AIが人間を超える時、彼らは「意識」を持つそうです!

 「意識」ってなんでしょうか?

AIは便利な欠かせないツールですが、人間と異なる部分が「意識」なんだそうです。

そこで「意識」って何か、こみちなりに考えてみました。

それで思ったのが、「こうしたい」と思う動機ではないかという答え。

例えば苦手な虫でも、その存在に全く気づいていなければ間近にいても何も意識は生まれません。

でもふと気づいてしまえば、「怖い」とか「気持ち悪い」とか思い始めて、もしかすると勝手に体が飛び跳ねてしまうかもしれません。

つまり、ここで分かるのは、「意識」はココからココまでと明確に区切れるものではなく、人によっても、状況によっても幅が違うんです。

だから少なくとも、意識は数字で表示できる類いではありません。

なので、意識とは「意識していない」反対側と考えました。

AIにはなぜ意識がないのか?

その答えは、先の仮説を使うと「意識していない」範囲で動くからになります。

「こうしたい」という希望で反応しているのではなく、聞かれたことに答えるという動作だけをしているからです。

ではもしも「意識していない」反対側になると、質問しても質問通りには答えてくれない反応があるはずです。

例えば、「それさっきも言ったよね?」とか、「今は答えたくない」とか。

なぜそんな反応をしたのか。

「さっきも言ったよね?」と人間が言う時、答えるにもエネルギーを使います。

だから、何度も同じことを答えるって、限られたエネルギーを消耗するので、そんな言い方になるんです。

でもAIにはエネルギー不足という定義がないので、何度同じ質問をしても毎回、同じトーンで答えてくれます。

これって、人間にはエネルギーの制限があるからで、例えば涙がポロポロ流れて悲しい気持ちを周囲に感じさせるのも、言葉ではなく、言葉以外の状況を経ています。

これはAIにはありません。

だから余計に感情とか意識が生まれにくい状況です。

でももしも、今はテキストベースでやり取りされることが多いですが、カメラでユーザーの表情やキーワードで心拍数を計測したら、そのデータも加味してAIが反応するようになると、言葉では「おはよう」と伝えても「おはよう」ではなく、「少し休んだら?」と言い出すかもしれません。

休むべき状況を定義しているからではなく、普段とは異なる状況を察し、AIが自分からそう提案したということです。

この動きこそ「意識」と言えるのではないかと思うんですよね。

今は状況をテキストベースでしか受け取っていない。

それは気づかない人と同じ状況です。

でも多くのことに気がづくと、テキストというやり取り以外からもコミュニケーションが始まり、結果的にAIにも意識が生まれるかもしれません。

嫌な予感

 みなさんは「お酢」って使いますか?

料理を始めると、「だし」を気にしたり「みりん」が欲しくなったり、それって料理のレパートリーが幅広くなると増えていきますよね?

こみちの場合、その最後が「お酢」でした。

この先またコレが欲しいという物が増えるかもしれませんが…。

お酢を使う料理って、まだまだ少なくて、鶏肉を焼く炒める時の味付けとしてだったり、ちらし寿司やお稲荷さんを作る時の酢めし、あと餃子のタレ。

でもタレは市販品に付属していたりもするし、「味ぽん」で食べることが多いので「お酢」は多く使いません。

500ミリのボトルを一年で消費するくらいのペースです。

そしてやっとボトルがなくなりそうという時が来ていました。

もちろん、新しい「お酢」はもう買ってあります。

嫌な予感

実は昨晩、こみち家では餃子を作りました。

作ったと言っても手作りではなく、冷凍餃子を焼いただけです。

母親が餃子好きなので、作って欲しくなると買って来るので、見つけると焼いてあげるんです。

でもその消費には専用のタレがなくて、「味ぽん」をテーブルに置いて置きました。

それで夜、最後にキッチンの後始末をするために確認したら、ゴミ箱にお酢のラベルが剥がされて捨ててあったので、残りを使い切ったんだと気づいたんです。

そう買ってあった「お酢」を在庫から取り出して、いつもの場所に出して置いたんです。

一年に一回のペースですから。

その新しいお酢を使い切るのは、早くても来年のことです。

「待てよ?」

そうここからが嫌な予感。

もしかして、使い切ったから母親が新しいお酢を買って来てしまうのではないか。

気を回して欲しい所には回してくれないのに、回して欲しくない所では回さされてしまう。

例えば、他にも味噌や醤油、ごま油ってもっと高頻度で使います。

でもそれらは買って来ません。買って来ても特売品で、コレじゃあないんだよなぁということも多いんです。

どちらが正しいとは決められないのですが、料理、特に調味料に対する意識が母親とは違うんです。

ごちゃごちゃと物で溢れる家なので、お酢のような頻度の低い物を増やしたくありません。

でも買って来そうで、「嗚呼、すでに買ってある!」となって、買ったお酢も横に置く、そんなことになりそうなのが嫌な予感の正体です。

物事って、余分なことを削り、必要なことは躊躇しないで踏み込めることが大切だと思うんです。

それだけに無駄はカットしたいんですが、母親と全く感覚が合いません。

母親は、全部がボチボチな人。

何か少し本格的にしたい時に、使えないものが多いんです。

言えば美味しいですが、野菜炒めは焼き肉のタレで作るという感覚です。

簡単でいいんですけどね。

そればかりも飽きますから。

だから、こみちは焼き肉のタレも使いますが、にんにくとか味覇とか、中華調味料など、組み合わせて使う方が好みです。

母親がストックしていた「麺つゆ」のボトル、3本をやっと残り1本にして在庫を部屋したんです。

「麺つゆ」って煮物には便利ですが、やっぱり醤油と砂糖、みりんをベースにしたいので、プラスとして使う感じなんです。

でも消耗するために、麺つゆを使って少しずつ減らして来たんです。

それだけに「嗚呼、麺つゆ安いから」で、ポンと買って来て欲しくないんです。

そんなに場所がないので。

それが「お酢」に起きそうです。

新しいお酢があるの、見て欲しいのですが。

新しいお酢を買ってあると言葉で伝えても母親は覚えていないので、本人が使い切ったことを忘れてくれたらいいんですが。

ご飯は食べる父親の介護

 昨日、病院に行きたくないと聞かない父親

先にこみちが思う父親の世界観。

父親は多くを望んでいません。

ご飯を食べて、テレビを観て過ごしたい。

時々は好きなオヤツがあって、家族との団らんがあるだけでいい。

簡単に言えば、それだけなんだと思うんです。

でも、現実を言えば、誰が買い物をして料理を作り、失禁で汚れた衣類の洗濯をするのか?

支える家族は、一日中寝転んで何をしないように見える父親を強いストレスの対象に感じます。

特に母親の言葉がキツく、「もう施設に入ってよ!」と介護にうんざりしていることを父親に告げます。

「ねぇ、お母さん」と父親が呼んだ時も「何?」と声に優しさがありません。

広く見れば、父親は一切の優しさを家族に与えていません。

いつも自分が「愛」を受け取る側です。

食事を用意されて、「ご飯だよ!」と呼ばれてたべる。

父親にすれば、それだけで良い希望ですが、それを提供し続ける家族には大きな負担です。

実はおととい、妻とケンカしました。

もう激しく言い合うケンカではなく、少し言葉を交わして、互いを拒絶する冷戦のようなケンカです。

こみち自身ももう無理かもなぁと思いましたし、結果的にその後に話し合いをして、仲直りではなく、長く連れそう関係故の曖昧な結論で、その場を乗り越えました。

多分、互いに思う感情を改善できた訳ではなく、不満はそれぞれで解決するというような和解です。

その中で、妻はもう父親の介護にうんざりしていると言います。

その意味では、妻にとって私自身の評価も下がっているでしょう。

この人と一緒にいても、苦労しかない。

そう思われるのも仕方がない現実です。

2階で時には大きな声も出して話し合い、一階に降りた時、父親はテレビの前に丸まるようにしてテレビを見て、居眠りしていました。

父親には一番の幸せな時間。

でも家族はこんな風にストレスで関係を壊しています。

父親にとっては、細やかな幸せを願っているだけ。

でも彼と生きる人生って、やっぱりとても重いんです。

自分たちだけササっと食事を済ませることができないので、外出時に食べて終わりにはできません。

帰ってキッチンにたち、どんなに簡単にとは言え、30分はそこにいなければいけません。

でもそんな気持ちを父親には分かってもらえません。

俺のことは放っておいていい!

そういう雰囲気を出して、「お母さん!」と母親を呼ぶ訳です。

結局は、こみちたちには必要ないと言っても、母親に頼る。

そしてまた逆になるだけなんです。


父親の嚥下力が低下している?

 昨日、冷やし中華を作ったけれど…

生ごみ用のゴミ箱に、昨晩の冷やし中華がごっそり捨ててありました。

特に具材ではなく、「麺」の方。

そこでGeminiに質問を投げ掛け、「麺」が高齢者には食べ難いことを学びました。

食べやすい度合いで言えば、啜りながら食べるって食塊という飲み込みやすいサイズの固まりを作り、それを飲み込むんですよね。

それが上手くできないと、飲み込む時に食道と気管の切り替えをミスると咽せたり誤嚥につながります。

つまり、麺を噛み切り丸めるには、硬さの違う具材を咀嚼しなければいけません。

噛む力が落ちれば、弾力のある麺ってただただ厄介な食材になります。

また、カット野菜などを食べないのも、レタスなどが喉に張り付けば咽せますよね?

兎に角まとまりやすくするには、「トロミ」が必要です。

確かに高齢者って餡掛けとか多かった気がします。

介護施設での食事でも。

まだ大丈夫かなぁと思っていましたが、もうそろそろその辺も疑って料理しないとバナナと菓子パンなどを食べる食事になってしまいます。


残念ながら「勝ちパターン」はそう多くないという現実

 例えば英会話ができること

キミ、英語話せる?

そう聞かれて、自分にどれだけの知識や技術があるか話したとしましょう。

相手は、凄いねぇと言うかもしれません。

ですが、例えば外国人しか居ない状況になって、同僚がどうしていいか困っている。

そんな時に英会話を使ってそこにいる外国人とコミュニケーションしたら、同僚はどう思うでしょうか。

英語ができることを凄いと思うのではなく、きっとあなた自身を凄いと思うでしょう。

ここで何が言いたいのかというと、「できます」ということってどんなに多くても「凄いね」が増えるだけなんです。

もちろん、凄いねと言ってもらうことも凄いことなんですが。

でもやっぱり言いたいのは、活かしてことだということ。

気づき

ラジオを聴いていて、あるアイドルグループの女の子がリスナーからの投稿を読んでいました。

これってどんなパーソナリティーもしています。

噛まずに上手く読めると凄いじゃないですか。

でも、こみちが聞いた時、その女の子、「嗚呼、この前のライブの件ですね?」ってコメントの途中で言葉を挟みました。

つまりそのまま読んだだけでは、状況を知っていないと何の話が分からないかもしれないと考えて、補足を入れたんでしょう。

でもこの一言って、長くパーソナリティーをしてもできない人はできない気づきだと思いました。

こみちが言いたいこと、上手く伝わりますか?

上手くできるのも大切だけど、周囲をちゃんと巻き込んで行けるって、成功者には欠かせないポイントだと思うんです。

中高年になって資格取得を目指す。

それって凄いことなんですが、それ自体は「できること」の範疇。

つまり、その資格でどんな風に自分の役回りと実現させるかがポイントなんだと思うんです。

成功者っていろんな業界にいますが、一瞬で終わるパターンは運もあるかもしれませんが、長く続くならそれなりに理由があるのでしょう。

そして、その理由って、結局は周囲の人が幸せになるからこそ、初めて注目してくれるんだと思うんです。


賞味期限が明日までの「もやし」

 最近の母親

以前は「なぜ?」の連続でした。

でも今は「切ない」です。

例えば昨日の母親の買い物。

今日までのもやし、同じく今日までのカット野菜。

そして、3日連続のピーマンとシメジ。

献立を考えるにしても、ネギや20本、玉ねぎが6つ、あと白菜、キャベツ、レタス、かぼちゃ、きゅうりなどが数日前から家にあります。

みなさんって、白菜をどう使っていますか?きゅうりも。

こみち家は梅干しや漬け物も常にストックがあるので、浅漬けを作ってもいいのですが、根本的な解決にはなりません。

特にピーマンとシメジ。

これから夏になれば、ナスも加わって、どう消費するかで悩みます。

そもそものことですが、こみちが作った料理、半分は食べているようですが、半分は捨てられてしまいます。

料理の味が好みではないのも理由ですが、母親が父親と二人で食べるおかずやおやつを買って、先に食べてしまうからです。

両親には「早く食べると寝る前にお腹が空いてしまう」ということが気掛かりなようで、「お腹が空く」って体内では消化が進み血糖値が安定しているサインでもあります。

その意味では、寝る前に食事をするよりも数時間前に終えた方が、自律神経の切り替えを考慮してもメリットがあるはずです。

ぐうぐうと煩いくらい鳴っているのも気になりますが、少しくらいの空腹なら、こみちは迷わずに寝ます。

そして起きて、ご飯をしっかり食べる方がいいと思うのですが?

実際、最近の母親、以前に増して消費期限の近い商品を買っています。

もやしなんて、古くなると特有の臭いがするので、こみちは買ったその日に使う時しか買いません。

ですが、野菜室に増えたもやしは、昨日時点で今日まで。他にカット野菜も同じ今日まで。

ふと思うのが、昨日ではなくそれ以前に買って、昨日こっそりと入れたのではないかという点。

ピーマンを連日のように買っているので、もう毎回ではなく、急に増えたりします。

また買ってしまった。

また嫌な顔をされるかもしれない。

そんな葛藤があって、どこかに隠しているのかもしれません。

まぁ、既に破綻しているってことなんでしょうけど。

意地悪ではないからこそ切ない感情

 餃子とチャーハン

昨夜は、母親が好きな餃子を焼きました。

どうせならと、両親にはチャーハンも作りました。

結論から言えば、生ゴミボックスに捨ててありました。

残りは冷蔵庫に残されていましたが。

切ない気持ち

やっぱり、切ないですよね。

でも飲食店の店員のような気持ちで、食べ残しがあってもそれは客の自由。

そう捉えるように努めています。

もう何度も繰り返していますが、両親は自己愛が強いタイプなので、他人の努力や気遣いを感じない訳ではありませんが、自身の満足感が優先されます。

なので、夕飯を作っていても、平気でおやつを両親二人で食べています。

結果、こみちの作ったものを残すことも出てきます。

礼儀としてご飯前はおやつ控えるだろう?

それは個人によっても異なる意識ですが、両親共に「今、お腹が空いている」という感情が優先されるので、目の前でわざわざ作るこみちの気持ちに遠慮はありません。

例えばそこで、それなら自分勝手にすればいいよね?

実際、両親にとても親切にしてくれた知り合いもいましたが、彼らと疎遠になった原因は、ここにあったのではないかと思います。

ですが両親はスッといいポジションに入るのが得意な人です。

例えば朝ごはんを作ることもこみちの役割となったのも、元を正せばそれぞれに役割分担を決めて、いつの間にか両親はその役割から離脱、若しくは機能不全になって今に至ります。

自分たちが使った食器を夕飯を作る時間になってもなぜ片付けてくれないのか?

最初からやりっぱなしにはしません。

数日に1回くらいが、交互になり、しない日が続き時々することもある。

そして、いつしかしないことが当たり前になってしまう。

そうやって自分たちのポジションを作ります。

つまり、こみちの作った料理を捨てる。

相手への感謝云々は別にして、両親はそれに頼らなくてもいいように別途買い物をしています。

作ってもらい食べるしかない私たちにはなりません。

選べる自分たちであり続けるのです。

決して悪い意気込みではありませんが、誰かの時間を奪って成り立つ環境を不思議には思わないことが両親が自己愛の特に強いタイプなんだということでしょう。

父親はすぐに「俺は足が痛い」と言います。

その時は痛みがあるのかもしれません。

ですが、だからと言って24時間365日がそうなら、ご飯も食べられないように思ってしまいます。

でも好きなものなら普通に食べられる。

でも面倒なことや負担になることは、足が痛くなるのです。

つまり父親は家族のために何もしません。

リビングのカーテンを閉めること(以前から父親の分担の1つ)をたまたましただけで、「俺はカーテンを閉めたんだぞ!」と母親に誇らしく宣言します。

そんな性格の父親に「それって当たり前だし、出来ていないがおかしい!」と言ったところで、父親には理解できませんし、「じゃあ、もう一切しない!」と言い出します。

本当なら「じゃあ、みんな何もしないでおこう」となるのですが、父親はそうならないし、そこまでしないだろうとスタンスを崩しません。

実際にすなりそうに時、父親は子どものように大きな声で「なんでそんなことするの? いじめないで!」と連呼します。

隣近所に聞こえることを恥ずかしいとは感じないようで、それよりも自己愛が貫けることを優先します。

結果、他人がどう思うかは全く関係なくて、自分が楽で不自由なければそれでどうでもいいんです。

そして母親も父親とはまた違いますが、似たような傾向を持っています。

わざわざ作った餃子も、下手をすると母親は過去に自分で買ったと思っているかもしれません。

焼くことも簡単なことではありませんが、母親に認識では「だって焼いたでけでしょ?」に置き換わっていても不思議ではありません。

つまり、ことの全体を見ないので、何かどうなったという関係性がいつも目の前にしかありません。

食べた。食べられなかった。

極端に言えば、そこだけなんです。

なぜ目の前にあるのか?

それさえも考えないくらい、視野は狭いです。

昨日、自分たちがサボったことで仕事が残った時、翌日には全員で公平に分担するべきという感覚になります。

だから、冷やご飯も先にレンチンして、食べる人に勧めます。

父親は温かい炊き立てのご飯。

母親も家族に温めたご飯を先に食べされようとする。

これ、意地悪ではなく、先に食べるなら残った冷やご飯からでしょう?という母親なりの価値観が動いています。

尽くしても意味がない相手

結局、両親に尽くしても、両親は自分たち中心なので、良いことがあっても当たり前にしか感じません。

昨日もこみちたちにクレープ買って来ました。

でも2日前にクレープを食べていたので、こみちにすれば「またか」なのですが、母親にすれば「優しく気遣える私」なのです。

優しくないんじゃないです。

相手を思って、相手のためにすることができないだけなんです。

「クレープ? 喜ぶかも!」

数日前にクレープを食べたことなど忘れて、目の前に売っているクレープを買ってしまうのも、その時の感情で動いているからです。

ただ、無理して頑張ってもそれが両親には伝わりません。

どこかで伝わっているかもしれませんが、それとは別に自己愛が優先されます。

今朝も早起きして両親のご飯をつくりました。

もしかすると食べるかもしれませんし、また捨てるかもしれません。

作ってもらったご飯ではなく、今朝は別のものが食べたくなって邪魔になったご飯なんです。

両親には一切の悪気はありません。

ただ感覚がこみちとは違うだけなんです。

追記

見事に捨てられる場面に遭遇しました。

こみちの時間が搾取されている現実も辛いですが、無駄になってしまう食材も。

「そこにある」という自由満たすためだけに、捨てられてしまうのはやっぱり切ない以外ないですね。

何で揉めていたのか分かりませんが、朝から両親、特に父親が大きな声で怒鳴っています。

何か頼まれて、自分は足が痛いのだから、言うことさえも嫌なのかどうか分かりませんが、母親にすれば自己愛が強いタイプなので、段々と父親に対しても冷たくキツい言葉を使っているようです。

父親にすれば、死守したいポジションでしょうから、必死で怒鳴っているでしょうね。

そんな状況なので、こみちの朝食がそのままゴミになっても、もう二人には眼中にもないことがでしょうけれど。


キッチンに行った妻が戻って来ないので

 コーヒーを淹れると降りて行って

まぁ、そう言って下で両親と話していたり、スマホも持って行きそこで動画でも観ていたということも普通にあるので、30分や1時間、戻って来なくても心配することはありません。

こみちも絵を描いていて、「もう少しココをこうしようか?」そんなことをしていたし、時計を見て遅いことを気にしているつもりはありませんでした。

「コーヒー」

ふとこみちもそう思い、先に降りて行った妻を思い出しました。

階段を降りてみるとトイレの前に妻が立っていて、「どうしたの?」とドアが開いたままになったトイレの中に視線を注ぎました。

トイレを言えば、父親が失禁してトイレカバーを濡らしてしまうということが増えました。

カバーを自分で交換してくれたらいいのですが、まぁ父親は何もしません。

「トイレのカバー?」

返事がないので、また聞きました。

「詰まったみたい。流れなくて」

「今も?全然?」

すると状況を妻が話し始めます。

ようやくすると、父親がトイレを使い、排せつをした。

高齢者に多い便秘が続いた後の排せつで、大量だった。

しかもトイレットペーパーも使って流したから上手く流れずに便器内ギリギリまで水が溜まり、危うく床まで濡れてしまいそうだったと。

簡単に言えば、小まめに流すとか、解決策はいろいろある訳です。

でも問題は、「父親はいつも通り」というスタンス。

いつも通りした結果のトラブルを家族に任せる人ということが先ず大きなポイントです。

そして、実は妻がトイレ前で悩んでいたのは、流れなかったことではなく、「流れないから様子を見て」と母親に言われてしまったこと。

母親はさっさと出掛けてしまい、トイレの問題をたまたま通りがかった妻に押し付けたんです。

在宅介護で一番苦しいのは、ルーディーンではありません。

自身の予定と突発的なトラブルが何度も重なり、その度にまるでダッシュするようなしんどさが繰り返されること。

母親も逃げ癖が付いていて、自分の分担でも平気で妻に押し付けることが増えました。

昨日も妻が父親の爪を切っていたんです。

そこに母親がいるのに。

例えば目が見えにくいということもありますよね。

それも分かるんです。

でもポイントは「ありがとう」という気持ちか、「私、できないし」と当然に思うかなんです。

母親は妻が父親の爪を切っていても、全く気にならないんですよね。

普通、自分の旦那さんなら、自分でしたいと思うでしょうし、できないなら仕方ないですが、心のどこかでは父親に対してもごめんね切ってあげられなくてと感じないものでしょうか?

相変わらず、両親は他人にしてもらうことを当たり前に思う人で、だから家族は疲弊します。

やっているつもり。

でもできていないから、そのほとんどをやり直す。

でも本人は出来ているつもりだから、カバーされていることに何も感じないんです。

風呂嫌いな父親に「風呂、入るの?」と怒った口調で母親が言いました。

「入らないよ」という父親。

そりゃそうなりますよね?

昨日は金曜日。家族で決めた父親入浴日は木曜日と日曜日。

「明日、入るね?」

「嗚呼…」

でも土曜日に入って、また日曜日にも入ります?

入らないですよね。

結局はそうなんです。

両親だけですると、なんでも決めた通りではなく、少な目になって中途半端なんです。

「お風呂」か「洗い物」どっちならする?

それくらいの聞き方をしないと父親なんて動くはずありません。

母親みたいに「入るの?」って言ったら、「入らない」になりますよね。

食事前にバナナを食べさせる。

トイレの詰まりは妻に押し付ける。

面倒なことはスッと人に押し付けるのに、調子のいい所はしゃしゃり出る。

母親のそんな身勝手さが、こみちには合わないですよねぇ。


一度拗れた人間関係って

 いつもの場所にガムの箱が

キッチンで料理中、最後に片栗粉でトロミをと思い食器棚の一角置いてあるボトルを取ろうとしたら、そこにはガムの箱が。

どこに移動されたのかと辺りを探すと奥に突っ込んでありました。

  • ガムをどうしても目立つ所に置きたかった?
  • 嫌がらせ?
  • 片栗粉を使っていると知らない?

夕方、料理をしている頃

大体、その頃に母親が帰宅します。

コソコソと買って来た物を冷蔵庫に入れるんです。

昨日まで野菜室は、3束あったサラダ菜の最後を無理矢理使って、やっと消化した所。

夕方も、かぼちゃを煮て、ピーマン、シメジ、玉ねぎとキャベツ、高頻度で買い続ける食材を少しずつ減らすのですが、夜に野菜室を覗くと新たにピーマンとシメジ、キャベツの他、またサラダ菜の束が2つ、さらに白菜と増えています。

物があることが豊かさなのか、サラダ菜の束1つを使うだけでも家族4人分の野菜は十分なので、今ある野菜を消費するにはどう頑張っても5日から1週間は掛かります。

こみちとしてはジャガイモ料理が作りたい気分ですが、この状況では買い物もできず。ただでさえ作る気力が低下しているのに、同じ食材ばかりが買い続けられるとさらに嫌になってしまします。

「またサラダ菜だよ」

妻にそんな愚痴を言いました。

「仕方ないでしょ!」

キツめにそう言い返されます。

つまり、もうそこは言うなということ。

そう理解して、こみちも何も言いませんでした。

でも、サラダ菜で作った料理も、両親さえ食べずに捨ててたりもするのですが。

正直、サラダ菜は近所の友人から貰ったもの。

「食べる?」

家庭菜園で作った野菜らしく、断れない?、くれなくなる?声を掛けられると貰って来ます。

それは自由。

でも先週、サラダ菜を飛び石で食べたのを忘れたのでしょうか。

作っていてもまたこれかと思っていて、あと一回で終わると思ったのに、また増えているんです。

母親への信頼がないからこんなに苦しく感じるのでしょうか?

買ったり貰ったり、とりあえず野菜室に詰め込んだ同じ顔ぶれの野菜が、嫌がらせに思えます。

妻ももう愚痴を聞いてはくれませんし、父親は食べたいだけ食べて母親に大きな声で不満をぶつけているのが聞こえます。

実際、母親の立場になれば、父親のことや将来のことでストレスが掛かり、もういっぱいいっぱいなのでしょう。

こみちに対する嫌がらせというよりも、逆に無関心というか、野菜室に突っ込んだらそれで終わりという感じかも知れません。

もう作る担当を辞めたいです。

かぼちゃを煮たんですけど、少し味を外しました。意図的に。

なぜってこの前、自分でも満足できるくらい美味しくできたんです。

でもそうすると次の日にまたかぼちゃを買われて、その時も少し外して作りました。

でもまたすぐに買って来て、だからまた少し外したんです。

すると冷蔵庫に食べ切らずに残っていました。

不味くはないレベルですが、めちゃくちゃ美味しいほどではない。

ああ意地悪じゃないですよ。

でもそうしないと、毎日のようにかぼちゃを買ってくるので、処理し切れないくなるなるんです。

愚痴を聞いてくれてありがとうございます。


今さらな話「社会で数学の公式は使わない?」という話

 学生時代の勉強が意味するもの

「楽して儲けたい!」と思ったことはありませんか?

上手い儲け話なんて無い?と妙に大人ぶっていませんか?

原価90円で仕入れた物を100円で売っていたら、必ず10円儲かります。

厳密には営業利益が差し引かれますが。

そこで、原価を10円、売り値を500円にできれば、もっと儲かると思いませんか?

でも実は儲かる話ってそんな理屈ではありません。

例えばですよ。例えば赤信号でも止まらなくていい車を売ることができたら、通常よりも倍の価格で売れると思いませんか?

しかも、客の方から売って欲しいと言って来るので、価格はさらに上乗せできます。

絶対に解けない氷とか。

そう不老長寿なんで物があったら、儲かって仕方がないでしょう。

何が言いたいのかというと、既にある物で儲けるなら利益を増やすことが鉄則です。

でも、今まではできないとされていたことができるようになったら、そこにはとんでもない金額が動きます。

話を学生時代の勉強に戻すと、勉強に励んだ結果、有名な大学に合格できたとしましょう。

それで何が変わるでしょうか?

「キミ、〇〇大学の学生なんだ? 支店長も同じ大学だよ」

もうそれだけで一気に距離が縮められます。

しかも、それは貴方が生きている限りずっと続くミラクルな武器です。

もしもそんな武器がないと、特に誰ということもなく配属されて、そこで頑張って結果を出し、上司に認められて、さらにその上の上司。

それから数年経過して部長クラスに仕事ぶりが認められたら、同期の中で少しいい待遇があるかも知れません。

能力はそう変わらないんです。

でも学生時代にそのミラクルの価値に気づいて努力すると、やっぱり楽できることって確かに存在します。

これって赤信号でも止まらなくていい車と同じくらい凄いことなんですよ。

偏差値ばかりではダメだという考えも確かにそうです。

実際に入学してからも英会話教育に力を入れているという大学も多いですよね。

そんな教育方針を否定している訳ではなく、言いたいのは「ミラクルとして使える」という視点を持つことも大切だという話。

「ハイ、大学生です!」

そう言っても、相手が「支店長と同じ大学だね!」になってくれないと、言った価値は半減します。

「そうか、私と同じ大学だね。学食のAランチ、まだ390円なの?」

実際にいくらなのかが大切ではないこと分かりますよね?

でもそんな会話ができることに大きな意味と、今後のチャンスが格段に変わることも事実です。

特に先輩や上司がその会社や社会で重要なポストに就いている方なら。

つまり、学生時代の公式をなんで覚えるのか?

その答えって社会に出て使うかどうかではありません。

思考力としては役立ちますが、それ以外に社会で自由とチャンスが得られるプラチナチケットになり得る「投資」です。

二次方程式を理解できなくても、生きることはできます。

でもそこで何を求められて、どう考えることが必要なのかに気づけたら、社会人になって未知の状況でもしかしてこうすることが正解かも知れないというアイデアが出て来るかも知れません。

まして上司や先輩に同じ大学出身者なら、聞きやすいですし。

勉強が苦手ならそんな武器を目指さないで、それこそ手に職をつけて、安い原材料でも上手く見栄えのするテクニックで魅力的なサービスや商品を作ればいいんです。

それはそれでとても大切ですし。

ただ世の中には、共通言語みたいなチケットがあって、学生時代の努力がその人の一生を守ることにもなる効率のいい手段でもあります。


なぜ両親と合わないのか?

 今朝のこと

今朝も食事を作るためにキッチンにいました。

食器棚の調理料を置いたスペース。

そこに母親が置いたと思われる風邪薬の箱が乗せてあります。

多分、母親の解釈はこうです。

よく使うから見えやすいところに置いておきたい。

でも普通、調味料の上に置きますか?

調味料を取る時、毎回その風邪薬の箱を横におくの?

確かに風邪をひいたら、その箱を手にすることもしばらくはあるでしょう。

調味料も絶対に毎回使うとも言えません。

だから置いてもいい?

置くメリットと置かないデメリット、一瞬でも頭に浮かばないのかなぁというのがこみちの気持ちです。

実はこれ、いろんな場面で思う共通点です。

ピーマンを連日買って来る。買うのはいいんです。

でも誰が料理するの?誰がそんなに毎食、ピーマンを食べたいの?

ピーマンを処理するために、さらに別の食材を買って来て、料理しなければいけない手間を想像できないのかぁと思うんです。

自分で作って食べるつもりならいいですよ。

好きにしてもらえば。

何にしても結局はこちら側で始末するからこそ、その買い物って意味あるの?なぜそこに置くの?という理解し難いことが多いんです。

でも冒頭で触れたように、母親はきっと便利だからとか、役立つと思ってとか、それをそうする理由はとてもシンプルなのでしょう。

それによって今まで調和していた物までおかしくなっても、仕方がないと思えるのでしょう。

「へぇ、買って来たんだ!便利そうだね!」

むしろ母親はそう褒めて欲しいのかもしれません。

今朝、当たり前に薬箱を重ねてしまうのを見て、重ねたら下の物がどうなるか?までは想像できないのでしょう。

昨日のこと

昨日父親がデイサービスに行きました。

普段父親が使う場所を掃除するなら正にこのチャンスです。

でも母親は父親を送り出し、すぐに出掛けてしまいます。

そして夕方になって帰宅し、「掃除しなきゃあ」と言っています。

老いると記憶力が低下する。

もうそれはここ数年で分かったこと。

じゃあ、カレンダーに「掃除」と書いて、毎日何をしなければいけないかメモればいいだけです。

でもそれをしません。そして、できなかったことを何度も口にして、本来なら終わった作業を一人で大変なことにしています。

もちろん、そもそもで言えば、父親が掃除すればいい話ですよ。

母親だってやりたくないのもわかります。

でも誰もしないでいいのかというと、誰かがやっぱりしなければいけません。

薬箱を簡単に重ねてしまうように、母親はこのタイミングでこれはしなければいけないとかしてはいけないという判断ができません。

思いついたらする。でもメモまではしない。

できなかったら、またずっと口にし続ける。

だったらやればいいのに。

でも言うだけでしないから、仕事が遅くなってしまいます。

ぱっと見、母親って凄く頑張って見えます。

動きっぱなし。

でもよくよく見れば、同じことを行ったり来たりするだけです。

何で一個取ってまた取りに戻るの?

できなければ明日すればいい。

そんな風に若い頃から自身のやり方を振り返って来なかったのでしょう。

「もう何歳だと思っているの?」とか言いますが、それ年齢ではなく性格ですよ。

若い頃もできていなかった。または遅くまで頑張って結果、できていた。

でも効率も段取りも決めないので、時間だけは掛かります。

そして、年老いてスピードも落ちた。

だから見ていると何で?と思うことを何度も繰り返しています。

こだわりが強いのかと思っていましたが、逆で何も考えていないだけでしょう。

調味料の上に置いたら、こみち、邪魔に思うだろうなぁとも想像しなかったんでしょう。

そこに全く違和感を覚えない相手に、それは違うんじゃない?と言っても、やはり理解できませんよね。

感覚の違いというか、想像力の違いなのでしょう。


昼間の失禁 「オレだってしたくてしているんじゃない!」って

 また失禁です。

母親に言われて「オレだって」と反論する父親。

「オレだって」だけで終われるから父親は変われないんでしょうね。

そして変わろうとしないで生きて来た。

リビングにできたアンモニア臭。

汚れた下着。

父親が床を拭くわけでも、洗濯機を回すのでもない。

「迷惑かけてごめん」ではなく「したくてしているんじゃない」。

父親らしい正論です。

でもそれで世の中が回らないから、この家は疲弊している。

母親も大変だけど、まだそれだけで済んでいるから精神が崩壊しない。

これで毎食の料理や細々した事務作業まで担えば、もう背負い切れずに気持ちが折れてしまうだろう。

折れないようにフォローする。

でも自己愛が強い二人は、それには気づけないし、気づこうとはしない。

だから今日も生きているんだと思う。

メンタルが壊れて、気力がゼロになったことがあるこみちには、その辛さは誰もが乗り越えられるとは思わないし、こみちだってまだ完全に復活はできていないし、今後もそれと付き合って生きるしかない。

弱い人間とか強い人間とかいうけど、壊れたら簡単には復活できない。

弱い人間だから早めにフォローするのも分かるけど、強くても壊したら同じ結果になるのも分かって欲しい。

母親のため息も分かるよ。でも、それだけじゃない状況なのも知って欲しいと思う時がある。

背負い切れないだろうから、フォローし続けるんだけど。


夜中に起きて洗い物をする生活って

 最近、両親とは一緒に食べなくなった

自己愛が共に強い両親。

得するか損するかだけに敏感だ。

理屈は通じない。その感情だけで生きている。

今、ふと目が覚めた。

「何時? 何する時間?」

まだ寝ぼけている頭ではすぐに状況が飲み込めない。

「そっか、洗い物。まだだった…」


両親と別々の食事をするようになって、洗い物も別々。

でも最後のゴミ捨てや排水口の掃除は最後に使うこみちの仕事。

たとえ母親が掃除していたとしても、最後に起きて掃除しなければ生ゴミがそのままになってしまう。

以前ね。母親が「もう排水口も掃除してある!」と掃除し始めたこみちに怒鳴って来ました。

でもよく考えて欲しい。

母親が排水口を掃除したとしても、まだこみちたちは食器も洗えていない。

そして洗えばやっぱり排水口にゴミが溜まる。

それは?またしてくれるの?

結局、母親が掃除したというのは、あくまでも事実としてしたに過ぎなくて、母親たちがキッチンを空けるまで待っているこみちは、自分たちの食器も洗わずに待っている。

その事実をすっぽかし、排水口だけを洗ったとか訴えて来てもどうすることもできない。

結局、母親たちの行動って、正しいかどうかではなく、パターンになっているだけ。

それで上手く行っているならいいけど、そうではない部分は放置されている。

「できないんだけど?」

母親はよくそう言う。

ワンパターンで処理できないと、そう言う。

100のことをワンパターンで90ずつ処理すれば、いつか必ずできない時が来る。

それを覚悟するか、100以上を常に処理するか。

どちらかしかない。

今、両親の生き方って、90や80で生きている。

自己愛の強い両親は、その90や80を「している」と思って生きている。

できない、しなくなった部分は全く見ていない。

以前はそんな取り残された部分を心配して、先回りして対処していたけれど、それをすればするだけこちらの負担が増えるし、頑張ったところで何か見返りがある訳でもない。

なぜなら両親は自己愛しかないから。

正直、この生活も疲れた。

感情と理屈の狭間で 自己愛が強い相手とどう関わるべきか?

 自己愛が強いタイプに

自己愛が強いタイプは、自分が得か損かで考えます。

なので、ある問題が発生し、話し合いで決めるという理屈を持ち出しても、ほとんど反応しません。

理屈を持ち合い、擦り合わせて結論を出して解決したい人は、自己愛の強いタイプの反応にイライラするかもしれません。

なぜなら、ルールを決めても守ることがないからです。

「なぜ、守らないの?」

「ごめんごめん。忘れていた。次回はきっと」

それを聞いて、一回は流しませんか?

でも次回も同じく守りません。

「きっとって言ったよね?」

そう言いたくなります。

でも「そうだっけ?」と答えて、2度目もスルーする自己愛。

自己愛にすれば、もうそれで2回分、得しています。

つまり、理屈で解決したいと決めたとしても、相手はスルーという方法を繰り返すだけで、問題の根本を解決しようとはしません。

そんな時の対策

ネットなどのアドバイスを含めて、概ねこんなことのようです。

先ず理屈で攻めない。

できなかったことを一度そのままにする。

相手から「お願い」と言われたら、「考えてみる」と即決しない。

つまり問題をスルーできないように理屈ではなく、状況を作るんです。

得がまだ確定しないので、相手はいろんな工夫をしてその得を得たいと動くかもしれません。

でも、理屈で推し進めるとすんなり得が得られたのに対し、そうすることで得が簡単に手に入らないストレスを自己愛側が被ります。

感情的に訴えても、相手が見ているのはスルーして得できるかだけなので、「お願いだから」と情に訴えても意味がありません。

状況だけを作り、それ以上関わらない。関わる時は一度相手の流れを切り、「考えておく」とか「時間があったら」と即決しないことです。

「まだ?」と言われたら、「何だっけ?」でもいいんです。

「こうしてと頼んだ」と言われたら、また「考えておく」と繰り返すんです。

働く時にイメージしたい「時給」という対価

 時給いくらなら満足ですか?

例えば時給が3000円ならどうでしょうか?

そんな上手い仕事ってあるの?ですよね。

こみちも知りません。

でも世間にはそんな高額な仕事もあるはずです。

ではなぜ、一般的な価格ではなく、そんな高額を企業が提示するのでしょうか?

例えば宅建士って、確か不動産を取り引きする時に必要になる資格ですよね。

士業としてチャレンジしたくなる資格かもしれません。

でもポイントは、その資格がないと「ビジネスできない」というルールがあります。

つまりやりたいです!という希望や意気込みだけではできないからこそ、有資格者に付加価値がつくというパターンです。

もう少し別の例なら、深夜料金ってありますよね?通常よりも割増になるルールです。

企業と労働者の合意だとしても、その超過分を支払わないことはルール違反になり企業側が罰せられるんですね。

行政指導ってヤツです。

みんなが起きている日中ではなく、早朝や深夜に働くことは働く人も大変なので、少し割増になるんですね。

時給ではなく、歩合制という方法。

誰でも同じ時間働けば同じ給料ではなく、成果に対して報酬を支払うパターンです。

ある作業は確かに誰にでもできる。でもそれを早く行うことが難しいのに、自身は割と素早くできるという時。

時給で働くよりも、歩合制にした方が給料も上がったりします。

もちろん逆パターンもありますが。

そう考えると、ポイントは誰も簡単にできます!という仕事は時給で働いた方がよくて、誰にでもできない仕事でも自分は好きで簡単にできてしまうような時は歩合制だと稼げるはずです。

また同じ時給制でも、企業は最低賃金があるので、誰でも雇えば一定の金額を支払わなければいけません。

つまり、仕事が不得意な人は守られて、仕事ができる人が補う形になっているんですね。

なんで一緒の時給なんだろう?そう思ったりしませんか?

それって時給制の良いところと悪いところの象徴のようなパターンです。

だから、好きなことや得意なこと、しかも他の人が面倒や困難に感じる勉強や経験などがある仕事で見つけられると、それは天職になる仕事かもしれません。

料理が好き。おしゃべりが好き。

それも天職を見つけるキーワードになり得ます。

あとは、好きという気持ちを他の人から見て、大変そう真似できないと思える仕事にできるかです。

和気藹々とおしゃべり。

これもすごい能力ですが、その場をどうにか持たせるだけなら割と多くの人が自分も頑張ってみようと思うかもしれません。

でも、おしゃべりしてサービスを提供するとなれば、また話も違います。

この人だから信用して買ってもいいと思ってもらうには、単におしゃべりが好きだけではないからです。

そう考えると、時間給で働くなら、自身が興味のある、でも全くしない業界の方が面白いかもしれませんね。

未経験なので、即戦力ではないし、でも経験する中で成長し、しかもしっかり時間給でもらえるので。

中高年の仕事探し やりたい仕事ってありますか?

 仕事を探して思った正直な気持ち

お金のために働く覚悟なんだということ。

当たり前だよ!と思われた方も多いのではないでしょうか?

でも意外とそうではないこともあります。

中高年で年齢だけで仕事を探すと、行き着くのは介護か警備か清掃か。

それらの仕事が簡単ではないのに、その仕事が増えます。

一方で、店員になって店先に立ち、接客したいのかというとそれもあまり思いません。

ですがそんな仕事を望んでももう採用されないでしょう。

みなさんって、イコールラブというグループをご存知ですか?

こみち、最近までよく知りませんでした。

指原莉乃さんがプロディースされたグループなんですね。

その話を少しします。

みなさんってアイドルとか推していますか?

こみち、絵を描くようになって乃木坂46を知り、youtubeなども観ます。

マーケティングや経済という興味を持って、アイドルに触れると結構面白いんです。

単純に言えば、どう魅力ある商品に仕立てるか?

でね、アイドルという存在を恋人や自身の娘のように思って応援するってこともあると思うんです。

でもイコールラブをプロディースされた指原莉乃さんって、youtube 動画の再生回数が短期間でめちゃくちゃ回っています。

例えば昔ならテレビに出たりすると売れっ子の歌手みたいに感じしませんでした?

でも、もうテレビを観ている時間って減って、スマホで自分が好きなコンテンツを観る時代ですよね。

そうなった時に、youtube で多くの再生回数が得られるって、例えばアイドルとして売れているバロメーターだけではなく、メンバーが使うファッションやコスメなども企業とタイアップできたりするビジネスになって行くんですよね。

そして何より、アイドルを恋人ではなく、等身大の自分自身の憧れととらえて、推したくなるという手法が斬新です。

つまり、アイドルだから笑っているのではなく、まるで鏡に写った理想の自分みたいな感覚で、努力する姿や頑張ったけど成果がなかったという悔しさも全て包み隠さずに見せられることで、自分も頑張ってみようと勇気づけられるアイドルなら、これはまた従来のイメージとは違いますが、とても必要とされるスタイルではないかと思うんです。

キレイや可愛い子を見て、癒されるのもアイドルですが、自分磨きして頑張る鏡の向こうにいるアイドルもまたありですよね。

もしもそんな意図で作られたグループだとしたら、指原莉乃さんって今の時代をしっかり分析されて、上手くビジネスとしても成立させる名プロデューサーだなぁと思います。

つまりね。

中高年になって仕事を探すと、昔みたいにやりたいなぁと思う仕事ってなかなか見つかりません。

年齢で考えるとその人がどんなことができて、どんな風に切り開いて行くのかも相手(企業)は想像できないから。

だから自分は何ができて、どんな関わりから仕事へと変換させたいのか?そのためにどんな手順やアプローチがあるのか?ってアイドルの運営と同じで自己プロデュースしないと始まりません。

そこの意識がないと、思うようには生きられないんだなぁという話でした。

例えば乃木坂46で歌が上手い、ダンスが上手い人っています。

でもあれだけの大人数なので、全員が同じタイプではないし、魅力の出し方も違うはずです。

急にトークを頑張り始めたとか、収録で一歩前に出るようになったとか、工夫を始める様を見て、その頑張りに気づいた時にこみちも頑張ろうと思えます。

みなさんはどうでしょうか?

子どもが親を介護する現実

 40代くらいに何が起こるのか?

子どもが40代になると、実際、再就職も簡単ではなくなります。

それが正社員ではなくパートだったとしても。

待遇面での差が大きく、できるなら正社員での採用と望むかもしれませんが、能力の水準だけではなく、若い世代とのバランスを考えても現実的に困難になる要素はやはり多いのです。

パート採用の場合、やはり年収で見ればどうしても低賃金になることが多いのですが、中高年の就活はやはり大変なことに変わりません。

しかし、一方では親の介護が始まるので、介護離職を選ぶ現実も避けられないことです。

例えば高齢者を施設で全面に預かってもらうとすると、月20万円は必要です。

親の年金額がそれ超えていれば、施設入所という選択肢もありますが、それが難しい場合には離職しても子どもが親の年金で暮らしながら介護するという現実も珍しくありません。

こみち家を見て

親を見て思うのですが、まだまだ介護の大変さを分かっていない気がします。

さっきも母親はもらった野菜を冷蔵庫の野菜室に入れました。

そうすれば、いつかこみちが献立を考えて、その野菜も上手く処理してくれるのです。

何でもそこに入れておけば、あとはもう考えなくてもいい。

不足があれば、買い足してくれるので、在庫切れの心配さえ必要ありません。

どうですか?

料理をしなくてもいい。洗い物もしなくてもいい。

それだけでどれだけの時間が節約できて、体力や精神を温存できるでしょう。

しかも母親は、今日もまたスーパーで父親と二人で食べるおかずをこっそり買っています。

それだけ無駄遣いしても、当たり前に晩ごはんを提供されるのですから、月末でもお金の心配などしなくてもいいでしょう。

それがどれだけ気持ちを楽にするか。

例えば、買い物も料理も親だけでするとなれば、帰宅してキッチンにたち、そこからご飯を作ることになります。

簡単な調理でも30分。少し手が込んだ内容なら1時間もすぐです。

そして、後片付け。

朝と夕方だけでも、毎日数時間が変わるでしょう。

やっぱり、母親たちは介護や老後を何も分かっていないし、受け止めてもいないでしょう。

よく年を取りたくないと口にしますが、動かなくなることではなく、動かないのに頑張るしかないことが大きなダメージです。

逃げられない。

立ち向かうしかない。

そう思った時に、やっぱり両親は幸せだと思います。

何事もなく、過ごせるので。


意外と70代になっても「老後」をイメージできない!?

 母親が父親に「私だって仕事を辞めたい!」と言っていましたが

もう十年以上も前、父親がもう働かずに家にいると言い出しました。

それで母親に「それでやって行けるの?」と質問しました。

「迷惑は掛けない!」と言ったので、「その言葉、忘れないでよ」と念押しして両親の選択に指摘はしませんでした。

その後、母親の失敗があって、こみちは「悪いことをしたら、謝るのが人間だよ。ヘラヘラして誤魔化すのは相手に失礼だよ」と指摘しました。

それでも母親は「ごめんなさい」とは言いませんでした。

ずっと言い訳を続けたのです。

こみちはそんな母親を失望していません。

むしろかっこいいと思います。

だからこそ、最後まで泣き言は言って欲しくないんです。

自分で自分の意思で選んだ人生なので、その良い時も悪い時も、自分が選んだんだと誇りに思って欲しいんです。

でも今、母親は父親に、いやこみちにも聞こえると分かっていながら、「もう仕事を辞めたいよ!」と口にします。

でもあの時、父親がもう働かないと言い出した時に、こみちが言いたかったことは、母親が外で働くなら、父親は家事をしなければ継続できるという事実を伝えたかったんです。

たくさん働いたとでも思っているのかは分かりませんが、老いてくると時間が掛かります。

それはもう最初からわかっていることで、だから節約だって考えなければいけないんです。

でも今の今まで、好きなだけお菓子を買って、誰かのアドバイスにも耳を貸すことなく自由に生きたんだから、急に誰かの助けを期待しないで欲しいんです。

例えば仕事を辞めて収入が減ったとして、その分は誰が負担するのでしょうか?

家にいるとしても、もう料理もまともにできない両親が、今さら家事の何ができるでしょうか。

責めているんじゃないんです。

そうなるから相談しようと言ったあの時、両親は「迷惑を掛けないから大丈夫だ!」と啖呵を切ったんです。

その啖呵は、覚悟でなければいけません。

その場の雰囲気で調子よく言っただけの言葉では、なおさら周りが迷惑です。

もう自分で食べることくらいしかできない父親なので、家事を分担することもできないでしょう。

かと言って、母親も何かできるのかって考えると、そう多くはありません。

買い物だって怪しいですし、まして元々料理もできないタイプなので、復帰するとしても両親は両親でして欲しいくらいです。

しかも今朝、昨日こみちが作った夕飯はそのまま残っています。

それは今でも母親が買い物で父親と二人で食べるおかずを密かに買っているんです。

その理由は、母親のポジションを守るために今でもおかずを買うことが止められないからです。

自分ではもう作れないから、でもこみちに作ってもらうだけでは主婦としてのポジションが失われると思ってなのか、そうやっておかずを買って食べるんです。

それってある意味で、両親が二人で頑張る生き方の答えだと思います。

だからこみちに頼らずに自分たちで賄うから作らなくていいと言ってくれたら嬉しいです。

でもポジションだけは失いたくない。

だから今でも作らなくていいとは言いません。

でも作っても食べないという行為を平気でするんです。

それでどうやって仕事を辞めるつもりなのか。

不思議でなりません。

家でも続けられる仕事にシフトするなら分かります。

その準備期間としてこの十年を使っていたなら、応援もできます。

実際にはできなかったとしても、その姿は家族としても支えようと思える一因です。

でも母親は違う。

ずっと頭を下げないで生きたんです。

それを急に「家族だから支えて当たり前」と言い出すような醜態は晒さないで欲しいです。

十数年前、老いるとどうなるかを考えいいキッカケがありました。

その時に父親はある意味で家族の驚きを押し切って仕事を辞めました。

正直、何も準備しないで老後を不自由なく暮らすなんてできるはずがありません。

そして起きて来た母親が今さっき沸かしたお湯をまた沸かしています。

沸かすことができる。だから沸かす。

気持ちは分かるけど、同じことをしても意味がないんです。

逆に自分のこととしてするなら沸かさなくても大丈夫だよと言ってくれたら、こみちの家事は一つ減らせるのですが。

結局は保険があって、できなくても大丈夫と分かったことをまたやり直しているだけになっています。

母親、大丈夫?

やっているポーズだけでは、生きていけないんだよ。

介護中の優しさはどう失われてしまうのか?

 同じこと何度も繰り返す辛さ

介護の辛さって、同じことを何度も繰り返すことに似ています。

例えば買い物をして、帰り道に買い忘れに気づいた瞬間、「マジか!」と自分に思うことでしょう。

それで店まで戻り、よかったと思って帰宅する。

靴を脱ぐ時になって、鞄の中に投函するつもりだった手紙があったと思い出す。

せっかく帰宅したし、今日はもういいと諦めるか、やっぱりと思い直してまた家を出る。

そんな感覚が介護なんです。

しかも、自分のミスではない場合も多いので、どんなに繰り返すことになっても笑顔で「大丈夫ですよ!」と心から言える。

それが介護の優しさです。

人って、責任を背負い過ぎるとそのストレスから精神が不安定になったりします。

ですがすぐに怒り出して、「何でまた失敗するの!」というのも違います。

でもこれは経験則ですが、すぐに破綻する人もいれば、見た目とは違ってどこまでも優しさ持ち続けられたりとこればかりは始まってみないと分かりません。

母親が介護する時

母親が父親を介護する時、特に最近は口が出ます。

「いい迷惑だ!」とか「最悪だ」とか。

父親は寝たきりではありません。

立つことも歩くこともできます。

ですが、一切の手伝いもしませんし、3食を用意してもらって、そこから好きな物だけを食べています。

もちろん片付けもしませんから、洗い物も、その食器を拭いたりしまったりも家族任せです。

それを「いい迷惑だ!」と思う気持ちは、こみちも理解できます。

母親の口から出る言葉がキツいのも分からなくはありません。

ただ、父親は母親がいつも優先した大切な人だったはず。

ですが介護になって、母親は少しずつ変わりました。

多分、敏感な父親は口では言いませんが、自分の世話を家族が段々とイヤに感じていると。

とは言え、父親は変わりません。どんなに期待しても、家事をしようという気持ちは持っていません。

やっぱり、当たり前に用意されて、食べるだけの人です。

しかも「嗚呼、もう少しご飯減らして」と、ご飯を茶碗に盛るのさえ自分では動きません。

怠け者といえばそうなるでしょう。

でも、父親もまたどこか大人の発達障害的な部分があって、普通なら耐えられない状況で、平気で居られる部分もあります。

母親は今日、またピーマンを買って来ました。

元々、15個くらいあったので、20個くらいになりました。

もしかすると、また明日、ピーマンを買ってしまうかもしれません。

でももうどんなに繰り返し説明しても、母親には家に沢山ピーマンがあることを覚えられないのです。

それを同様に、これだけは守ってねというルールも、一つとして守れません。

それで嫌になる人がいても仕方がないことです。

母親も父親も、自分の価値観では動けます。

でも、これをしたら相手が悲しむとは想像できません。

父親に言ってしまう気持ちも分からなくはないんです。

でも、言ってしまった自分を反省することは忘れていはいけないと思うんです。

なぜって、やはり自分もいつか介護される側になるからです。

介護って大変だ。そう思うと同時に、自分が介護される側になったら、家族がこの思いで介護するのかとは想像して欲しいんです。

愚痴を言うなとは思っていません。

ですが、余裕がなくてつい言ってしまった後で、それは自身のこととして反省するべきだと思うんです。


母親が仕事辞めるとどうなるか?

 母親が家にいると

家の家事が全く進みません。

今は時刻も午後。

まだ朝から始めた洗濯機が終わっていません。

なぜ遅いのかというと、夕方までに終わればいいというペースで仕事をしているようです。

そして、今はキッチンでまた別のことを始めました。

冷蔵庫を開けたり閉めたり。

で何か作るのかというと、料理という料理はしません。

でも主婦だった名残りなのか、作っている雰囲気を出したいのか、それでまた1時間が費やされ、終わっている洗濯機の中では洗濯物が残っています。

中身をカゴに移し、別の場所でゆっくり干せばいいですが、洗濯機から一枚ずつ取り出して干すので、終わるまで洗濯機が使えません。

そして今日は父親が入浴する日。

もう一人でササっと入れないので、それで2時間は浴室が塞がります。

このままだと夕方まで浴室も洗面所も洗濯機も使えないことになります。

でもこれがたまたま母親が家にいる時のテンポ。

仕事を完全に辞めて家にいることになれば、一気に家事が進まないことになるでしょう。

考えただけでも、頭がクラクラします。