方向性を実際に実現させて行く行動力を意味します。
やはり評論や分析だけでは、状況を変えることはできませんし、突破力がなければ「何も知らない」と同じ結果になるからです。
仮に、高齢者の暮らしが、理解力、判断力、突破力を低下させたという状況だとすれば、そこに何らかの支援をしなければ、社会的な歪さがさらに強調されることになるでしょう。
しかしながら、高齢者世帯すべてを優先的に支援する経済力や人的サポートが賄えるのかとなると、我々中高年の暮らしを見ても余裕があるとは言えません。
社会はこう変化する!?
今や「ネット」は、我々の生活に大きな影響を与えています。
それだけに「ネット」関連の技術やサービスが生活を変化させるのは当然のことです。
言い換えれば、「ネット」関係の新しい試みに注目すれば、我々の暮らしがどんな風に変化して行くのかも想像できるでしょう。
「Maas」というサービスをご存知でしょうか。
ネットに疎いこみちは、まだ「フ〜ン、そんなことを?」というくらいにしか知りませんでした。
この「Maas」は「マース」と読むらしく、我々が使っているスマホで交通機関を含めた移動手段を便利にするものなのです。
東京から出発して大阪まで移動したい時、今ならスマホで検索して電車なら〇〇円で何時間掛かるとか、飛行機を使えばさらに時間を短縮できるとか、場合によっては「歩いて行こう!」なんて人もいるかも知れません。
いずれにしても、移動するという「目的」に対して、それを解決する方法を自身で判断し、その判断理由をスマホで確認していることになります。
我々の子ども時代なら、時刻表すら簡単に手に入らなかったのですから、それに比べたらかなり便利になりました。
ところが、「Maas」が普及すれば、シャアサイクルを含めた様々な移動手段を予約したり、決済までできたりするようになるみたいなのです。
「どこかどう便利なの?」と思う人がいるかも知れません。
それは、行き先までのルートを苦もなく自分でできてしまうからです。
言い換えれば、車の運転が好きな人にとって、自動運転が普及しても大きな影響はないかも知れません。
しかし、視力の低下や運動能力が衰えて来ると、雨や夜間帯の運転は苦労します。
そんな時に自動運転技術が我々の生活をカバーしてくれたら、とても便利でしょう。
つまり、行き先までのルートを考えたり、予約や決済も代行してくれたら我々がすることは減りますし、「簡単」になります。
このように、社会が「簡単」に移行することで、暮らしも変わっていくのです。
仕事はどうか?
車の運転が好きで、物流の仕事を続けて来た人は、自動運転技術が普及すれば肉体的な疲労は軽減されるでしょう。
一方で、自動運転技術が熟成し、安全で効率的に運営できるようになれば、わざわざ人が行う仕事ではなくなります。
つまり、そんな時代には「運転手」という仕事はかなり貴重になるでしょう。
運転手だけではありません。
ありとあらゆる職種で、技術が我々から仕事を解放してくれます。
そこには、「簡単」というキーワードがあるからです。
前回、「介護」を理解するのは大変でも「施設介護」を優先的に理解すれば未経験でも介護士として働けると紹介しました。
つまり、この思考回路は、本質まで理解せずに、必要な情報を上手に選択することで効率的に「結果」を導こうとしています。
ある意味、「技術」とは、原理原則まで理解せずに「簡単」を現実化してくれます。
そう考えると、高齢者の暮らしは、これから10年後20年後の一般家庭でも普及した暮らしなのかも知れません。
外出先から自宅の照明やエアコンをコントロールできる時代、さらに家事まで済ませてくれるようになるでしょう。
我々は帰宅して夕飯を食べ、用意された風呂で気持ちや体を癒します。
その間に食器は洗浄されて、着替えまで用意されています。
こんな生活が当然になれば、もう鍵を閉めたかどうか確認するためにわざわざ出先から戻ろうとは思いません。
洗い物をしたいとも、部屋の掃除も荷が重いでしょう。
そうなれば、掃除機そのものに興味はなくなり、「吸引力」がアップした商品にも大きな魅力を感じません。
気になるのは、今使っている「簡単サービス」に対応しているかどうかということでしょう。
「簡単」とは、「便利」である一方で、「制限」でもあります。
料理を作る楽しみは、自身のストレス発散だけでなく、家族の笑顔に出会えるきっかけでもありました。
それが、全自動になれば、便利ですが「感動」は最初だけで、当たり前になります。
幸福が心の変動から生まれるとすれば、快適な暮らしは幸福を感じにくくさせるはずです。
便利になれば仕事は減り、働かなければいけない人にとっては「暮らし難い社会」にもなるでしょう。
「ビッグデータ」という言葉が一般的になり、我々の暮らしや好みが大きなデータとして活用されています。
もちろん、それにより新しい発見を得られるのですが、「情報を得る喜び」は以前よりも感じ難くなっているでしょう。
経験する前から、ある程度の予測ができて、限りなく失敗しないようになった一方で、意外な出会いや発見も失われたからです。
もしも人が「意外な出会い」から好みや生き方を変えるのだとすれば、「ビッグデータ」が導き出した「答え」はいつも過去の自分に引き戻します。
高齢者の暮らしも同様で、「これで十分でしょう!?」と決めつければそれ以上はありません。
しかし本当にそうなのか、それ以外に解決策はないのかというと、ぎろんの余地は残されています。
もっとも、人手不足が進み、若い世代は「ネット」技術が当たり前になっているだけに、以前のような時代に戻ることはもう不可能です。
我々中高年が仕事探しをする時も、20年も前の時代を基準にするよりも、次世代を考えて働き続けられる意識が不可欠なのでしょう。