『Gemini』を使ってみよう!

 「頭がいい人」の特徴

「頭がいい」と言ってもいろいろなタイプがいます。

数学や物理のような数式を扱えると、「頭がいい」と思ってしまいます。

また、計算が速いとか、難しい漢字を書けるなども同様です。

でも一番身近に感じるのは、幅広い雑学を知っているタイプではないでしょうか?

「〇〇って何?」と質問すれば、その解説をしてくれる人っていますよね。

そして、最新のニュースや時事ネタ、仕事のことや趣味のこと、契約や税制度などなど、どんな分野でもそれっぽい答えを返してくれたら、「この人、頭がいい」とこみちなら思ってしまいます。

言ってみれば「Gemini」はそんな相手。

Gemini を無料で使ってみよう!

Geminiは無料サービスでも使えます。

こみちも無料で使っていますが、それでも十分に納得できる答えを提供してくれます。

インターネット検索をすれば、「〇〇って何?」と言う質問の答えを探すことができました。

それっぽい答えをいくつか見比べて、〇〇は多分こんな意味なんだろうと自己完結できます。

それが一歩進んで、Geminiと言う架空の話し相手に「〇〇って何?」と聞いてみれば、インターネット検索を代わりにしてくれて、答えを探してくれます。

言ってしまえば、「辞書」のような限りなく正解を提供しているのではなく、もの知りな人に質問した答えと思えば分かりやすいでしょうか。

つまり、時々は知ったかぶりもするだろうと言う認識を持つこと。

例えば自分が特に詳しい分野の質問をあえてして、その答えを聞いてみてはいかがでしょう。

どの辺りまでの情報から汲み取って、答えているのかが分かるからです。

便利だからと言っても、個人情報を晒して質問するのは控えた方がいいと思いますが、今までのネット検索では検索しづらい類いでも返事が探せます。

例えば「社会保険の資格を失ったらどうすればいいの?」

これまでのネット検索では、例えば会社側が何をするのかまで含まれて、求めている答えをユーザーが判断しながら探さなければいけませんでした。

それが、Geminiを使うと、簡単にまとめくれるので結論に行き着くのが早くて楽になりました。

100%の正解を答えてくれると言うよりも、多くのもの知りが「多分こうではないか?」と言う答えを見つけられます。

使ってみるとなかなか便利ですよ。

無料でもできるのでおすすめです。


年末に感じる絶望感 在宅介護の現実

 「ストーブ、消し忘れるなよ!」

これは昨夜の話。

この記事の一つ前にアップした内容は、仕事を打ち切られた話でした。

賃上げ、値上げが囁かれる中でも、不器用な弱者ほど見えない闇に押し流されます。

請負っても儲けが見込めない仕事を貰うために、さらなら出費を求められたら、どこかで諦めてしまうしかありません。

「ウチではちょっと厳しい状況です」

「そうですよね」

面白いもので、相手の方はとても親切で誠実な人です。

横柄で傲慢さなどありません。

ですが、だからこそ交渉を許さない壁も感じます。

「またお願いしますね!」

「もちろん、こちらこそお声掛けください」

この手のやり取りはもう何度も繰り返しましたが、その後に声を掛けてもらったことはほぼありません。

年末と言うのに、厳しい状況だなぁと妻にもまだ話せていません。

そして、午後8時の予定が、両親の都合で9時近くになり、もう食事をやめて寝たいと思うほど睡魔もあって、やっとリビングに降りました。

昨日、仕事から帰って、トイレの便座が汚れていたので、簡単ですがトイレ掃除をしました。

キッチンに行けば、漂白した台拭きが桶に浸されています。

自分用に昼食を作りたくて、その桶を移動させるところから始めました。

食洗機の中は食器が放置されたまま。

生ゴミ用のバケツも放置されていたので、ビニール袋をセットするなど用意したんです。

妻はもう両親に期待するのは難しいのではないか。期待するからストレスが溜まるのだと言われます。

正直、期待しているつもりはありません。

1ミリさえ譲ってくれないのも知っていますし、良い方と少し悪い方が並んでいたら、両親は何の遠慮もしないで良い方を選ぶ人たちです。

できていない、していない、だとしてもこみちたちがしてくれるだろうと放置するタイプです。

だからと言って同じように合わせても、事が深刻になることもあって、そんな行き詰まった時に両親が頑張れる訳ではありません。

放っておけば、日に日に狭い範囲で生活しているでしょう。

操作が分からなくなったらテレビだって見えないでしょうし、汚れても掃除しないでいれば簡単には取り除けないしつこい汚れになってしまいます。

後で困るのはこみちなので、手を出してしまうのですが、それを見て申し訳ないと感じることもなく、放置することに抵抗がなくなっているようです。

午後9時から始まった遅い晩飯。

妻と話ながら10分ほどで終わります。

先に妻が食卓から離れて、こみちは汚した食器を洗い、生ゴミを処理して、シンクなどを洗って、新しい排水ネットに交換します。

母親はもちろん、父親だってできない家事ではありません。

しかし、流れでこみちがするようになり、当たり前になって、それ以来母親も父親も代わってくれたことがありません。

「もう寝るから、ストーブ、消し忘れるなよ」

こみちの脇を通り過ぎながら、父親がそう言って来ました。

食後、自室に戻って寝るまでにしたかったこともありました。

でもこみちには寝る前にも決まった家事があって、それらは両親が放置した結果担当になったものでもあります。

「消し忘れるなよ」

「誰に向かって言っているの?」

こみちの感情が爆破して、父親に言ってしまいました。

「お前だよ。二人しかここにはいないぞ」

残念ながらこみちは上手い台詞が浮かびません。

ただ頭の中で、人に押し付けてしかもマウントを取っているように見える父親が嫌でした。

自分は弱者だとアピールし、責任からは逃れる。

その癖、ある程度落ち着いた頃に、戻って来て、持論を熱弁したりする。

こみち、仕事は失いましたが、外で働いて楽しかったです。

でも家に帰れば、介護が待っています。

オムツ交換のような介護ではなく、自由奔放な両親に合わせて生きる介護です。

声を荒げたので、妻が洗面所からリビングに入って来て、二人を見ました。

そして、こみちに向かって「何しているのよ!」と怒り出します。

父親は自分の寝室に歩き出し、「もう何も言ってやらない」と捨て台詞です。

「やらない」

そこまでこみちは我慢するしかないのでしょうか。

付き合いのある自動車屋の店主が息子に代を譲り、店にも顔を出さなくなりました。

「おじさんは元気にしている?」

「ああ、家に整理していますよ。終活です」っと。

何でもない会話ですが、それって普通に思います。

でもこみち家はそうじゃない。

全てが放置されたままで、両親が亡くなれば膨大な荷物の整理が待っています。

母親はそのことも「時間がないから。時間があればできるんだけど」と言い続けて来ました。

でも、今の様子を見ていて、掃除をパパッと片付ける俊敏さはもうありませんし、じっくりと時間を掛けてこなすことも難しいでしょう。

結局、それも全部、「あとはお願いね」と言う台詞になります。

父親の担当ケアマネが訪問する日も、母親は出かけることが多いです。

自分は分からないと言うことのようですが、分かるかどうかは別問題で、父親のことだから当たり前に子どもに託すには違います。

「いつもありがとう」とも言いません。

「菓子パン買ったから食べたら?」

ある意味でそれが母親の気持ちです。

でも、何かで代用しても意味がなくて、それが感謝にもなりません。

そんな両親だから、その場凌ぎを続けていますが、多分関わった誰もがその気持ちに気づいていなくて、良くは思っていないように思います。

頑張ろうとするから、それをフォローするのであって、最初から押し付けて来たら「は?」ってなります。

気力がなくなってしまいました。

クリスマスも正月も、今後のことを見越して我慢我慢。

でも両親は気楽なもので、焦りなど感じないのでしょうか。

来年、再来年とさらに深刻になることを考えたら、辛さしかなくなるので、今日だけを考えて生きることにします。



今日、仕事の打ち切りを告げられました!

 薄々は感じていたけれど

今日、仕事をして来ました。

この仕事は久しぶりで、正直、いつまで続けられるか微妙でした。

生涯、自分の仕事を探すなら、その仕事は受け手ではダメだと思います。

ここで言う受け手とは、自身が主体的ではない仕事との関わり方で、簡単に言えば相手が望む仕事をこなして、その対価を受け取る類いの仕事です。

絵を描く仕事でも、兎に角、枚数を描かされる仕事はとても大変です。

こみちの最高点が100だとして、80を求められ、しかも単価を抑えられてしまうととても条件の良い仕事ではなくなります。

今の時代、AIを使えば、ものすごいスピードで80点に相当するクオリティーを描いてしまいます。

もっと高得点かもしれません。

ただ、AIが全てのシーンを描けるのかと言うとそうでもないようで、怒っている人は描けても、悲しくて怒っている人や悲しくないのに怒っている人を正確に描き分けられる訳ではないみたいです。

例えば、全くセリフを無くして、演技だけで感情を伝える演出は、それこそトップレベルの演技力が求められるでしょう。

効果音やBGMによって、見ている情景を意図的に印象操作することで、演技を補うことができるからです。

つまり、セリフを完全に消して、それでもそこに流れている映像が何となく理解できると言うのは、相当に凄い演技力があるからです。

かなり話が脱線しましたが、仕事にも通じることに思います。

つまり、感情を伝えることもしない仕事を続けても、それはAIの得意分野であり、多くの人とも競争しなければいけない仕事です。

だから、価格を更に下げなければ仕事が回って来ません。

打ち切りされることになったのも、ある意味でそう言う話なのでしょう。

こみちの提示した価格の更に2割、3割引きで受ける人がいれば、仕事は奪われてしまいます。

価格を張り合って、同じに合わせても、そこに意味があるのか考えると、多分、その仕事との縁はなかったと考えるべきでしょう。

こみちが考えるのは、仕事を失ったことではなく、もう長く仕事を回してくれた取引先で、とてもよくしてくれたのも感謝ですが、そろそろ巣立ちの時かもしれません。

悲しいことでもありますが、今日も仕事をして楽しかったです。

ただ、もうその仕事は、今のこみちには合わなくなっていました。

感謝。感謝です。

どうすれば幸せになれるのか?は意外と簡単なこと!?

 幸せを説くいろんな賢者の話の共通点

例えば、両親の介護がどんどん本格的になるこみち家の場合、父親も母親もお願いしたことをしてくれません。

食べた後の食器を食洗機に入れるまではしますが、自分たちの分担はそこで終わり。

洗い終えた食器を取り出して、食器棚に返すのはほとんどこみちか妻の作業です。

つまり、100ある家事を四人で25ずつ分担できれば、何の不満もありません。

それがこみち家にできる精一杯だからです。

そして、つまりはそれが「幸せ」な生き方になると思うのです。

でも、両親を見ていると、それぞれ割り当てられた25を最初から「もう年だから」と言い訳して20にして、風邪でもひけば15にして、治ってからも15のまま。

さらに、だんだんと15さえもできなくなって、0に近付けることを求めるのです。

生き方っていろいろですよね。

こみちは、25の負担を全うすることだけが生き方だとは思っていません。

もしも、こみちが一人暮らしで、自分しか頼れなければ、100をがんばるしかありません。

ただ、今の100とその時の100が全く同じとは限りませんが。

つまり、四人の暮らしを変えないまま、25の負担を放棄することがダメなんです。

何もしないなら、それなりの生き方になることも受け入れれば、何もしない生き方を認めてあげたいんです。

例えば今、1000万円くらいを上手く運用すれば、かなり生活の足しになるでしょう。

どれくらい儲かるかは別にしても、コインランドリーの経営なら、歩くのが苦手になった父親にもできたはずです。

自分がどうしたい。だから、こんな生活を手に入れよう。

賢者たちの話は、方法が違っていても、多くはこんな流れに思うのです。

でも、両親を見ていて、もちろんこみち自身にも言えますが、理想に向かって改善しているだろうか?と感じます。

そうした生き方をしたいなら、まわりから認められるように生きるべきです。

先日、youtube で見た弁当屋の方も、一品ずつならこみちにも作れます。

でも毎日、大半を一人で、何品も作り続けるからこそ、多くの人から信頼されて繁盛する店になるのでしょう。

つまり、能力はみんなそんなに変わりません。

でも続ける努力や覚悟が違うんだと思います。

「できなかったのは、〇〇だったから」

多くの幸せになれない人は、こんな風に言います。

できないことが悪いのではなく、できなければ最初に掲げた理想も変えればいいだけです。

変えないで、不幸と思うから不幸に感じるのでしょう。

母親はいつも「〇〇じゃないと」と言います。

「お父さんは、夕飯におかずが三品はないと怒るのよ」

もしもそうだとしても、今もそれが通ると思いますか?

守る必要がありますか?

もしも父親がそれで怒ったら、こみちはいろいろと質問させてもらいたいです。

こみちが不幸なのは、支えられないのに両親を支えるつもりでいるからです。

多分、それだけ。

「ここまでしかできない」と宣言してしまえば、もうそうするしかありません。

それに不満や意義があるなら、両親が考えればいいだけです。

でも実際は、無駄な食費が多いので母親に「もう買って来なくていいよ」と告げました。

すると母親は、朝用の食材も買わなくなり、ちょっと嫌な予感がしています。

母親は浪費家ではありません。

「〇〇じゃなければ」と言う考えが極端に強いのです。

父親に三品は欲しいと言われて、何が何でもそれを守ろうとしています。

お金や時間の関係、メニューによっても守れないことってあって不思議はありません。

でも母親はそれを守ることだけにこだわります。

だから、「買わなくていい」も「無駄遣いしないで」ではなく、「全面的に食費をこみちが負担する」と解釈しかねません。

そして、今までの父親にしていたお菓子などはこっそりと買い続けることを続けるでしょう。

そんな風に考える母親なので、最初からこみちが両親を支えられるはずもなかったのです。

薄々気づいていながら、不満を感じつつもどうにかできると思って、いつも不幸に思っていました。

賢者の話を聞いていて、そもそもこみちみたいな状況にはなっていないんですよね。

幸せになるには、そうなるための環境が必要だからです。

不満もあるけれど、それも幸せと思うことが、今の不幸から抜け出す解決策と言えます。

これじゃあ、年が越せないじゃないか!と言う話

 母親が生活費を全く把握できていなかったと言う事実

同居して大きな障害となるのが、生活費のこと。

それぞれが管理していればいいのですが、日頃から母親と父親の生活を見ていて随分とお金があるなぁと思えるんです。

でも、収入がいくらで、支出がいくらと正確に把握してしまうと、それは介護と同じで、両親の生き甲斐を保ちつつ、援助も求められます。

つまり、二世帯分の生活費をこみちが全面的に支払えればいいですが、それは難しい。

だからこそ、普段は管理しないから、自由に考えてやりくりして欲しいと触れずにいました。

一時期、貯金が〇〇円になったと聞いたりもしていたので。

ですが、今日の会話で、母親が蓄えているはずの預金が想像よりもかなり少なくて、以前聞いていた金額など全く残っていなかったんです。

正確な金額ではありませんが、月々数万円を蓄えから補っていたようで、それが数年になれば100万円くらいは簡単になくなってしまいます。

実際、朝夕と食事を作っているこみちですが、両親の昼食は自腹で、しかも弁当にプラスしておやつまで買っていたりが普通です。

一回の食事で二人分が1000円では収まっていなかったでしょう。

それに加えて、父親が通販で買った栄養補助食品などもあるので、両親分の月額の食費が10万円になっています。

しかも家計簿を全くつけない母親なので、預金が減っていることは気づいていても、どれだけ使っているか数値として認識していなかったのです。

買い物の時に安いものを選んでいるみたいですが、感覚的に買い物が多い気はしていました。

と言うのも、こみちが作る夕飯とは別に、何品か夕飯用にも買っているみたいなんです。

でも、預金をここまで減らしていたとは思っていませんでした。

騒ぐのに、母親は節約しなければ家計が大変だと父親には言いたがりません。

だから、父親も知らん顔ですし、最終的に行き詰まると「お金がない」を騒ぎ出すのです。

安易に補てんすれば、両親は今の生活を改めることもありませんし、補てんしなければ知らない内に借金をしてしまうこともあるでしょう。

今、父親がデイサービスに行っていて、その出迎えを母親が担当しています。

これも不思議なんですが、母親は、父親の介護を均等に分担しようと思っているようです。

今さっき、買い物から帰宅したのですが、「出かけるから出迎えよろしく!」と連絡して来ました。

「こっちにも用があるんだよ!」

そう言っても、もう母親は出かける用意をして電話を切りました。

分かるでしょう?

介護って、本当なら別のことをしたい時でも、相手のことをするしかないからストレスになるのです。

母親の場合、できる時はしても、できない時は人に押し付けます。

それって介護でもなんでもなくて、介護の大変さを根本から理解しているとは言えません。

トイレの便座を父親が汚しても、進んで掃除しませんし、見かねて掃除しても「ありがとう」とは言いません。

それは母親のためではなく、父親のためなので、自分ではないと思っているようです。

それにしても、今になって貯金がこれまで減っていて、全く貯められていなかったとは思いませんでした。

しかも、その間に父親が何かすると小遣いを渡していて、例えば食器を洗ってしまえたら「1000円」と言う具合です。

だから、たまに父親が家事をしていたりするのですが、あとで小遣いをもらっているからで、家事をみんなで負担すると言うルールも守られていません。

しかも、「お金がない」と母親が騒いていても、父親が密かに貯め込んだお金を出すこともありません。

変なルールでお金が流れていて、困ったらこみちまで巻き込んで来る。

両親にはお金を貯めていて欲しかったのに、結局は使い込んでいたので、年末だと言うのに全く楽しくありません。

節約ばかりして来て、さらに年末にお金の心配をしなければいけない。

しかも、何も考えていない両親を介護する。

そりゃ、何もかも虚しくて嫌にもなりますよ。

Geminiを使ってみた話し

 youtube で紹介されていたので

youtube を観ていたら、おすすめにあって、新しくなった「Gemini」を使ってみました。

相談や質問、画像作成と数回行ったのですが、そのレベルの高さに感動しました。

ある意味、もうイラストレーターの仕事はかなりなくなるでしょう。

ただ補足すると、イラストレーターの優劣って、絵の上手さだけではなくて、打ち合わせなどの会話から目指すべき方向性を導く能力が重要だったりします。

もっと言えば、会話が上手いこともポイントと言うわけです。

だから、無口で寡黙なイラストレーターってあまり見たことがありません。

個性は豊かですが、それぞれに面白い人が多かったからです。

なので、例えばイラストが誰でも簡単に描けるようになったとして、それは絵を描く能力を置き換えることで、「この人と一緒に働いてやる気が出る」と言う感情までは含まれません。

つまり、文書作成もイラストを描くことも、そこだけならもうAIが代行してくれます。

じゃあ、これからは何に着目するべきでしょうか?

やはり、「個人」を受け入れてもらうことでしょう。

昨日、これもyoutubeのおすすめで見つけた動画で、母親が長く営んでいたお弁当屋を娘が引き継ぎ、頑張っている様子を紹介しているものです。

最初は朝早くから手際よくおかずを作る姿に働き者だなぁと観ていました。

でも一人でしている様子を見て、これを毎日繰り返すのがどれだけ凄いことかとも思いました。

そして、店を継ぐと決めた時、お客さんからも励まされたと話しています。

実際に迷惑を掛けてしまったのかは分かりませんが、例えば自身が飲食店を開店させて、周辺の方々にビラを配るようなスタートとは違います。

もうその存在が、お客さんからすれば「唯一」になっていて、そうなれれば優秀なAIでも追い抜くことができません。

能力の高さも大切ですが、「存在」って大きい気がします。

AIに悩みを相談した時に、誰かに相談していると言うよりも、もう一人の自分に近くて、言えば双子になったような感覚です。

でもこれって、自分と近すぎて、「存在」を感じるまでではありません。

とっても便利ではあるけれど、いい意味で人間関係でしか感じない感覚ではありません。

だから、単純作業から、複合的な作業まで熟せる優秀さを身につけたと思いますが、我々が「存在」していることを奪うものではないので、「こみち、何しているかな?」と言う人が増えれば、やはり大きな意味があります。


中高年が仕事探しを始めて気づくこと

 昭和と平成、令和

昭和の後半、そして平成に変わった頃、ワードやエクセルを使えることがホワイトカラーのステイタスになっていました。

こみちの場合、パソコンでデザインの仕事をしていたので、Photoshopや Illustratorが使いこなれることが必須でしたし、それぞれのアプリがバージョンアップするとその解説本を買って勉強することも当たり前でした。

絵を描くことは学生時代からのことで、通勤中の電車での移動中、仕事で考える図案やデザインを小さなスケッチブックにペンで描いたりしたこともあります。

でも、誰もがスマホを持っていて、そのスマホでAIがデザインも作曲もしてくれるわけですから、当時の当たり前など昔話です。

一方、誰もが投資をするような時代になり、会社の利益がそこで働く従業員に還元されると同時に、株主への配当にも回されるようになったとも言えます。

それはつまり、与えられた仕事を全うすることで、昇進し、給料アップすると言う時代ではなくなりつつあるのかもしれません。

報酬や利益は、提供した価値の上乗せ分。

でも昔よりもその割合が変化し、頑張れば頑張っただけ還元されるのもではなく、利益の配分が報酬の他に、株主にも流れています。

もちろん、それは急に始まったことではなくて、昔からあったはずです。

ただポイントは、利益の恩恵を受けるには、その会社の従業員であるだけではなく、株主でもいいとなったことです。

日本は長く物価上昇に対して、賃金が追いついていないと言われていますが、会社が利益を還元する方法が変わったとも言えます。

例えば、海外に在住していても、投資資金があれば、国内の会社から利益の恩恵が受けられるようになった一方で、国内で働く労働者は十分な報酬を受け難くなったとも考えられるでしょう。

もしもそうだとするなら、従来のように会社で幅広い経験を積み、出世して責任あるポストに就き、その対価として報酬を得ると言う昭和の頃なら当たり前だった話も過去になったのかもしれません。

名の通った大学に入り、そのブランドを使って一流の会社に就職することが成功のセオリーだったとすると、時代背景が変化したことで、より結果が求められるようになったのでしょう。

つまり、医学部を出たら医者として活躍して、しっかり報酬を得ると言うことが仕組み的に難しくなれば、医学の知識を専門性として、どう活かせるかまで考えて従業員として稼ぐとは別のルートで収益を上げる工夫が求められます。

それは異業種にも言えて、専門スキルを見つければ将来も活躍できる時代が昭和だったとするなら、平成、令和に時代が変化して「専門性」の先が求められます。

例えば介護業界

高齢者の生活を支援する介護事業は、実際に働いて人の温かさを感じられる素晴らしい仕事です。

こみちもそんな高齢者との触れ合いが好きでしたし、その方々との会話でそれまで学ぶことができなかった経験もたくさんさせてもらいました。

それらは「おじいちゃん」とか「おばあちゃん」と言う縁側でほのぼのしたやり取りだけではなく、70代、80代、90代と自身も同じ道を辿った時に人生をどう振り返ることになるのかを教えてくれます。

今、とても大切にしていることが、後々には全く価値がなくなるものもあれば、今は無価値に見えることでも、その後は人生を豊かにしてくれるものもあります。

特に、老いてからではやり直せないので、ずっと後悔して生きるのか、楽しく毎日を過ごせるのかは大きな差になるでしょう。

とは言え、介護士の報酬は異業種と比較しても、高待遇とは言えません。

その原因の一つが、効率化に向いていない事業ということもあるでしょう。

手間を省くと、提供されるサービスも低下しやすい。

なぜなら、左にある物を右に移動させることが仕事ではなく、移動させることに意味があるからです。

全ての作業がそうだとは言いませんが、手際よく熟すことだけでは満たされない部分が多く、でもそれをすると施設経営の利益を圧迫します。

結果的に、やり甲斐と報酬が結びつかない関係になりやすいのが介護事業だと思います。

仕事探しをする中で、介護業界に再就職も検討していましたが、待遇面で満たされていても、施設の評判を調べるともう一歩踏み出すことを躊躇う情報もあったりします。

また、紹介派遣の場合、高額時給を掲げていても、すぐに勤務先の施設との契約に切り替わり、就活を決めた理由が早々と奪われることもあります。

介護報酬を得て運営される介護事業だけに、相場を大きく上回る報酬は出せません。

つまり、介護の仕事で報酬を決め手にはできないとも言えます。

異業種の方が高額なことも多いですし、稼ぎというだけなら必ずしも介護業界がおすすめではないからです。

しかし、昭和からの変化を考えると、従来の考え方では仕事で安定した報酬を得るのは段々と厳しくなるので、稼ぐ方法をどう見つけられるかがやはり克服しなければいけない課題です。

お金でお金を稼ぐ時代になったと言えば分かりやすいでしょうか。

こみちチャンネルの運営

こみち、youtube でこみちチャンネルを運営しています。

絵を描いて、その制作過程を紹介するだけのチャンネルです。

高い反響が得られているとも言えませんが、活動を続けているのには理由があって、「絵を描く」楽さを活かせないかと思っているからです。

歌を歌うことや楽器を演奏することにも似ていますが、できたから何か意味があるということではなくて、でもできることで自身を発見したり、見え方や感じ方が変われば、その後の人生も変わって来ると思うんです。

例えば、旅先で素敵な景色に出会った時に、スマホでパシャリと撮影しても十分ですが、スケッチブックにささっと描いてみる。

意外とその時の気持ちって、スケッチブックを見返したりすると、鮮明に思い出せたりします。

向き合った時間だけ、思いを通わせただけ、そのことが違いなのかもしれませんが、一瞬で撮影した一枚よりも明らかに記憶に残ります。

つまり、「描くこと」は上手いか下手かにどうしても目が行きますが、そこが大切なのではなくて、描こうと思う中にある幸せが老いてからも大切な思い出になるということ。

その流れがあって、上手く描けることはよりピンポイントで残したい気持ちまで残せるようになるということのように思います。

今はまだそこまでの想いを運営するチャンネルで発揮できていませんが、そこまでお伝えできるようになれば、それは仕事として誰かに何かの価値を提供することにもなると思います。

それは、時代の変化を感じるからこその試みでもあって、会社で仕事をすることだけでは十分ではなくなる時代だからこそ、自分にできることを形にしていくチャレンジが求められるように感じます。

「まだらボケなのか?」と言う話

 ボケるとは?

天然ボケと言う言葉がありますが、ここで勝手に定義するなら、「状況把握の苦手なタイプ」とでも言えるでしょうか。

まぁ、実はこみちも天然ボケらしく、自分では至ってそんな気がしないのですが、周囲からはそう思われているようです。

「それって「靴」じゃない?」

教えてあげようと思って発したら、予測外の反応が返って来て、「だろうね」と言われてしまいます。

つまり、「靴」と言うことは理解した上で、さらにその後のことで迷っていたのでしょう。

でもこみちには、「靴」と言うことしか繋がらなくて、得意げに言って笑われてしまうと言うことです。

高齢者のボケは、加齢によって段々と周囲の認識や処理が合わなくなってしまうことを指します。

例えば、数日前に味噌が少なくなったので、新しい物を買ってストックしておきました。

すると今日になって母親が冷蔵庫に新たに買って来た味噌を入れていたんです。

つまり、母親としては「残り少ないから気を利かせたよ。褒めて!」と言う状況です。

しかし、ストックを見れば、味噌は既に買ってあります。

折角ならまだ買っていない物を買って来て欲しいわけです。

例えば、今朝も朝用の食材が全くなくて、昨晩の残り(いつもはこみちが朝用に食べている)のおかずを使って間に合わせました。

とは言え、こみち1人分くらいの量なので、とても間に合う量ではありません。

冷やご飯に鰹節を掛けて、上から醤油を加えて、それがこみちの朝食でした。

母親も朝起きた時に、作って置いた皿のオカズを見れば、自分が食材を買い忘れていると思ったでしょう。

そして、夕方、母親が買ったのは、冒頭の味噌や菓子パンなどでした。

絶対にしなければいけないことを理解できず、覚えていることを繰り返しているだけなので、以前から言っていたのですが、忘れてしまうなら「メモしないと」と言う言葉が癖付きません。

「買い物」と言う行為は今の母親にもできるのですが、買うべき物をメモして忘れずに買って来ることができません。

して欲しくないことは、何度伝えても止めることができず、して欲しいことは忘れてできない。

厳密には母親にはもう買い物ができないんです。

それをフォローするのが介護なのですが、ありがとうもごめんも言わず、今でも母親は自分でできていると思っています。

これは天気ボケと同じ構図で、本人は真面目にそう信じていて、でも周囲にするとちょっと変なんです。

大根を買っていたので、もしかするとサラダでも作って欲しいと思っているのかもしれませんが、朝は限られた時間の中で作るのもあって、時間を掛けたくないことも分かっていると思うのです。

と言うのも、母親が起きる前に洗濯機を回し終えているので、いつまでも料理を作る時間がないんです。

上手く回るように段取りしても、あと少しと言う別角度からの思惑が加わって、ことが上手く運ばなくなるのです。

実は結構、このストレスがキツいんです。

少しだけ残ることで、スッキリして次に進めずに、あとでしなければと言う気持ちがいつまでもあるからです。


改めて思うこみちの仕事探し

 ここ数日のこと

あと数ヶ月で、ランニングを始めて3年が経過します。

走り始めたきっかけは、当時、メンタルを壊してしまい気力がなくなっていました。

家族から「大丈夫?」と声掛けられて、ハッとして動き出すような時があって、自分では意識できていない時間が度々ありました。

それが1分の話なのか、1時間なのか、どれだけぼんやりしていたのかも分かりませんでした。

そんな状況だったので、淡々と体を動かすことを始めたくて、最初は散歩、それから軽いジョギング、そしてランニングと運動量や強度を上げて来ました。

時間があると走りに行って、過去には20キロや30キロを時間を掛けて走ることもあって、クタクタになって疲れて寝てしまうことが心地よかったんです。

密かにランニングフォームをyoutube で調べて、見よう見まねで覚えたフォームに変えてからキロ4分ペースでもかなり楽に走れるようにもなりました。

それからキロ3分30秒ペースにもなったりして、運動そのものにかなり慣れたとも思います。

ですが、先週くらいから以前なら余裕だったキロ5分、6分のペースがキツく感じます。

フォームを覚えているので、少し気合いを入れれば、キロ4分ペースで走れることには変わりません。

ですが、キロ5分のペースで走って、もっと余裕でもおかしくないのに、ひどく疲れます。

1キロくらいで走るのをやめてしまうんです。

最近までは、最初の2キロをキロ5分くらいで流して、その次の2キロをキロ4分ペースで走り、最後の1キロはさらにペースアップすると言うような走り方が多かったのですが、今はそれどころではありません。

走り出しても、すぐに足が止まってしまいます。

息苦しいからでも、心拍数が異常に高くなったからでもなくて、走ることをやめたくなるんです。

ですが、ランニングの習慣をやめてしまうと、日常的なストレスで以前のように無気力に戻ってしまうでしょう。

だからランニングの習慣をやめたいとは思っていません。

でも走れないんです。

仕事探しをして、妻に「こんな仕事を見つけたんだよ」と話ます。

介護の夜勤専従の仕事ですが、少し遠いのが難点ですが、雰囲気も良さそうですしどうかと思ったんです。

「昔ならともかく。今のこみちでは無理じゃない?」

はっきりと言われて、ちょっと驚きました。

完全復活とは言いませんが、かなりメンタルは回復したと思っていたからです。

報酬額よりも、無理なく働ける職場の方が合っているのかもしれません。

もう少し良くなったつもりでしたが、どうなんでしょう?


職場を選ぶとしての介護施設

 親を預けたいと思えるか?

介護への再就職を検討し、希望にあった職場を探しています。

立地や勤務条件など、こみちの希望に近い職場を見つけました。

あとは実際に連絡をして、面接という話かと思ったのですが、運営会社の評判や職場の評価、何気なく調べてみると気になるコメントが見つかりました。

中でも「親を預けたくない」という家族が多かったこと。

以前勤務していた施設を調べても、そこまで気になるコメントはなかったのに、なぜにこんなに多いのかと。

介護業界

長いとは言えませんが、介護福祉士の資格も取った立場で思うのは、介護業界は利用者も働く人も簡単ではありません。

例えば、移乗。

車イスからベット、ベットから車イス。

歩行が困難な利用者を移動させる介護ですが、介護者が心得るポイントは幾つもあります。

それは自分自身の腰を守るためでもあり、介助される利用者の負担を減らすためでもあります。

知識として、言葉でどれだけ上手く説明できても、実際に移乗介助ができるのかは別の話です。

つまり、正しい方法を反復して練習しない限り、技術を習得出来ません。

自己流でしてしまうと、それで問題ない場合もありますが、後々になって腰を傷めたり、利用者をケガさせてしまうことがあります。

トラブルが起こって、そのままではダメだと気づいても、どう意識すれば良いのか分からないと、腰にサポーターを巻いて同じ方法で介助を続けている介護士を何人も見て来ました。

介護福祉士の資格は、基本的に知識の有無を問われます。

ですが、受験資格として、実務者研修を受けなければならず、「介護って何?」という答えを考える期間があります。

言ってしまえば、初任者研修だけでも働けます。

現場経験が長い介護士も多いです。

介護福祉士や実務者研修で得た知識や経験が現場ではほとんど役立たないように思うかも知れません。

ですが、「日々の介護」は現場だけを見ていても良いのですが、「介護とは何だ?」という疑問には介護福祉士で問われる知識や経験は無駄にはなりません。

と言うか、介護福祉士の受験対策って、「介護とは何か?」を理解しているかを問われる試験とも言えます。

具体的な内容は触れませんが、そのために必要なことを理解できていたら、合格できます。

何がここで言いたいのかと言うと、介護業界って「質」を保つのがとても大変です。

例えば全くの未経験者に介護の基本を教えるとしても、用具の使い方から受講生同士で行う介助の練習と進んでも、それは「介護とは何か?」の入り口に過ぎません。

あまり広げ過ぎても良くないですが、「生き方」にどう寄り添うのかと言うことなので、利用者やその家族の素直な気持ち、経済的な負担など、理想があって現実があって、だからこそこの辺りの介護支援が持続可能だろうと言う見極めが必要です。

それを導くのがケアマネのやり甲斐ですが、何十人もの利用者や家族からの要望に応えるだけの時間は無さそうです。

と言うのも、ケアマネだけで稼ぐのは難しく、こみちの勤務していた上司は他のスタッフと同様に夜勤もして、ケアマネの業務もこなして、とても忙しそうでした。

それでも素朴な疑問や悩みにも笑顔で応えてくれて、給料の多い少ないで選ぶ職種ではないと思います。

例えば、週1や2と言う勤務だとしても、短くからいい加減な介護でもいいとは思えません。

利用者との話や触れ合いが楽しかったのも事実ですが、それは娯楽としての楽しさではなくて、悩んだり考えさせられたりしながらも、出会えたことでこみち自身の人生にもいい影響があったを言う意味です。

「親を預けたくなかった」

コメントに寄せられた言葉の背景は分かりませんが、いろんな部分に問題点がありそうです。

まして、週数回の勤務だからこそ、そんな現場を選んで良いのかとも思い始めました。

家から近くて、条件も悪くない。

でも、利用者家族からはとても評判が悪い。

ちょっと立ち止まってしまいました。

慌ててこんなはずではなかったと後悔するよりも、もう少し探してみた方がいいと思います。

悪い言い方ですが、腰掛けな気持ちで再開する介護職なので、まだこみち自身が怒られて反省するような職場の方がいいです。

誰も得をしていない職場で、モヤモヤして働くのもなぁと思ってしまいました。

中高年の仕事探し 介護業界編

 在宅介護に疲れて

介護で疲弊する要因は、自身の精神を極限まで追い込むからです。

右にある物を左に移動させる。

例えばそれなら、異業種の作業と変わりません。

ですが、右なのか左なのか。移動させるのかさせないのか。

介護では時に同じことを何度も繰り返すことがあります。

「洗濯するよ。洗うものは無い?」

いざ始めて、すすぎになって「洗濯ものがあった」と言われれば、もう終わりそうな気持ちも萎えてしまいます。

残った仕事も直ぐに片付ける必要はないかもしれませんが、「やり残し」というストレスがいろんな場面で少しずつ増えていきます。

「終わった?」

もう随分と時間が経過して、そろそろ終わった頃だろうと声を掛けても、実はまだ全く手付かずで、後からでもできることを先にしていたりするのです。

「アレ? しないの?」

「こっちが気になったから」

気持ちはわかりますが、今しかできないことから始めないと、効率よくことが進みません。

そして、「間に合わない」と不満を口にされて、本当なら正論を言いたいところですが、今更それは言っても意味がなくて、「じゃあ、今からしよう」という話になるのです。

これは在宅介護での話ですが、介護施設でも同じことが言えます。

施設の方針にも大きく言えば2種類あって、ギリギリの人員で必要な作業を行うスタイルで、利用者の介護費用をできるだけ安価にできて家族への負担を減らせます。

もう一つが適切な人員を配置してそれだけ介護費用が嵩みますが、親身になったケアが期待できるというスタイルです。

とは言え、いずれにしても、スタッフの介護スキルが育っていないければ、どちらの介護も十分にはできません。

ですが、久しぶりに介護職の求人を探していて、月給が20万円に届かない職場がたくさんあります。

もちろん夜勤を数回こなせば、20万円を超えるのですが、夕方に出勤してそこから一晩過ごして朝までの勤務は責任もあって精神的肉体的に楽ではありません。

シフト勤務の場合、夜勤をして翌日まで休みというパターンが多かったのですが、夜勤明けで帰宅すると昼前でそこから横になって夕方まで動きたくありません。

かと言って睡眠をしっかりと摂り過ぎても、翌日の休みの後は朝から仕事というパターンが多いので、休日の1日を使って時差ボケを解消しなければいけません。

なので、日勤帯のみとか夜勤専従のような働き方の方が、体を考えると楽だったりします。

でも日勤帯だけではどうしても稼げません。

夜勤専従になれば、日勤帯よりも稼げますが、昼夜が逆転した生活です。

しかも、苦労の割にそうもらえる訳でもない。

やり甲斐も利用者との触れ合いにも良さはありますが、楽に稼げる業種ではないので、実際の求人募集を見ていていろいろと思い出しました。

仕事を選んでいたら、いつまで決めることができないのもわかっていますが、今はまだ施設介護のスタッフに戻る決心ができません。

作業として考えれば、異業種と何が違うのかとも言えますが、人の世話として考えると手間こそが介護でもあります。

かと言って、それは自分の精神や肉体を追い込むことにもつながるので、給与とのバランスが見合っているとは思えません。

それこそ専門職として評価されるなら、人材育成も医療職に近い報酬も期待できますが、無資格でも応募できる間口の広さが介護業界の良さでもあって、それ故に経験を適切に評価することが難しくなってしまうのでしょう。


「歯磨きしろ!」と言われたくない父親の気持ち

「歯磨きしろ!」に怒り出す父親

多分、父親はもう自分で食後に歯磨きすることを意識できていません。

できていないのではなく、意識したくない(考えたくない)とも言えます。

事実、既に自分では髭剃りができないのを考えると、歯磨きしろと言われてもできないので苦痛でしかないのでしょう。

「歯磨き、歯磨き言うな!」

父親はそう怒りました。

側にいた母親に「(父親は)歯磨きしているの?」と聞いてみると「知らないヨォ〜」と他人事のように答えます。

例えば髭剃りができないことを把握していたら、別に介護の経験がなくても、勘が良ければ「歯磨き、できないのかも?」と疑うでしょう。

髭が生えている場所に髭剃りを当てて行く。

場所を認識し、機械を扱うことができれば、髭剃りできるはずです。

でもそれができないのは、認識も怪しいですが、細かく扱うことができなくなっています。

まだ自立心がある父親に「磨いてあげる」は無いにしても、母親が父親の様子観察をしていたら話も変わります。

ですが、「知らない」と答える母親は、やはり父親の状況や気持ちに介護者として歩み寄れてはいないのでしょう。

でもそれを問題にしても現状は何も改善されることはないので、どこかのタイミングで歯磨きしているのか、どう磨いているのかを確認しないと対策の立てようがありません。

また、軽くネットで歯ブラシを使わない口腔ケアの方法として、ブクブクうがいがありました。

細菌除去という意味で、歯磨きよりも効果は薄くなるかもしれませんが、何もしないよりはいいと思うので、うがいできるかも確認しなければいけないです。

母親がもう少し父親に関心を持って接してくれたらいいのですが、それは個人の性格や能力なので、やはりそこが限界と思うしかありません。

朝の記事でも書きましたが、全部を受け止めるか、最低限のことだけで済ませるかの二つしかなく、母親によく見ていてと頼んでも、「磨いていた」とはいうかもしれませんが、正しく歯ブラシを扱えているのかなど、何のために観察して欲しいのかを察することができないので、結局は頼んでも思うような答えは期待できません。

残念ですが、その辺りの関わり方が介護の始まりになるので、このままでは見える部分やトラブルだけを対処する最低限の介護になってしまいます。

高齢者にとって歩行はトイレでの排せつと大きく関係し、できなくなるとオムツが必要です。

でもそれを交換するには、ベッドの方が介護者の腰への負担を緩和させます。

そして、口腔は食べものを食べて栄養を摂る手段の入り口なので、ケアを怠ると誤嚥性肺炎などのリスクにも繋がります。

転倒などで入院した場合同様に、歩行力の低下を招いてしまうとリハビリで再び歩ける高齢者は経験的に半数もいませんでした。

再度の転倒を考えて、車椅子を使うケースが多かったからです。

そして、介護度が3程度に進んでしまうので、在宅介護を続けるのも簡単ではなくなります。

なかなか厳しい状況になるかもしれない父親の怒りでした。

「もうボケているんだ」と思うことで 在宅介護の心得

 仲が悪くていいことはない!

どうしても、親の介護をしていると嫌なことが増えます。

想像してみてください。

部屋の掃除を終えて、すぐに床にゴミが捨てられていたら…。

これは例え話ですが、「やっと一区切りがついた!」と気持ちにも区切りをつけられて、次のことに進めるという達成感で頑張った自分を褒めたくなります。

でも終わったばかりのすぐに、また目につくところにゴミが捨てられていたら、それまでの頑張りも無効化されて、掃除を始める前のモヤモヤした気持ちが蘇ります。

「まだ出来ていない」

「頑張った」という本当なら褒めたいタイミングで、「出来ていない」という感覚に引き戻されます。

これを繰り返すと何をしても「ダメ」という気持ちが増して、気力が失われてしまいます。

これが介護の本当の辛さではないかと思うのです。

とは言え、「ゴミを捨てるな!」では、介護される方も窮屈な気持ちになるでしょう。

だから、捨てるのはいいけれど、タイミングや方法で、互いに思いやりがあればいいのです。

床に捨てたり、そこら辺に放置してしまうのではなく、せめてゴミ箱に捨てるくらいの思いやりが欲しいのです。

「もうボケているんだ」

洗い物が終わったら、やはり食器を棚に戻して欲しいんです。

洗浄機から取り出して使うという習慣は、どこか合理的でも、生活感が強くなるからです。

今朝、料理で使うザルの中に洗ったペットボトルが水切りカゴとして使われていました。

多分、母親がしたことだと思うのですが、以前からその方法はカゴを洗わないままになってしまうので禁止にしようと決めました。

ですが、どこでその約束を忘れたのか、ペットボトルが突っ込まれていたんです。

「ここには置かないで!」

互いに気持ちよく使いたいからこその約束事も、母親はどれ一つ覚えていないようです。

一時期、守れていても、それは約束事だから制限したのではなくて、たまたまそういう状況になっていなかったからのようです。

指摘するのもやっぱり心苦しいことですし、指摘しても直せないので、もう諦めるしか方法はありません。

できないことをしてくださいと言っても、それは期待する方が無理があるからです。

あとは自分がどんな理由で納得するか。

こみちは「もうボケている」と思うことで、できていない時も「仕方ない」と思うようにしています。

でも最初の例え話に戻りますが、してもしても、全くことが進まないので、「仕方ない」と感情を抑えますが、現実は何も変化出来ていません。

きっと言わなくなれば、了承されたことになり、ペットボトルだけでなく、他のものもいいんだとなるでしょう。

「流石にそれは」

そんなことを口にすれば、「ペットボトルは大丈夫だったのに?」と反論されそうです。

だからと言って、約束事を指摘してもできないことに変わりなく、ため息ばかりつくので、考えがループするだけで解決することもありません。

「嗚呼、また戻ってしまっている…」

結局、好き勝手な生き方を丸々受け止めるか、全く距離を置いて放置するかの二択しかないようです。


家から出で外でも働こうかと思います!

 介護が始まった両親との生活

父親は介護認定を受けて、デイサービスを利用しています。

現時点で、排せつや入浴を一人で行えていますが、「本当に体を洗えているのか?」というとそこには疑問が残ります。

と言うのも、事実として既に自分のヒゲを剃ることができません。

という意味では歯磨きも完全にはできていないでしょう。

ただ完全にボケているかというと、昔の記憶が残っていたりで、母親よりもできる分野もあります。

一方、母親は介護認定も受けていないです。

ただ元々が天然気質で、他人とは見ている場所や感じ方が異なる人なので、昔から言葉を理解した会話はできていませんでした。

加えて今は耳が遠くなり、質問に対して憶測で返答することも多く、「した」と言ったことが「していない」ことも、その逆もあって、事前に会話をしても後になって事実が違うということも多いです。

だからお願いしたことに対して、勝手な解釈や理解で一方的にキャンセルすることもあり、基本的にお願い事ができません。

両親に共通していることですが、目の前の事実に対して判断できても、「後になると面倒だよ」と思うこともその場の雰囲気だけで決めてしまうので、後で驚かされることも多くなりました。

朝夕の食事担当

基本、料理をすることが億劫な母親は、惣菜や出来合いのおかずを食べています。

物価高もあって、数品で1000円を超える父親との昼食は、密かにお金は大丈夫なのかとこみちも心配しています。

と言うのも、家計簿をつけないらしく、欲しいものを欲しいだけ買って、それを1ヶ月単位で清算しているようですが、食費をできるだけ抑えているこみちとは買い物の仕方がまるで違います。

「必要だから仕方ない」

目の前の必要性を感じて、購入しているというのが母親なりの見解だと思うのですが、少し家で調理すると半額近いコストで抑えられますし、糖尿病の父親に対しても栄養管理しやすいはずです。

とは言え、もうそんな話をして習慣を改められる状況ではありません。

母親は母親の考えでしか行動しませんし、父親もまた何かやる雰囲気を出しますが、結局は何もしないまま終わっています。

こみち自身、家で家事をすれば、両親が少しでも貯金できるかなと思ったりして、家でできる仕事を選んだのですが、結局は買い物することから抜け出せないみたいなので、だったら夕飯も昼食同様にそれぞれで賄う方式に変えてもいいのかもと思うようになりました。

それに家にいるとどうしても両親とのストレスが増えイライラするので、両親にとっても外で働いてくれた方がリラックスできるのではないかとも思ったからです。

キッカケ

昨晩、妻から今の生活に対する不満を訴えかけられました。

できるだけ負担を減らしてあげたいのですが、一方ではこみちにすると自分から負担を増やしているように思う言動もあって、流石にそれを指摘することはできませんが、結論を言えば家にいる生活に不満があるようです。

確かに外で頑張って働いている妻にはとても感謝しているのですが、家にいるからと言って暇で自由にできるかというとそうでもありません。

妻が出掛ければ、掃除を始めますし、早朝に洗濯機を回して朝食を作り、その後に干したりしているので、朝をゆっくり過ごしているように思うのかもしれませんが、こみちはほとんど毎日午前3時には起きています。

みんなが寝ている時間に一気に洗濯をするので、日中は自由な時間がありますが、感覚としては朝の7時くらいでも、お昼を迎えるくらい時間が経過しています。

例えば、昼間の様子だけを見て、余裕があると判断されると、やはり突発的なことが起これば一瞬でそれに応じなければいけないので、固定された業務があると対応できないことも覚悟しなければいけません。

朝家を出て、夕方、夜に帰宅する生活になれば、流石に早朝から起きて洗濯を回すのもなかなかなことで、当たり前に用意した朝食も0分で作れるものでではありません。

誰が苦労しているのか?

それを数値化することはできません。

でも、見えない行動は評価されにくく、淡々と熟せば簡単に感じます。

とは言え目覚ましが鳴る前に起きてしまうのは、起きなければという緊張感があるからで、親の介護も食事も全く気にしなければ、朝まで寝坊しているでしょう。

仕事で疲れていると思うから、休みの日の朝はできだ妻を寝かせて、起こさないように心がけています。

毎朝、食事を用意しているので、「たまには代わるよ」とは母親も父親、妻も言ってくれたことなどないんです。

ここ数年、数えるくらいの日を除けば、朝の3時には起きてこみちの1日が始まって来ました。

でも妻からの要望も強く、調整も必要ですが家で完結させるスケジュールではなく、全く別の外仕事も始めた方がいいとなりました。

灯油を入れたり、米を研いだり、湯を沸かしたり、そんなことって時間が掛かっても家事にはカウントされません。

細々した家事をこみちがしなくなったら、それはそれで誰もが不便だと思うのですが、だから今の状況になったとしても、こみちが楽そうに見えてしまうのでしょう。

妻もこれからさらに深刻化する両親の介護を考えると心配しか無いでしょうから。

年末を迎えて、こみちの生活も変化が始まりそうです。

勝者と敗者

 競い合えば

競い合えば、必ず勝者と敗者が生まれます。

そして、実力とは別で、勝者を連続すると「同等」でさえ勝ち取れます。

つまり、敗者になると「まぁまぁ良かった」という評価はほとんど評価されません。

我々中高年になると、20代や30代で身につけた知識や技術がその評価になってしまいます。

なので、若い世代と同じ土俵で頑張っても、もう積極的に評価されることってないんでしょう。

だからこそ、中高齢者だからこそのニーズに向き合うことが必要です。

「同じではない」そこを受け止めないと、「同じぐらい頑張っているのに」ではもう評価されて勝者にはなれません。

昨日、気になるボクシングの試合を観ました。

「才能」というその人が持ち合わせた能力は、二人ともとても高いことが見ていて伝わって来ます。

でもその種類は全く違っていて、でも両者の能力に大きな差はなかったでしょう。

ただ試合が後半に進むと、ちょっとした場面で差が現れます。

いつもなら気にならないことですが、「同等」という評価ではその「差」が簡単に転ぶのです。

冒頭で紹介しましたが、我々中高年が、若い世代と同じでは評価されません。

その理由を考えるよりも、そんな現実を受け止めて、だからこそどう動くべきかに意識を変えなければ、どうしても気づくまで5年、10年を無駄にしてしまうでしょう。

一方で、勝者だった人は、「差」を自分の実力と思ってしまいます。

50対50でも、勝ててしまうからです。

でも、そのアドバンテージを失えば、意外と勝敗は簡単に転がります。

つまり、当たり前に評価されていたことも相手のポイントになっていて、ここまでできたら勝っているパターンが負けになるのです。

たまたまそうなったと思ってしまうと、それこそ中高年が陥ってはいけないもがきと同じで、気づくまで長い時間を要します。

それこそいい経験にもなりますが、人相まで変えるくらい大きな変化でもあります。

勝っている時は、許されて評価されたことが、すべて減点になってしまうことに気づくと、敗者が勝者になる時は「完璧」しかありません。

失ったものは、そう簡単には取り戻せないのです。

失った時と同じことをしても、負けを重ねてしまうので、復活する時は万全の準備をして、今まで以上に慎重に取り組む必要があります。

試合結果よりも、それぞれの選手が見せてくれた姿に、いろんなことを気付かされました。

人生って、誰にも平等です。

「アイツは恵まれている」と思って、だから楽に勝者になっていると思うかもしれません。

でも、やっぱり負けるんです。

そしてみんなと同じ思いをして、段々と他の人と同じルートを辿り、改めて強さにも勝つことにも感じることがあるのでしょう。

こみちもそれらをバネにして生きたいです。

全く価値観が合わない両親と生きる辛さ

 昨日の一件

昨日の夜、ちょっとしたトラブルが家で起こりました。

その時、こみち、解決する方向に全く動くことができませんでした。

トラブルが大きなストレスで、頭から拒絶反応が出てしまったんです。

両親は心理学的な意味での「ナルシスト」なタイプ。

どんなタイプなのかと言うと、自分の経験や価値観で行動するという人。

一方でこみちは「エンパス」。相手の言動で反応を感じ取り、それで自分の価値観まで変わってしまうタイプです。

つまり、エンパスがナルシストに近づくと、ナルシストは全く自分を変えないので、必然的にエンパスは尻拭いするしかなくなります。

家族会議をしても無駄で、決め事を守ることがナルシストにはできないので、トラブルの解消は気になるエンパス側で克服するしかありません。

洗った食器を棚に片付けて欲しい。

例えばそんなルールを決めても、両親は洗浄機から取り出してはくれません。

両親にすれば、また直ぐに使うとか、要するに彼らなりの理由があるので、こちらからのお願いは聞き入れられないのです。

「ココに置かないで」

そんなルールも全部無効。

夕飯を作るつもりでキッチンに降りたら、ダイニングテーブルにはいろんなものが置いてあって、キッチンのシンクにも別の荷物が置きっぱなしです。

「料理を作るから、片付けたいんだけど…」

ナルシストには、そんな声掛けをして、一緒に、またはこちらが尻拭いしなければ、事は前に進みません。

それが唯一の解決策だと分かっていますが、拒絶反応が無意識に出てしまったんです。

何もしたくないと。

そんな風にこみちが思っても、ナルシストからすると自分たちは正当だと疑いません。

「〇〇ができていないでしょう!」っと指摘しても、その意図が本当に理解できないんです。

例えば物が置きっぱなしなら、「その時に動かせばいい」と考えているので、片付けていないことを非難される理由が理解できなんです。

こみちが声を荒げれば、余計に困惑した態度になってしまいます。

怒っても泣いても、理解してくれないから「ナルシスト」なんです。

そして何より、上手くことが進まないストレスが、エンパスの心を傷つけます。

自室にいる時は気にならないのに、両親の姿見るとそれだけで心拍数が上がり、気持ちも落ち込みます。

許されるなら、別居に戻したいんです。

でも段々と歩けなくなりつつある父親も、数年後には車椅子でしょうし、寝たきりになるかもしれません。

その時に施設に入ってもらうとしても、昨今の物価高を考えると、とてもこみちが支払い続けられるとも思えません。

かと言いて、同居していれば、両親の介護になるでしょう。

どう転んでも、行き詰まりしか感じません。

何より、拒絶反応が出てしまうとは思いませんでした。

何もやる気が起きません。

本音を話しても、両親は自分たちの価値観でしか理解できないので、こみちがどんな風に悩んで苦しんでいるのかを理解してはくれません。

「お願いだから片付けてね」

それでも、全く動いてくれないんです。

自分たちは正当で正しい。

ある意味で、こみちには両親がそんな風に見えてしまいます。

こんな気持ちが毎日続くのかと思うと、それだけで生きる希望が見えなくてなってしまいます。

父親の転倒

 心が壊れそうです…

今朝、いつものように朝食を作っていたのですが、トイレに起きてきた父親が廊下で転倒しました。

昨晩届いた宅配便の荷物が廊下にあって、少し狭くなっていたのですが、父親はその荷物と一緒に倒れてしまいました。

「気をつけてね!」

そう声掛けした時にはもうバランスを崩していたので、防ぐこともできずに残念な気持ちです。

1ヶ月くらい前から、父親は少量ですが失禁してしまうことが増えて、1日の中で何度か漏らしていないか母親が確認しています。

尿意を感じてトイレまで移動することが間に合わないのが原因ですが、今朝の場合、届いた荷物が破損していました。

もちろん、父親から謝罪されることもなく、転倒した父親を起こしている時もいろんな意味で悲しかったです。

父親は自分のことしかできないタイプですが、今はその自分のことも段々とできなくなっていて、全面的に世話されないと何もできません。

以前はできていた食器洗いや食器の片付けさえできないので、食べて寝る以外はテレビを見ているくらいしかしていません。

荷物を壊しても、認識の範囲にはないので、「ごめん」無理でも、「壊れたか?」とも言いません。

してもらってもできなくなれば、そこまでなので、結局はテレビを観るくらいしかできなくなっています。

最近、リビングの臭いが高齢者特有の臭いになっていて、食事中、ガンガンと鳴っているテレビの音声とその臭いが気になって食事もうんざりします。

しかも6時に作った夕飯も、両親に先に食べてもらうと、食事として洗い物をするだけで9時前になってしまいます。

というのも、6時に出来ても、そこから風呂に入ったり、頭を乾かしたりしているので、7時や8時になることも珍しくありません。

とは言え、いつもいつもそうではないので、先に食べることもできません。

かなりの時間を空けていないとことが進まないので、9時近くまで自室で待っていると寝てしまうこともあります。

「今、寝てたよ」

そんな感じでリビングに降りて、シンクにはまだ洗い物が置きっぱなしになっている。

母親は洗面所でドライヤーを使っていて、父親はテレビの前。

使ったしゃもじもそこに置きっぱなしで、それを黙って片付けられる時もありますが、心がダメージを受けて落ち込んでしまうこともあります。

余裕を持っていても思うように進まずに、ギリギリにすると全く別のことでトラブルになっていたり二度手間だったり、それこそこみちがあれこれとできるタイプならいいのですが、そうではないので余計に負担に感じます。

できないと分かっているから、できることからコツコツするしかないのに、コツコツの部分は当たり前に消耗し、慌てて間に合わせたことはトラブルになっても誰も助けてはくれません。

もちろん妻は頼れる人ですが、やはり多くのことで負担や我慢してもらっているので、そこまで頼ることもできません。

来年、再来年となれば、さらに両親が老いるので、今以上に介護負担が増えます。

あまり考え過ぎると心が壊れてしまうので、今しなければいけないことだけを優先して向き合うしかありません。


数日前に妹夫婦たちが顔を見せてくれて

 突然、連絡が来て

妹夫婦から突然連絡が来て、近くまで来たから寄ると言われました。

二人だけではなく、子どもたちも一緒だということで、何も準備しない訳にもいきません。

幸い家に母親もいたので、事情を告げてリビングまわりの掃除をお願いしました。

まぁ、その準備などは問題ではなくて、実際に妹夫婦たちとも会って、子どもたちにも会って、夕飯を一緒に食べて帰って行ったのです。

実は昨日になって、妻から「在宅介護のことでいろいろアドバイスされたんだよね」と。

そんな話は全く知らなかったので、「何それ?」と詳しい話を聞きました。

まぁ簡単に言えば、妹夫婦が在宅介護の不備を指摘したということです。

介護認定を受けた時期や申請の仕方。

ケアプランの組み方や父親への対応。

簡単に言えば、もっと老化を進めない対応ができるというものでした。

妹夫婦は、介護ではなく、医療の専門職で、医学のことをよく知っています。

逆に「介護福祉士」は知っていても「実務者研修」のような介護特有の制度は詳しくありません。

もっと言えば、医療的なケアは詳しくても、介護的なケアの専門家ではないのです。

両方の立場を一般の方にも分かるように例えれば、「それ、面倒でしょう!」が通るか否かになります。

つまり、医療的なケアは合理的に進められます。

その時に考えられる最も効率的な段取りでいいのです。

患者はそれに従って行動します。

でも介護的なケアは、とても非合理です。

順番通りなら簡単でも、途中で中断することも多く、あえて逆からとか、場合によっては端折ったりして、進めなければいけません。

それは主役が誰なのかが違うからで、医療では医師や看護師ですが、介護では本人になります。

介護的な立場では「本人が何を望むのか?」がとても重要なのです。

加えて、施設介護とは異なり、在宅介護での家族は、本人の希望に対して振り回されやすいポジションでもあって、例えば施設介護なら勤務外は要求を拒めますし、勤務中だとしても理由があれば優先を遅らせることが許されます。

一方で家族による介護の場合、全部が全て当たり前になりやすく、それこそ夜中でも早朝でも、関わることが可能です。

一日中、テレビの前でゴロゴロしているのが好きなこみち家の父親が、自分で運動を計画し、黙っていても時間が来たら散歩に出掛けられたら楽ですが、毎回、「運動しよう」と時間を割いて声掛けできません。

24時間しかないのに、毎日数時間を結果も見え難い介護に使うのは、面倒にも思えます。

とは言え、料理や掃除などを代行しているだけでも、生活での負担はかなり違うはずです。

面倒な事務手続きなども調べたり、出向いたりして代行するわけですから、「散歩」までは難しく思えても許されるでしょう。

そこで、「ここにも気を配れるでしょう?」という指摘って、いかにも医療的です。

全部がそうならそれでもいいのですが、多くを介護的に進めている中で、少しの余裕に対してもまだ詰め込めると判断されると、ちょっとどうかと思います。

こみちには全く言わず、妻にだけ言ったことも気になりましたが、日頃の世話に対して「感謝」もなくて、「ここも気をつけてね」ではちょっと専門職としてもどうかと感じます。

以前勤務していた施設のケアマネが、訪問したら「いつも介護頑張っていますね」みたいな声掛けを家族にするという話を思い出しました。

やり方がどうであれ、家族は家族なりに頑張っていることに変わりありません。

「できていないです」と言われて、嬉しいとは思わないでしょう。

そこの気配りが、介護的には重要でも、医療的には軽視されることがあります。

何より、妻が自分なりに努力していると言えなかったことに落ち込んでいました。

頑張っていても、できていないと簡単に言われてしまうと、相手はそんな責めるつもりではなかったのかもしれませんが、言われて嬉しい話ではないですよね。



「面白い」とは何か?と言う考察

 「先に笑ってしまう」!?

「面白い」を考える時に、最終的な結果(笑う)を先に出してしまう方法です。

これは、怒っている時に歩き方から醸し出すのと理由は同じで、「面白い」と言うそのものではなく、そのまわりから雰囲気を作ることで「面白いんだなぁ」と言うことを演出します。

理路整然では笑えない!?

アナウンサーが原稿をスムーズに読んでいても、そこに面白みはないでしょう。

でも、そんなアナウンサーが噛んだりして瞬時に照れたりすると、その突然さに驚きと同時に笑ってしまうことがあります。

意外さが笑いになったケースです。

天然気質はなぜ面白い!?

天然気質な人が、普通とはちょっと異なるアプローチで何かすると、多くの人はその意外さに興味を持ちます。

既に笑いが出てしまうかもしれません。

ですが天然気質な人は、それが当たり前なので、笑われることに違和感があります。

つまり、理路整然は笑えないことと同じです。

でも、まわりには意外性があるので、天然気質な場合は面白く感じます。

バカ騒ぎしてもまわりは笑わない!?

例えば、「笑わせて!」と頼まれて、そこで奇妙なダンスをしてもまわりは笑わないでしょう。

なぜかと言うと、「奇妙な動き」が唐突に現れても意外性を感じないからです。

もしかすると意外過ぎて、理解が追いつかないのかもしれません。

これは先に笑うと言う方法にも通じますが、「バカ騒ぎ」が笑うタイミングの約束事になっているかがポイントです。

先に笑うのも、笑うことを当たり前にする方法ですが、バカ騒ぎがその当たり前になっているかが多くの人には伝わり難いのです。

例えば、ウケないギャグを何度も繰り返し、ギャグそのものではなく、シュールな雰囲気にもめげずに続ける様が笑いを誘います。

つまりそれも笑いに共通する「意外性」が発揮されたケースでしょう。

「面白い」を考える意味

正当な考えは、理路整然としています。

なのでその考えに触れた時に、相手は真面目に捉えて内容を判断するでしょう。

一方、サービスや商品が理路整然としていると、「興味持つ」ことができれば、よりその性能やコンセプトにも深く理解できるはずです。

しかしながら、沢山の商品が並んでいると、その商品に目が留まるかは問題で、理路整然だけでは克服できないこともあります。

ニュース番組の場合、それを観る人はニュースを知りたいと思っている人なので、アナウンサーが面白いことを言わなくても不満には思いません。

むしろ変に茶化すよりも好感が持てます。

ではエンタメを見ていて、何だかバカ騒ぎしかしているようにしか見えなかったらどうでしょうか。

天然気質の笑いは意外性ですから、出演者が全て天然気質だったら、まとまりある進行は望めません。

すると全体としてバカ騒ぎにも見えてしまいます。

つまり、天然気質の意外さを理路整然な視点でいじれるから笑いになると考えると、その両方があるからこそ笑いになります。

真面目でもダメ、不真面目でもダメ。

期待や想像とは異なる意外性に笑いが起こるのでしょう。

ちょっと気を抜く。そんな緩和が上手い人は、笑いも上手いかもしれません。

コツコツと頑張ることも大切ですが、それだけでは興味や関心には繋がらないのでしょう。



もしも今、こみちが18歳だったらの話

 中高年の仲間入り

人生の終盤を迎えて、「人生」とは何だったのかと考えると、それは自分のためであり、妻のため、子どもたちのためだったと思います。

特に妻を見て、側にいてくれて有り難いと感謝することしかできません。

例えばこみちが今の年齢まで独身だったら、特定の彼女を作るよりも、性別を意識しないで集まれる仲間たちが欲しいと思います。

ツーリングに行くけど、誰か予定が合う人はいませんか?

もしかすると「はじめまして」かもしれませんが、「ツーリング仲間」と言う関係で、私生活には踏み込まないくらいの距離感です。

冷めているのではなくて、だからこそ気兼ねなくいろんな人とその時々で「ではまた!」と笑顔で再会を楽しみにできると思うんです。

例えば、妻との出会いがなかったとして、あの時に一緒になると言わずに疎遠になっていたら、もしかすると全くタイプの違う相手と結婚し、今とは違う土地でまた違う日常だったかもしれません。

でもどんなに考えても、選択肢の中から選べるのは1つだけで、「誰も選ばない」を選んだとしても、その人生しか送ることはできません。

結局、その時に「これでいい」と思えたら選択肢なら、それ以上はなくて、あとは如何に満足するのかだけです。

つまり、今、もしも18歳に戻って人生をやり直すことができたとしても、当時だから経験できたことは今はもうできませんし、今だかできることも過去にはできませんでした。

なので、悪い部分、心配なことばかり考えても、その悩みだけでは何も変わりません。

だからいい事だけを考えた方がと言うこともなくて、大切なのは悩むことも喜べることも自分が楽しむことだと思うんです。

当時、親から公務員を強く勧められました。

でもこみちはその道には進みませんでした。

だからこそ経験できたこともありますし、もしも言う通りに進んでいたら年金面では安定していたかもしれません。

どちらがよかっただろうと振り返っても、通って来た道が違うので、楽しみ方も違います。

安定しているけれど、その分だけ人生経験が狭くなってしまったとするなら、その逆と比べて、必ずしも良い選択肢かは人によって異なるでしょう。

つまり、振り返れば、あっちを選んだ方がと思うこともあるでしょう。

でもそれは今の道を知ったから分かることで、そのまま別の道に進んだら、その時はまたこっちの道に憧れていたはずです。

つまり言い出したらキリがなくて、だからその時に「これでいい」と言う納得できる選択肢なら、それを受け止めた方が幸せだと思います。

結局、その選んだ道をどれだけ幸せだと思えるかが、いい人生なんですね。