幸せを説くいろんな賢者の話の共通点
例えば、両親の介護がどんどん本格的になるこみち家の場合、父親も母親もお願いしたことをしてくれません。
食べた後の食器を食洗機に入れるまではしますが、自分たちの分担はそこで終わり。
洗い終えた食器を取り出して、食器棚に返すのはほとんどこみちか妻の作業です。
つまり、100ある家事を四人で25ずつ分担できれば、何の不満もありません。
それがこみち家にできる精一杯だからです。
そして、つまりはそれが「幸せ」な生き方になると思うのです。
でも、両親を見ていると、それぞれ割り当てられた25を最初から「もう年だから」と言い訳して20にして、風邪でもひけば15にして、治ってからも15のまま。
さらに、だんだんと15さえもできなくなって、0に近付けることを求めるのです。
生き方っていろいろですよね。
こみちは、25の負担を全うすることだけが生き方だとは思っていません。
もしも、こみちが一人暮らしで、自分しか頼れなければ、100をがんばるしかありません。
ただ、今の100とその時の100が全く同じとは限りませんが。
つまり、四人の暮らしを変えないまま、25の負担を放棄することがダメなんです。
何もしないなら、それなりの生き方になることも受け入れれば、何もしない生き方を認めてあげたいんです。
例えば今、1000万円くらいを上手く運用すれば、かなり生活の足しになるでしょう。
どれくらい儲かるかは別にしても、コインランドリーの経営なら、歩くのが苦手になった父親にもできたはずです。
自分がどうしたい。だから、こんな生活を手に入れよう。
賢者たちの話は、方法が違っていても、多くはこんな流れに思うのです。
でも、両親を見ていて、もちろんこみち自身にも言えますが、理想に向かって改善しているだろうか?と感じます。
そうした生き方をしたいなら、まわりから認められるように生きるべきです。
先日、youtube で見た弁当屋の方も、一品ずつならこみちにも作れます。
でも毎日、大半を一人で、何品も作り続けるからこそ、多くの人から信頼されて繁盛する店になるのでしょう。
つまり、能力はみんなそんなに変わりません。
でも続ける努力や覚悟が違うんだと思います。
「できなかったのは、〇〇だったから」
多くの幸せになれない人は、こんな風に言います。
できないことが悪いのではなく、できなければ最初に掲げた理想も変えればいいだけです。
変えないで、不幸と思うから不幸に感じるのでしょう。
母親はいつも「〇〇じゃないと」と言います。
「お父さんは、夕飯におかずが三品はないと怒るのよ」
もしもそうだとしても、今もそれが通ると思いますか?
守る必要がありますか?
もしも父親がそれで怒ったら、こみちはいろいろと質問させてもらいたいです。
こみちが不幸なのは、支えられないのに両親を支えるつもりでいるからです。
多分、それだけ。
「ここまでしかできない」と宣言してしまえば、もうそうするしかありません。
それに不満や意義があるなら、両親が考えればいいだけです。
でも実際は、無駄な食費が多いので母親に「もう買って来なくていいよ」と告げました。
すると母親は、朝用の食材も買わなくなり、ちょっと嫌な予感がしています。
母親は浪費家ではありません。
「〇〇じゃなければ」と言う考えが極端に強いのです。
父親に三品は欲しいと言われて、何が何でもそれを守ろうとしています。
お金や時間の関係、メニューによっても守れないことってあって不思議はありません。
でも母親はそれを守ることだけにこだわります。
だから、「買わなくていい」も「無駄遣いしないで」ではなく、「全面的に食費をこみちが負担する」と解釈しかねません。
そして、今までの父親にしていたお菓子などはこっそりと買い続けることを続けるでしょう。
そんな風に考える母親なので、最初からこみちが両親を支えられるはずもなかったのです。
薄々気づいていながら、不満を感じつつもどうにかできると思って、いつも不幸に思っていました。
賢者の話を聞いていて、そもそもこみちみたいな状況にはなっていないんですよね。
幸せになるには、そうなるための環境が必要だからです。
不満もあるけれど、それも幸せと思うことが、今の不幸から抜け出す解決策と言えます。