最初から「私」がいなかったら 在宅介護はどうなるのか?

 「行き詰まった」時こそ原点に帰る

父親や母親の行動を見ていると、例えば家族4人で最初に四等分したとすると、各自には25%の割り当てになるはずです。

単純にそれを守り維持できれば、何も問題がないのですが、同居して感じるのはその役割となった部分の中から「本当に役割」のような発想を持ちます。

つまり、担当するべき項目が5つだったら、その中からさらに2つとか3つという具合に自己判断で役割を決め、外された役割を結果的に誰か別の人に回そうとするのです。

頭が痛いとか、気分が乗らないとか、それぞれの事情はいろいろあって、出来かった理由を探すのは難しいことではありません。

そもそも家事のことなら、仕事とは違うのでサボったから直ぐに支障をきたすこともないでしょう。

しかし、今の両親を見ていると、いつの間にか役割だったことでも「してあげた」という立ち位置になっていて、例えば担当する家事でも「今日は私がゴミを捨てておいたから」と報告しに来ます。

承認欲求が強いのか、全体を見渡すことができていないからなのか、こみちは自分の担当する家事を終えてもアピールなどしないのですが、聞こえ方によるとそこまでアピールされると「恩着せがましい」とも感じます。

言ってしまえば、4人だから四等分ではありません。

父親や母親、それぞれにできそうなことを選んでお願いしているつもりなのに、結果的にはその一部、又は全部ができていないのです。

「これからも車の運転をしたい!」というけれど

高齢者の事故は、その本人だけではなく、被害者やその家族、そして加害者となった家族の人生も大きく変えてしまうでしょう。

リスクを完全に取り除こうとすると、家でじっとしている他ありません。

だから、起こり得るリスクと得られるメリットを考えて、人は行動します。

例えば、脳出血になった父親の場合、なったことが無い人と比べても発症リスクは高いと想像できます。

そして、仕事を持たず、病院や買い物などを時々行うという生活スタイルを考えた時に、「運転すること」で得られるメリットと想像されるデメリットを比べるとどうしても運転を控えることに傾きます。

とは言え、これが車がないと買い物もできないような地域で、しかも父親と母親だけで暮らしているような場合、危ないと感じつつも運転を控えることは難しいでしょう。

言ってしまえば、絶対に事故を起こさないと言い切れるドライバーはいません。

年齢などで決めるの難しい話です。

振り返れば、事故など無縁の人もいるでしょう。

でも起こり得るリスクという意味では、誰しも運転が危険性を含んだ行為だと理解するべきです。

例えば、週に数回でも、父親が今でも働いていて、それがとても生き甲斐で欠かせないものだとしたら、家族も無碍に免許を取り上げることはしないはずです。

決して安くはない維持費を家族の生活費から捻出し、しかも事故を招いた時にも家族が補てんするしかない状況では、父親が車を運転するメリットは極めて限定的に思えます。

なので、単に「運転したい!」ではなく、家族が安心して送り出せるような環境を本当なら父親が自己アピールするべきだと思います。

まして止められて暴れてしまうような反応を見せると、余計に家族の心配は増してしまうでしょう。

事故を起こして、「オレは知らない」という状況になってしまうことが一番怖いと感じます。

そう言う意味でも、今のままではやはり父親が運動することを認めるのは難しい話です。

もしも「私がいなかったら」を考える

両親を見ていると、心配になることがいくつもあります。

それを許せなくて、気になること全てに手助けしてしまうと、自分の生活そっちのけで両親の心配ばかりすることになります。

ではもしも「私」がいなかったらどうなるでしょうか。

思うに今よりも快適ではないかもしれませんが、でもそれはそれでそれなりに時はすぎて行きます。

つまり、心配して何かするしかないのではなく、できなくてもどうにかなるのが介護です。

それくらいに思わないと、それこそ理想ばかりが膨らんで、現実を受け入れられなくなります。

行き詰まってしまうと負担ばかり考えるのではなく、「まぁこれでもいいじゃないか」と妥協するのも必要です。

先ず、自分以外の人に合わせて生きるのは難しいことで、基本、誰か一人をサポートするのは3人以上の人が必然です。

つまり、誰かを一人で完成に支えるのはできないことなので、どこかで妥協しなければいけないし、それは怠惰なことではなく、仕方ないことです。