中高年の生き方 「私が私である根拠」を考察する

 「私」とは何か?

まず、どんな車種でもいいので、一台の車をイメージして欲しい。

その車を使っている時に、外装を傷つけてしまい部品を交換したとする。

さて、車は同じ車なのか、別物なのか、どう感じるだろう。

さらに言えば、エアコンを丸ごと取り替えたとか、エンジンを乗せ替えたという修理をすると、最初にイメージした「車」はそれでもなお維持されているかが問題だ。

よくある話では、「エンジン」を基準としたり、「フレーム」を車の根拠と見做すのだろう。

車の愛好者が、「この車はもう30年以上乗っていて、エンジンを3回オーバーホールして、2回乗せ替えた」と話としよう。

さて、それは一台の車と言えるのか、それとも複数の車なのか。

同じ話が、人間についても言える。

「脳」と考えるパターン。「心臓」と考えるパターン。「身体すべて」というパターンもあるだろう。

いずれにしても、「人間」が「同じ人間」である根拠はどこにあるのだろうか。

例えばこみちという人間が何かに触れて反応する場合、それはどこが関係した結果だろうか。

1億個の質問に答えて、ありとあらゆる判別方法をデータ化すれば、「こみち」を擬似的に作り出せるのだろうか。

言い換えれば、10億、100億と質問の個数が問題なのだとしたら、それによって「こみち」を作り出すことができてしまう。

例えば、「こみち」を質問による方法で新たに作り出した時に、そのコンピューターによって再現された「こみち」は自分自身を「こみち」と思うだろうか。

それは今の「こみち」がなぜ「こみち」と思っていられるのかに繋がる。

例えば認知機能が低下し、ティッシュの箱を見て「ケーキ食べたい」という高齢者がいる。

「箱」という外見から連想し、出てきた思考だが、「私」を「私」が忘れてしまえば、もう「私」であることを確認することはできない。

それは言い換えれば、「私」と思い込んだなら、疑わずに「私」だと思うはずだ。

つまり、生身の「こみち」を全コピーしたコンピューターの「こみち」は間違いなく自身を「こみち」だと思うはずで、仮に生身の肉体を捨て去ってもコンピューターに移行できれば、「こみち」という人間はあたかもコンピューター上に移ったように見えるだろう。

原点に変えれば、「こみち」が「こみち」である根拠をどこに置くかだが、「肉体」を基準とするなら、コンピューター上の「こみち」はニセモノで、やはり肉体の崩壊を持って「こみち」という存在が消失したことになる。

「人間」はどこまで優秀なのか?

まず人間が「模倣」ではなく、新たに作り出せたものがどれだけ存在するか考えたい。

「空気」や「水」、「光」も「火」も「風」も作り出せてはいない。

化学的には元素を作り出せることができれば、それは人間による新たな創造だろう。

例えば「ニホニウム」という元素番号113の日本によって作り出されたらしい。

いずれにしても、多くの試作を繰り返し、僅かな確率で作り出せるものが「ニホニウム」だとしたら、多くの事柄は新たな創造ではなく、前例を学びそれを知識化して再利用しているに過ぎない。

しかし、「知識化」することで成り立つということなら、最も効率的に成長するためには目的にあった情報を探し、その中から関連性の高い項目を分析し、新たな形へと適合させることが大切だと分かる。

もっと言えば、「お金持ちになりたい」なら、最初にするのは「お金持ちの人」を真似ることだろう。

つまり、いかに効率的に必要な情報を身につけられるかが人間としての成長と言える。

そして人は必ず老いて行き、その能力を維持できなくなってしまう。

コンピューターに移行できれば、若くて優秀なまま存在できるが、生身の肉体にこだわるなら、限られた時間の中でどこまで知識を取り込み、結果を出せたのかに尽きる。

人生の大半を使い、身につけたとしても、それは元素を作り出すレベルとは異なる。

つまりどこかで誰かが身につけた情報を取り入れたに過ぎない。

だとするなら、人生という限られた時間の中で、前提となる情報をいかに短時間で習得できるかが問われる。

まだ肉体的にも上昇できる20代と、下降している中高年では、同じ情報に触れてもできることが変わるだろう。

「性格」は変えられるのか?

子どもの頃の性格も、社会人になる頃には随分と変化している。

もちろん一人になった時に見せる「素の部分」は変わらないかもしれないが、人の対応はパターン化できる。

職業によって知らず知らずのうちに、その職業っぽさが身につくことがある。

無意識のうちに笑顔を浮かべて、優しく口調で話しているのも、「性格」ではなく「習慣」や「学習」によって身についた行為だ。

しかし、「素の自分」を人は自分自身にも見せなくなってしまう。

24時間の中でどれくらい「素の自分」になっているだろうか。

家族に見せる、社会での顔と、考えれば、本来の自分というものが日常生活の中でも僅かな部分で、時に作り出した「自分」を好きになってくれたのが恋人ということもあり得る。

思うに「性格」さえも変える変えないではなく、別の習慣や知識によってもうその存在が定かでは無くなっている。

例えば、子どもの頃からずっと性格が変わっていない人ほど、経験を積んでもそれを知識化して利用していない可能性ものある。

最も「性格」と言っても、器用で何でもできるというタイプ、不器用で時間が掛かるタイプとで違うように思えるが、中高年と呼ばれることになると、もうそこまでにどんなに不器用でもコツコツと積み重ねていれば到達しているだろうし、器用と言われても器用貧乏のままということもある。

つまり、「性格」という違いも、30年というスパンで考えるとそう大きな差ではない。

「性格」も成長するパターンに過ぎず、それはまだ若い頃だからこそ注目するべきことで、もう中高年になるとそれさえも無効にしてしまう「今の姿」の方が意味を成している。

どんなに言われても、今さら何もできない人は、もう変化しないまま老いてしまうだろう。

また言われて変えられる人は、もう変わっているはずだ。

つまり、中高年になって「自分とは何者か?」を疑問に感じた人は、その答えが仮に見つかっても今さら何か変化が起こる訳ではない。

知識として気付けても、それを成し遂げる肉体がついて来ないからだ。

思うに「私が私である根拠」の答えは、「思い込み」だと思う。

その「思い込み」でさえ記憶力が低下すればやがて「自分とは誰なのか」も考えなくなるだろう。

芸能人の人が、本名ではなく芸名の自分として生きていくと、それはいつしか「本名の自分」よりも「芸名の自分」がより自分となってくる。

落語家の襲名のように、個々の人間ではなく「名前」が中心となって、世間で生き続けることもあるだろう。