身近にいる「メジャー派」と滅多にいない「マイナー派」
世の中に社会という組織が作られる時、ルールがどうやって決められるだろうか。
例えば「朝は3時に起きないといけない!」というルールが作られたら、どんな反響が起こるだろう。
「ルールはルールだ!」と規則を強く重んじる人は、3時に起きない誰かを無理矢理に起こすかもしれない。
またある人は、瞼に丸い印を付けて、寝ているのに、起きているように見える工夫をするだろう。
少し律儀な人なら「起きている」という定義を語りだすかもしれない。
いずれにしても、世の中の秩序を保つために社会が生まれたとするなら、そこにはルールが生み出され、それによって様々な影響が出てくることが分かるはずだ。
こみちは日本在住だから、日本という国のルールで生きている。
でも異国で暮らし、異なる文化に触れて育っていたら、今では常識に思うことが実はルールとして無意識のうちに常識化したこともないとは言えない。
より多くの人にとって違和感が少ないルールは自然と受け入れられるだろうし、逆に少数派にとっては意図的に心得ていなければ、ルール違反になってしまうこともある。
つまり、社会が誰のために作られるのかによって、より多くの人が生きているメジャー派に優しい時と、逆により少数のマイナー派に居心地がいい場合ができたりする。
「〇〇は〇〇だ!」というルール
例えば公道を走る時にある「制限速度〇〇キロ」というルール。
「そんなにゆっくりじゃ、遅刻してしまう!」と思って、運転中にイライラしてしまうこともあるだろう。
急いでいる時に、それができないルールがあると、「なんでここの信号機はすぐに赤になってしまんだ!」と思ってしまう。
しかし、「上限」を定めてくれることで、「それ以上はできない」というルールが生まれる。
「時速60キロまで」というルールによって、例えば60キロで走っているともうそれ以上出さなくても、周囲からの理解を得られる。
走り慣れていない山道で、地元のドライバーはとても慣れた感じで走っている。
付いて行こうと思っても、そうできない事情がある。
「迷惑になっていないか?」
後ろを見ると、後続車が連なっている。
「迷惑を掛けている」と焦ってしまうか、制限速度の制限に助けられるかは全く異なる感じ方になる。
「それ以上はしなくてもいい」と行動を制限されることで、実は助かることも多い。
言い換えると、マイナーな人の中には、その制限によって社会的には省かれたエリアで活躍する人もいる。
なぜなら、社会がより多くの人に有益なルールになりやすいからだ。
つまり、個人的には特筆できるような長所がないと、平凡な人でありふれた存在と考えることもできる。
しかし、この社会で生きる時、ルールによって守られ、より生きやすい環境とも言える。
逆に何かに特化したマイナーな人は、確かに一見すると平凡な人ではないだろう。
しかし、社会の中では、そのマイナーさ故に、いろんな制限やルールに直面する。
「自由でいいじゃ!」と。
でも、社会がそんな風にできていない以上、毎回、意識してルールに沿って自分を制限するのは、マイナー派の大変なところだろう。
つまり、そのマイナーさが輝けたらいいけれど、苦しい思いだけの人生になってしまうとただ生きづらいだけになってしまう。