「不幸」とは何かを考えた話

 「選択肢」

欲しいか欲しくないか。

したいかしたくないか。

もしもそう考えるとことができているなら、多分「幸せ」なんでしょう。

その意味で「不幸」とは、欲しいのに絶対手に入らないか欲しいとも思えないか、それを悩むような時なんです。

希望という言葉でも言えるかもしれないですね。

こうなりたい!と思うことさえできないと、希望なんて生まれません。

例えば親の介護に追われていると、自分の夢や希望ってどうしても後回しになってしまいます。

つまり、そのままでは不幸なんです。

だからどう希望を持って暮らせるかを考えないといけないですね。

両親を見て思う

例えば父親、あれこれと言いますが、自分では動きません。

一方で母親はそんな父親の言葉に忙しく動き疲れています。

それでも互いに希望が見出せるなら幸せです。

でも父親にとっては思うようにならない失望感が増し、母親は動き尽くしても感謝もなくて疲れて憔悴してしまうだけなら不幸になってしまいます。

例えば「ありがとう」という言葉は、行為を受け入れた承認の証なんですよね。

その苦労も私には感謝したいことです。と。

行為そのものの苦労が軽くなる訳ではありませんが、ありがとうと言われる環境は不幸にならないためにも必要なんです。

今朝、両親から全く感謝されませんが、簡単に二人の朝食を作りテーブルに用意しました。

ウインナーとゆで卵。カット野菜にプチトマト。

それだけなら30分もあればできてしまう簡単な朝食です。

例えば、両親が朝食を作ってもらって当然だと思い、ありがとうをさえ思わないとするなら、こみちの朝食作りはその意味では30分だとしても無駄になってしまう時間です。

言い換えると24時間が毎日23時間30分になるので、できるなら無駄になって欲しくないですよね。

一方で、両親立場になれば、ウインナー?ゆで卵?とうんざりしているとしましょう。

ここにも不幸がありますよね。

でもこれも幸せに変えられます。方法は簡単で、例えば毎食のコストを一人200円ではなく300円や400円にできないか考えることなんです。

単にお金ということではなく、どんな料理を朝にたべたいか?それを選べる立場にするには限られたギリギリのコストではやはり難しいですね。

だから、そこはそのままで、自分たちでもう一品を追加する。

それも幸せへの一歩ですが、やはり本音を言うと朝ギリギリのコストそのものを残すことが一番の無駄で排除するべきポイントだったりします。

意味がないのに続けること。

そこに意味があるならいいですが、誰からも意味がないのにただ我慢になるくらいなら、抜本的に見直したほうがいいんです。

その決断をしないこと。それを面倒だと見ないふりをすると、新たに追加のコストを掛けても、また同額なら同じような結果ですし、数倍掛けるにしても、やはり無駄をそのままでいいはずはありません。

なぜなら、その無駄は別の部分での幸せを1つ損なっているからです。

動かない父親。最近、ズボンを買うためにウエストを測ったら、95センチになっていました。

10センチ以上太っています。

で、母親は体重が明らかに軽くなっていると分かるほど、骨と皮で痩せ細りました。

じゃあ、不幸なのか?

でもこれも両親がこれまで自分たちで選んだ結果なんです。

間食すると太るよ。そう言っても父親は辞められないでしょう。

母親には、肉も食べないと筋肉にならないよと伝えても、好きじゃないと食べません。

ここで考えるべきは、好きを優先すると加齢で痩せたり太ったりします。

でも、同年代で健康的な人は、好きなものだけを食べるのではなく、栄養価を考えて逆算して食べるものも取り入れていると思うです。

それは食事だけではなくて、生活を潤したいから旅行を計画しよう。

語学の勉強もしたいなぁ。

つまり希望がある生活です。

でも、不満ばかりで終わってしまうと、ある意味はそれでもいいですが、やっぱり不幸な雰囲気にはなりますし、一緒には居たくないですよね。

またこんな食事?

でもそうじゃないですよね。なぜそんな食事になってしまうのかを考えることもしないから、不幸な生活しか選べなくなったです。

それでも、こみちから見ると両親は幸せだとおもいます。

不満があれば、誰かが助けてくれますし、痛みを緩和してくれる手段を残されているので。

この前、両親がケンカして、母親が「もう施設に入ってよ!」と父親にいいました。

すると父親、「この家にいたい!出て行かないぞ!」と泣き叫んだんです。

その声が大きくて、二階にいたこみちにまで聞こえました。

ただ父親からこの家に住み続けたいんだと知れて、そうなんだと思う気持ちとでも自分から幸せになろうとはしないのは変わらないんだとも思いました。

自分では希望も見つけない。じっとして与えてくれる選択肢から選ぶだけ。

でも用意できる選択肢って段々と細くなります。

これじゃなぁと思っても、やっぱり自分では動けないのが父親です。

こんな風に工夫してみよう。

生活にそんな意識がないです。

俺だって苦しんだ!

そう父親が言います。

こみちも内心、だろうねと思うです。

だから父親にとって良さそうなことを探して提供できるだけ余力がこちらに残っているか?なんですよね。

そこはやっぱり限界があるから、父親も母親もですが、今の生活を維持するだけでは不幸になりやすいんです。

でも驚くほど変化しないで、生活をこじんまりしています。

これなら食べる?と作っても捨てられることがつづくと、やっぱり食費もばかにはならないので食べないともったいないと思って出し渋りますよね。

ウンチがでない。

でも野菜はすきじゃない。

それをやっぱりこみちの方で悩むまではできません。

出ない理由を考えて、だから運動して、水分も摂って、野菜だって好きじゃなくても食べた方がいい。

でもできないですよね。そして出ないと悩む。

それは悩みではなく、悩むことを楽しむ人の行動なんです。

出ないんだよ!と楽しむならいいですが、不幸に思うなら悩むことは少し違います。

でもこれ、こみち自身にも言えますよね?

何で上手くできないんだろう?

それを悩むまえに、もう少し考える別のポイントがあるんじゃないか。

それでも上手くできないのなら、悩むのも分かるですよね。