「続・新人さん、いらっしゃい!!」

新人の登場で「介護」を再考する!?


結論から言えば、新人の介護士さんが来たことで、「施設介護」がなんたる物かを感じることができました。

「なぜ介護士になったのか?」

今でも理由がはっきりとしないこみちにとっては、「介護施設はこんなところだ!」という何かが欲しいのです。

そのために、利用者や介護士、施設や家族など、「介護」を取り巻く人々から「特別」な何かを見つけ出そうとしていました。

実際、清掃をしていくれる方に、「〇〇さんの話に頷いているけど、理解しているの?」と聞かれました。

「はい。100%ではありませんが、50%というくらいではないですよ」

と答えると、「私には全く理解できないよ!」と言うではありませんか。

「じゃあ、どこかの外国語でも聞いている感じですか?」

「そうねぇ。話の内容はまるで分からないわ」と教えてくれました。

実はそんな話、今回が初めてではありません。

以前にも同じようなことを聞かれたうえに、その人も利用者の話を理解できないと言ってました。

逆にこみちにすれば、「そうなんだ〜」という感じで、掃除係りの人の話に驚きます。

少し大胆な仮説を立てると、そこがこみちの「介護」のベースなのかも知れません。

つまり、こみちにとっては、ある利用者の言いたいことが普通に理解できて、だからその言葉に従って支援をしている。

ところが、多くの人はその言葉が理解できないので、「施設介護」という「方法」を尊重しているのではないかと思ったのです。

思い起こせば、休み明けに施設内の利用者は騒ついています。

落ち着いていないこともあれば、無表情になっていることもあります。

例えとして分かりにくいかも知れませんが、表面的なケアというのは事実となりますが、それ以上の結果を生み出しません。

一方で、深層部にまで届くケアというのは、ケアされた人さえも気づかない部分から癒されていきます。

人はどんな時に「信用」するのか?


人を好きになったり、嫌いになったり、仕草や態度で決まることもありますが、言葉では説明できないタイミングで感情が移入されることも少なくありません。

ここまで来ると、もう事実から計算されたものではなく、人間の持つ感情や本能に近い部分が反応しているのでしょう。

恋に「落ちる」というような表現があります。

「落ちる」ことは損得感情から生まれるものではなく、「情」によって結ばれる関係になった時に起こります。

つまり、冷静に評価すれば、もっと自分の好みに合った人はいるのだけれど、恋人とは切っても切れない関係だということでしょう。

これを「介護」の分野で再現するとしたら、にわかでも「信頼」を築くことができたら「癒しを伴う支援」に変化できるのではないでしょうか。

一方で、表面的な介護は既成事実を積み重ねるケアで、利用者の寂しさや孤独感には向き合いません。

例えば、こみちが80代になって、自分だけでは生活を維持できなくなったら、誰かに支えてもらいたいと思うでしょう。

家族の誰かなら安心感もありますが、場合によってはそうではないケースもあるはずです。

それが介護施設の介護士だったら、毎日のオムツ交換や入浴のサポートをしてもらえれば、「生きる」ことはできます。

しかし、「生きる楽しみ」や「生きがい」まで得られるかは難しいでしょう。

思うにそこは、「施設介護」ではなく「介護」だけが行えるケアではないでしょうか。

介護施設では「施設介護」が合っている!?


今日から、新人介護士さんの教育担当を外されました。

というのも、世話焼きでマウント好きな先輩介護士がいて、「今から新人教育は自分がする!」と宣言したからです。

もちろん、そこに異論もありませんし、新人介護士さんが介護士として働き易くなれば嬉しいくらいです。

ただ、新人教育が行われて疑問に思ったのは、先輩介護士が自身の業務を全て外れてしまったことです。

実は昨日からこみちが担当している間、自身の業務を行いながら、作業の説明を行っていました。

無言なら3分のところを、5分も6分も掛けて説明するのです。

スケジュール管理はズレますし、上手にカットをしながら辻褄を合わせます。

ところが、先輩のやり方は「教えるだけ」。

しかも「慌てなくていいから!」と笑顔で楽しそうに説明しています。

最初に断っておきますが、「僻んでいる」のではありません。

「介護」として考えた時に、その二重の対応が何かと問題になるのだと指摘したいのです。

25分だよ! 洗濯機は回した?


実はこみちのこのひと言が原因で、先輩が教育担当を宣言しました。

こみちと新人介護士さんは、25分になったら「2回目の洗濯機を回そう!」と話していたのです。

そして、いろんな仕事をこなしながら、「もう25分だよ! 回した?」と聞いたのです。

実際、「忘れていた」とか「できていなかった」ということが問題なのではありません。

むしろ、「介護現場」の臨場感を感じ取って欲しかったし、新人介護士さんの「すいません。忘れていました!」は実に覇気のある返事でした。

しかし側から見ると、「入職まもない新人をしごいている!」と評価されたのです。

「回した?」を聞いて。

事実そのものを追いかけるのは、「施設介護」の特徴だと思います。

逆に「介護」は、相手の心にどう届いたのかが重要で、「回しましたか?」と言ったとしても「怒られた!」と取られてしまえば価値がありません。

こみちにすれば、「回した?」でもいけると思っての発言でしたが、先輩にはそう取られなかったのです。

そして、その後も新人介護士さんは先輩の手前距離を置くこみちのところに来て、「手伝いましょうか?」と言ってくれます。

もちろん、そこはこみちも大人なので、「今は先輩のところへ行った方がいいよ!」と伝えました。

今日、分かったこと


こみちにとって、介護の仕事は「介護」を実現する場所です。

認知低下の利用者に寄り添い、笑顔になってもらうのも、その方の世界を覗かせてもらった結果です。

それによって、よく話してくれるようにもなりましたし、表情豊かになった利用者もいます。

それもこれも「介護」を目指しているからです。

一方で、介護施設では「施設介護」が必要なのです。

利用者の寂しさや孤独を癒すのは、介護士の仕事ではありません。

もしかすると、それをするのは「ケアプラン」なのかも知れません。

つまり、介護士はケアプランに従って、スケジュール通りに業務を遂行すれば良いのです。

もちろん、そんな行動を否定しているわけではなく、例えば「2時間おきにトイレ誘導をする」と決めたら、時間通りに誘導することが介護士の仕事なのです。

なぜなら、ひとつには「寄り添い」が人によって大きく異なるからです。

できる人や分かる人にとっては、何も不思議ではありませんが、分からない人には利用者の言葉が届きません。

「だって、2時間おきにトイレに行っている!」という答えが、まさに象徴しています。

コップの位置やイスの高さ。

事実にこだわるのは、そこが利用者との接点となっているからでしょう。

一方で、こみちのような方法は、利用者と介護士ではなく、友だちや家族のような関係に近づきます。

利用者は気さくに頼みごとをしてきますし、細々とした雑務も増えます。

もちろん、全てに対応しているのではありませんが、両者の関係を維持するためにも必要な手間は惜しみません。

それによって見えて来たホンネもたくさんあります。

しかしながら、圧倒的にそんな「介護」をする介護士は少ないようです。

というのも、そんな風には支援できないからでしょう。

そして、こみち一人がそんな介護をしていても、休み明けには利用者が心を取り乱していて、こみちを見つけたら「何で呼んでも来ないんだ!!」と訴えてきます。

なんだかこれまで気になっていた出来事が、一本線で結びつき、仮説が確信に変わったように感じます。

もっとも、介護はこみちのような支援だけが全てではありませんし、むしろ、そんな方法こそ特殊な少数派です。

「新人介護士さんに介護の仕事をどう伝えるのか?」

ある意味で、利用者との接し方にも同じことが言えるのでしょう。