人としての「幸せ」探し
子どもの立場として、こみち自身も「幸せ」とは何かを懸命に探しながら生きています。
例えば、24時間と言う誰にも平等に与えられた時間ですが、自身が生きるために使うのはどんなに抑えても睡眠やら食事、洗濯、料理などで数時間は消費されます。
加えてこみちは両親の為にも少しですが時間を割いていて、それは一日あたり数時間になります。
それを支えてくれるのが妻で、だから妻の休日にはできるだけ寛いでもらえるように心がけているので、普段以上にこみち自身の活動量は増えます。
とは言え、そうじゃないと頑張っている妻の立場で、「幸せ」が見つからないと思うからです。
妻は休日でも、例えば行政の福祉課に相談したり、地域包括やケアマネと打ち合わせしたり、そんな時にも妻は同行してくれ、いつ調べたのかといろんな情報収集もしてくれるので、実際には休日も朝から丸一日、リラックスしている訳ではなくて、二人でランチを食べる1時間だけが二人での幸せだったりします。
よく、両親のことを「ナルシスト」と称していますが、ナルシストな人の特徴は相手の立場で考えられないこと。
顕著なシーンで言えば、泣いている人を見つけて「大丈夫?」と声を掛けることはできるのですが、相手の悲しみや辛さを自分の事のように捉えて、一緒に泣くことはできません。
それがナルシストな人なのです。
もちろん、本人が悲しい時は自分の感情で泣けるのですが…。
だから、こみちや妻が、例えば風邪などで本当は辛くても、それ我慢しながら家事などをしても、両親の目には普段と何も変わらないように見えていて、「無理している」ことに気づいて「大変そうだから代わるよ!」とは言ってくれません。
与えられること、自分が他の人よりも少し特別な人だと感じたりする父親は、他人よりも優位であることに慣れていて、そのことに感謝しません。
むしろ、それを心地よく感じ、そうではなく平等を強いられると逆に不満そうな態度になります。
行列に並ぶことができないし、買って来たら食べるけれど、自分が買って振る舞うことはできません。
過去に親の介護のことで、妻から言われたくなかった言葉も聞きました。
言われた時は「マジか!」と思いましたし、こみちの欠点や弱さをズバッと指摘されて、ショックでもありました。
でも妻だって苦しかったから出た言葉ですし、二人もう離婚した方がいいのではと思ったことも何度もあります。
実際に言葉として「離婚」が出たこともあるし、その時に妻が「そうね」と言っていたら、それこそ二人の暮らしも終わっていたでしょう。
一方で、そんな波乱があっても、両親は全くこみちたちの苦労も理解できていません。
彼らなりに感じているかもしれませんが、同居して言えるのは「ダメ」になって、取り返しがつかなくなってから指摘されて初めてその状況が分かるということです。
それはつまり、何もしなければ人は老いて、いつかは歩くことも食事を自分ですることもできなくなるとどんなに説明しても、両親には理解できません。
だから父親はテレビを見て過ごし、母親は思いついたことを繰り返して生きています。
例えば、朝夕の父親の飲む薬の準備も分類は妻がしてくれて、それを食卓に用意するのはこみちです。
以前は父親だけでしていましたが、飲み忘れや飲み間違えが頻繁になり、母親とも話しましたが父親のために頑張るとは言いませんでした。
「自信がないからしない」
それが母親の価値観です。
妻やこみちの方が間違えないから、私よりもいいだろうと言うことです。
一見すると理に適っていますが、父親は母親の配偶者で、一番近い存在です。
こみちとしては「でき限り頑張るけど、できないこともあるからフォローしてね」なら分かります。
でも丸投げできるのは、ナルシストっぽい行動だと感じます。
代わりに、思いついた食材を好きに買ってくるのが母親のスタイルです。
本当に買って欲しい物は気づかないで、こみちが買って来た同じものをまた買ってくると言う母親で、しかも母親には「自分も頑張っている」と言う気持ちがあって、苦労は平等だと思っているようです。
人としての幸せを両親と話しても、目の前にあればそれを手に取ることはできますが、考えて努力して、または工夫や他人を思いやってとなると、彼らにはもう難しいことになります。
だから、一流パテシエが作ったケーキ食べてもその有り難さは伝わらず、50%オフで買えたスーパーのケーキでも両親は目の前にあれば幸せに感じられるのです。
と言うのも、母親が買って来る値引きのセール品。
食べなくてももう知っているパンがまた置いてあって、「買って来たよ」と言ってくれます。
「安かったから」と幸せそうに話す母親ですが、こみちも高いものが食べたい訳ではありませんが、人が手にする物って、その人の価値にもなることを理解しなければいけません。
大切に扱われた物だからこそ、それを手にする人を大切に扱えると言う考え方です。
子育てでも、子どもに「お前はダメな人間だ」と繰り返していると、知らぬ間に子どもは自分無価値に思ってしまいます。
だから、そんな言い方は避けなければいけません。
でも両親にはそんな考えは理解できなくて、「ダメなものはダメだろう」で終わってしまいます。
実際には今はダメでも、それがどうしてダメなのかと考えて、時に問題点を少し克服できると状況が一変することもあります。
でもそんな思考は、ナルシストには不得手で、客観視ができません。
もちろん、こみちができていると言うことではなくて、両親にも良いところもあります。
でも両親は努力の仕方を工夫しませんし、頑張る量も時間も短くて、すぐに結果ができないと諦めてしまいます。
高齢者になれば、ただでさえ老いて何もかもできなくなってしまう状況で、だからこそ本当にしたいことを考えて、自分なりにどう頑張るのか作戦も必要です。
ご飯を作ってもらい、それを当たり前に食べるだけで、気が向いたら食器を洗って、それを褒めてもらいたいでは、幸せって見つかる気がしません。
そんなに簡単な幸せなら、みんなも苦労していないでしょう。
たくさん苦しんで、努力して、でも本番で実力発揮できずに落胆することの方が多いんです。
5年、10年とそれでも悩みながら続けて、少し手ごたえがあれば、頑張ってよかったと思うのが幸せなので、甘々なこみちから見ても両親の考えでは子どもの頃に見ていた幸せは転がって来ません。
それは長く生きて知っているはずなのに、やはり変わろうとしないんです。
そして老いて寝たきりになっても、「幸せではなかった」で終わってしまいそうです。
そうじゃないことを話しても分かり合えないことがどんなに一緒に暮らしていて辛いか。
時間があって、気力があって、家事もほとんどない父親なら、今だからできることがあるはずです。
しかも3年後、5年後ではもうできなくなることも段々とわかっているのに、気力も失せて食べて寝てだけになっている最近の生活ぶりを見ていて、残念な気持ちしかありません。
成功者になることが幸せではなくて、夢を持ってそれに向かって進むことが幸せだと思います。
もちろん進むだけじゃダメで、結果も大切なのですが、こみちは呆れるくらいに続けることで幸せを探したいと思っています。
それはこの記事を読んでくれる方に、上手くいかないことも多いけれど、でも諦めずに頑張って生きましょうと伝えたいからです。
こみちがいろいろと考えて、なぜこみちが生まれたのかを考えた時に、唯一言えるのは「継続」だったと思います。
少しずつでも手を加えて、時間は掛かってしまうけれど、人生の終盤にそれが完成し、これが自分の人生だったと振り返ることができる。
両親にもそんな体験や経験を踏まえて、幸せを手にして欲しいけれど、昨日の変わらない今日になんとなく身を置いて、時間だけが過ぎて老いてしまう。
そうなって欲しくなかったです。