人はどんな「介護」を必要とするのだろう?
まずは、自身の生活を振り返ってみてください。
朝、目覚まし時計のアラームが鳴り、寝床で目を覚まします。
しばらくすると、おもむろに体を起こしトイレに向かうでしょう。
老いてくると、トイレで用を足すのもひと仕事になります。
すぐに出ないばかりか、終わったつもりでも残尿感があったりして、スッキリと爽快な気分になれないものです。
さらに、朝食の準備をしなければいけません。
若い頃なら朝食を抜いても無理は利きますが、中高年を迎えた頃から栄養バランスにも気を使います。
慌ただしく身支度を済ませたら、戸締りを済ませて出社です。駅まで歩いて行く人もいれば、家の前に停めたマイカーで勤め先まで向かう人もいるでしょう。
こうして、私たちの生活を振り返ると、特別なことは何もないように思えるかもしれません。
しかし、「介護」が必要となるポイントが、朝の身支度の中にいくつもありました。
加齢に伴い、耳が遠くなることがあります。場合によっては通常の目覚まし時計では起きられないかもしれません。
さらに、寝床から起き上がることを、介護では離床と言います。
そして、臥位から座位、立位という言葉でも表現します。
なぜ、そんな言葉がわざわざあるのかと言えば、寝ている状態から座った姿勢へ、さらに自分で立ち上がることが徐々にできなくなってくるからです。
もしも、自分自身で立ち上がることが難しくなれば、手すりを設置したり、杖を準備したり、心身状態に合わせた住まい環境に変更しなければいけません。
トイレまで歩けたとしても、一人でズボンを下げて、便器に向かって放尿するという手順を忘れてしまったらどうなるでしょうか。
手足の機能が低下する場合もありますが、脳が現状を判断できなくなり、何をどのようにすればいいのか混乱してしまうことも高齢になると起こり得ます。
着替えることや、駅まで歩くこと。さらには車を運転することも、加齢によってできなくなれば、何らかの形で支援が求められ「介護」が必要になります。
「介護」は加齢ばかりが原因ではない!?
病気や事故などが原因で、これまでの生活を維持継続することが難しくなることがあります。
つまり、何らかの形で他人や社会から支援やサポートを受ける機会は、中高年や高齢者に限った話ではありません。
しかし、健康的に暮らしていれば、不自由のない日常生活が当たり前で、そのことに特別な感謝をすることもないでしょう。
若い人は、体力も十分で、多少の無理もできてしまいます。何かを成し遂げたいと考えた時に、そこに集中する精神力も備わっています。
ただ、そんな状況も当然のことと考えるべきではなく、時間的にも環境的にも大切にするべきなのです。
不自由な生活になってしまうことはどんな世代にも起こり、ある意味で今の生活は幸運によってもたらされているに過ぎません。
その点では、若い頃から「社会福祉」や「社会保障」という言葉に関心を持ち、リスク回避の環境づくりに取り組むことも求められます。
まして、中高年になれば、社会環境の変化に興味を持つことが必須です。
「社会保障」や「社会制度」と言ったキーワードにどれほど着目するべきなのが、もう十分に分かるでしょう。
いつ「介護」が必要になるのか?
我々中高年世代こそ、介護の役割に関心を持つ最適な時期で、これから先、介護が必要になったら、何から始めたらいいのか、しっかりと考えておきましょう。
中高年にとって「介護」は何らかの形で関わりを持つことが増える時期で、普段の生活が困難になって来たらどうすればいいのか、家族や地域社会との関係を見直すことが求められます。