利用者の「人格」について改めて考えてみた!?

人格とは何か?


国語辞典の力を借りるのであれば、「個々の独立したその人らしい人間性」だと書かれています。

介護士が日常業務を遂行するうえで考えるべき「人格」とは、施設の利用者に対するものです。

人間をモノとして扱うとはどういう状態でしょうか?

そんな問いかけをすると、乱暴に扱うとか、粗末にするという意味を思い浮かべるかも知れません。

しかし、「人間をモノとして扱う」ということは、もっとシビアで曖昧なニュアンスの中に存在しています。

例えば、利用者の想いに耳を傾けない対応は、その方の「人格」を尊重しているでしょうか?

しかも、その利用者の言葉が不明瞭だったり、文法が間違えている場合、「モノとして扱ってもいい!」と誤解していないでしょうか?

認知機能が低下すると、確かに日常動作に「ミス」が増えます。

しかし、ミスをしたからと言って、その人が人間からモノに変化した訳ではありません。

当たり前のように感じますが、現役介護士として働いていても、そんな「大原則」を忘れてしまい、「なぜできないの!」と声を荒げたりします。

こみちが、なぜそんなことに気づいたのかというと、ある病いが原因で呼吸が停止し、チアノーゼ症状が現れた利用者がいて、その方が再度施設に入所されたからです。

以前の人柄をよく知っていましたが、再入所した時点では話せなくなっていました。

こちらがクローズクエッション(YES NOで答えられる質問)で問い掛けても、答えることができないばかりか、そっぽを向いてしまい質問そのものが理解できないように感じたほどです。

食事介助でも、「口を開けて!」と言っても開かないばかりか、口を閉じることもありません。

つまり、問い掛けに反応しないのです。

「あ〜ん」

自分が口を開き、その様子を見てもらい何をして欲しいのか促してみます。

もちろん、それで口を開くこともなく、スプーンで唇をトントンと刺激して開くのを待つばかりでした。

もう、この方には自身の個性や人間性は失われてしまったのだろうかとさえ感じたほどです。

それでも、毎回、「ご飯ですよ。食べましょうね!」というような声掛けを続けているうちに、自分から口を開いたり、そっぽを向いて食べることを拒んだりできるようになりました。

多分、今でも1日に十回も声を発することはありません。

そんな利用者が、自身の指で空中に何かを描き始めたのです。

持っていたボールペンとノートを差し出してみると、震える手つきではありますが、「魚」と漢字を書いてくれました。

「魚が好きなの?」

聞けば、ニッコリと微笑みます。

その時こみちは、たとえ声や態度で表現できなくても、その人の人間性や人格は否定されてはいけないのだと経験から学びました。

そして、「今の気持ちは?」と質問すると、「娘が来たらいいのに」と書いてくれました。

実はその利用者が、個々の介護士を識別できているのか確信できていませんでした。

しかし、少なくとも自分には娘がいて、この介護施設に来てくれたら嬉しいと思っていることが分かります。

何も話さないから、何も分からないと決め込むことはとても危険なことなのです。

作業効率を考えてしまう介護士も少なくない


介護の仕事をどれだけスピーディーに熟せるかは、手先の速さと自身の間合いで行うことです。

しかし、技術はキャリアに合わせて向上するとしても、自分のペースで行うことは利用者を蔑ろにしてしまう可能性を秘めています。

「我がまま言わないで!」「言うことを聞きなさい!」

そんな言葉を多く使う介護士は、利用者の人格を軽視していませんか?

何も介護現場を無視するような理想像を話すつもりはありません。

しかし、「こうしてみたらどうですか?」「こんなことが控えているから、今のうちに〇〇しませんか?」と言うような声掛けを使っています。

違いは、介護士主導ではなく、利用者が主体となっていることです。

面白いもので、利用者は介護士の声掛けをトーンで識別しているようです。

本当に時間が押し迫っている時は、利用者も提案を受け入れてくれます。

こちらが曖昧な態度だと、利用者からの返答もバラバラです。

そして、急いでいる時に限って、何度も介護士を呼びつける利用者がいます。

それもまた、介護士の心情を察してこその態度なのです。

利用者の気持ちや想いに触れられると、介護はとても楽しくなります。

それが、自身の観察や推測に当てはまると、人間の本質をさらに知りたくなるでしょう。

小さな発見ではありますが、介護の仕事はそんな出来事に溢れていて、気がつくと利用者が何かをできるようになったりもします。

介護士は利用者を支配するのではなく、利用者を支えている気持ちが大切です。