なぜ母親は夕飯にカレーまで作ったのか?
昨夜、夕飯を母親が作ってくれた。
作ったと言っても、スーパーで買った惣菜や揚げ物をそれぞれの皿に乗せ替えるという程度だ。
そんな簡単さもあってか、それとは別にカレーまで作ってあった。
なぜカレーまで作ったんだろう?
量的にはそんな感じで、しかもそのカレー、ハヤシライスとカレールーを混ぜて作ったのか、辛くもなくて酸味が強い。
強いて言えばトマトカレー。
でもトマトは入っていなかった。
味的には食べられないほどではない。でも、美味しいとも思えない。
そして、鍋に家族四人分でも食べきれない量がある。
老化とは何か?
これまでできていたことができなくなるというような説明も多いけれど、1から10までできていた人が、1から8までになることもあれば、3から9までになってしまうこともある。
つまり、「なぜしなければいけないのか?」という動機の部分である「1」が無くなって、それまでの習慣が行動を後押ししていたりする。
父親の行動でも、「湯を沸かす」という一点だけは固執するけれど、ポットを掃除したり、シンクや調理器周りを拭いたりはしていない。
同居が始まってから、台拭きが2枚になった。
一枚はキレイ用で、テーブルなどを拭く時に使う。
もう一枚は、シンクの掃除で側面を拭く時などに使うものだ。
間違えて使わない様にと、キレイな方は壁にあるタオル掛けハンガーに吊るされていて、もう一つはシンクの片隅に畳んで置いてある。
最近、その片隅に置いた台拭きは湿っているのに、タオル掛けのキレイな方が乾燥してパリパリないなっている。
つまり、しばらく使っていないのだろう。
で、テーブルをどう拭いているのか。
多分、拭いた気になっているのか、もう一枚のどこでも使える方で拭いているのだろう。
そもそもこみちも潔癖症ではないから、どっちで拭いても構わない。
そうではなくて、両親の提案で二枚に増やし、使い分けする様になった筈だ。
つまり、以前なら1から10までできていた。
でもいつの間にか抜け落ちてしまった部分があって、なぜそうなってしまったのかよく分からないことが出てくる。
多分、そんな生活での兆候が老化によるものではないだろうか。
こだわっているようで、それを貫き通せなくて、ただ習慣としてだけは続けているということになるのだろう。
楽しく生きようとしてみるけれど…
ジョギングを始めて、走ることが楽しみになった。
でも娯楽のように、ただ楽しいという感覚ではなくて、生活での不安やストレスを苦しくても目標まで走り切るという体験が気を紛らわせているに過ぎない。
なぜ生きるのか?
明確な答えなど見つかっていなくて、でもジョギングが楽しくて、生活に潤いを与えているように思えたけれど、ふと「心の隙間」に冷たい風が吹き込む。
今日は請負の仕事で出掛けるから、外の空気をいっぱい吸って来よう。
移動が楽な自転車もいいけれど、運動を兼ねて行きは歩こうかとも考えている。
少しテンションが不安定になっているようだ。
あまり考え過ぎないようにしよう。