「天然」と言われても
本物の「天然」は、天然と言われて嬉しくないと言います。
その理由は、その人にとって「天然」なことが「普通」だからです。
オーラを見ることができる人は、オーラは見えるものでしかありません。
なので「凄いね!」と言われても、逆に「見えないの?」と驚きます。
つまり、その人に感じられる世界観はその人には「普通」なのです。
「天然」の世界観
例えば、こんな話があって、「昨日、友だちと一緒に映画館で話題作を観て来た」と話します。
普通の人であれば、いつ?と思った時に「昨日」と記憶を呼び出せます。
誰とどこで何を?と思った時も同じように思い出せるでしょう。
しかし「天然」は違います。
いつ?と思った時に、頭の中で「???」となります。
映画館や友だちと行ったことを覚えていても、それがいつの話なのか記憶にありません。
もっと変わった反応なら、「ネェネェ、キノコって何?」と言ってしまうでしょう。
聞かれた方もびっくりしますが、よくよく聞けば「昨日」が「きのう」で「キノコ」と聞こえただけの話です。
普通の人なら、話の内容から「キノコ」と聞こえても、「きの…」から「昨日」と認識するでしょう。
しかし、その場の状況を踏まえて予測できないと、聞こえた「音」で理解してしまうのです。
「天然」は状況や情報を他の人に比べて整理できないのかもしれません。
興味があちこちに向いて、その時に聞き漏らしてしまったり、何かが気になり過ぎてその後の話を一切聞かないことで、全体を見失ってしまうので、結果的に場違いな言動になります。
しかし、本人は本当に聞いていなかったり、そうだと思い込んでいるので、指摘された時に逆に驚きます。
「そんな話だったっけ?」っと。
大人の発達障害との類似点
知能的には問題なく、でも一般的な反応を示さない大人の発達障害。
特に対人との関係で、「癖」があります。
自身が思うことは当たり前に実行できますが、相手がその場所を使っていたりする時にどんな対応をするべきか、一般的な反応が分かりません。
無言で使い始めたり、何も言わずに諦めたり、あと何分で空きますかと聞くこともできなかったり。
つまり、無制限の時間と空間があれば自分目線で良いのですが、生きていれば他人との関係性が絡むこともたくさんあります。
「天然」の人は、時にちょっと変わった行動をしますが、本人はいたって真面目にしているので、「それ、今しないといけないやつ?」と聞かれて、ちょっと驚くでしょう。
本当に「今」なのかと聞かれて、本人もはっきりと今だとは思っていないけれど、でもいつなのかと考えても答えはでません。
そんな状況を時系列でたどれればいいのですが、場合によっては「怒られた」と処理してしまうこともあるでしょう。
天然と話していて、「明日って言ったよね?」と言ってしまい、「今、できるから」とさらに返事が返って来て、「今じゃ置き場所がないから、明日って言ったよね!」っと。
情報を正確に汲み取れないことで、なぜ時間指定されたのかを聞き漏らしてしまうのです。
それをお茶目と笑えれば場も和みますが、何度失敗したら分かるの?と思ってしまうと天然のやることにイライラします。
父親も母親もど天然
こみちの両親、ど天然です。
こみちよりも器用ですが、「何でそれをそこに置くの?」ということが日常茶飯事です。
なぜしているのかも本人も分かっていなくて、でもやり始めたものの、途中でどうすればいいのか分からずに放置されることが多いんです。
母親は、玄関に自分の靴を出しっぱなしにします。
でも、靴を放置するのではなく隅に何足も並べるんです。
靴箱が空いているのに。
普通なら靴箱に仕舞えばいいだけなのですが、「仕舞う」が抜けて、玄関の隅に並べて邪魔にならないようにしているんです。
本人としては努力もして気も使っている。
でもまわりにすれば、「しまって欲しい」なのです。
階段に買い物袋を置いてあって、「片付けてよ!」と思うのですが、本人にすれば思うところがあるのです。
聞き間違いや誤認、誤解があって、そうなっているのですが、状況を説明されてもそれだけでは認識を変えられないので「階段の登り降りの邪魔になるからここには置かないで」とでも説明されないと、「気づいてくれ」ではことが進みません。
父親に対しては、「食べたら食器を洗って棚にしまって」と、始めるタイミングまで告げないと上手く進みません。
「時間が空いたら」という曖昧さを処理できないので、いつから始めればいいのかが分からないのです。
なので、本人がしたいという時はできても、時間を見て、とか状況に応じてという行動が苦手で、次第にできなくなっています。
それをそのままにしたら、みんなの邪魔になるだろうという視点を持てないので、何でこれを?と思うようなことでも平気で放置してしまうのでしょう。