「老い」とは何か?
脳には様々な機能が備わっている。
簡単に言えば、情報を集めて判断し、それを活かして行動を決断できる。
そのためには、足腰や指先など、行動を具現化するために働く機能も準備できていないと始まらない。
例えば、こみち家の話でいうと、こみちが休みで午前中に入浴を済ませ、バスタオルを首に掛けてリビングで父親たちと話しても、彼らの記憶に残るのは「話したこと」だったりする。
すると何が起きるのかというと、「風呂が空いたぞ!」と連絡して来るのだ。
しかも入浴したことがたまたまではなく、休みの日の習慣だとしても同じことだ。
例えば午後7時を過ぎた頃、妻とリビングに降りて行ったとする。
すると、その姿を見つける度に「ご飯できているよ」と母親が教えてくれる。
「だから降りて来たんだけどね!」と少し嫌味っぽく返事をしても、その言葉はもう聞こえていない。
「お茶淹れる?」
「お茶!」
「聞こえている? お茶飲む?」
一方的に何度も声掛けしていると、「何回も言わなくても分かっているわよ! 失礼しちゃう」といい、母親はいつも少し不機嫌だ。
そんな調子だから、例えば四人が顔を合わせた時に、叔母の件でお願いしたことを父親から自発的に話し出す気配がない。
テレビを観て一人の世界に没入している。
「お父さん、どうだったの?」
分かっていながら、わざとそんな聞き方をしてみる。
「何が?」
そう答えるまでに、数回も声掛けしているのはいつものことだ。
「何がじゃなくて、どうだったのか自分から話してよ」
「…」
「ちょっと、お父さん!!」
「今、テレビが良いところなんだよ!」
感情的になって父親が大声を出し、またしばらくみんなが待たされる。
5分、10分、20分。
「お父さん?」
「何?」
「だからどうだったの?」
「何が?」
本当に高齢者との会話とはこんな感じである。
つまり、話題の内容や手順、付け加えられた状況など、臨機応変に対応することが不得手だから、頼み事も「指定した商品を買ってくる」はできても「食器洗剤を買って来て」は思ったようにことが運ばない。
そして、父親が話してくれた内容は、前月からお願いしていた叔母の介護認定の結果がようやく出たということだった。
「書類が届くって」
「ウチに? どこに?」
「知らないよ! 相手は書類が届くって言ってただけだ!」
もうお分かりだろう。
老化現象とは、その症状の表れ方が人によっても異なるが、父親のように前頭葉の判断能力が衰えれば、「書類が届く」で次に問題となることが全くイメージできない。
もちろん、こみちが「叔母の家なの? こっちの家?」と詰め寄っても分かるはずはなく、あまりしつこく続けるとストレスが蓄積されて感情が爆発する。
だから、「書類が届く」ということが今回の事実であり、次回の連絡で「あの書類はどこに届くのでしょうか?」と質問してもらうように段取りするしかない。
正直なところ、調整役を父親や母親が担うのは厳しいと思う。
しかし、叔母の件で二人もまたどのような手順で自身が施設に入るのか知って欲しいと思っている。
もしも少しでも長く自宅での生活を続けたいなら、認知症が進行しないような暮らしを考えて欲しいのだ。
先日訪れた介護施設を両親でも見学して欲しい
実は、前日にこみち夫婦で訪れた老健が割と良いところで、叔母の入所も検討している。
流れとしては、施設見学をさせてもらって、具体的なサービスや料金、待機状況などを打ち合せしなければいけない。
いずれにしても、父親には施設を見てもらい、高齢者のケアがどのように行われているのか実際に感じても欲しい。
すると、まだ自宅で暮らせる時間をどう使うべきか父親なりに考えてくれると思うからだ。
テレビを観て過ごすことも、平穏な毎日で悪くはない。
しかし、このままADLが下がり、自宅では暮らせないとなれば施設入所が始まるし、今ある自由はどうしても制限されてしまう。
「そのまま老いてしまう暮らしで良いのか?」
そんな質問をぶつけたいのだ。
恐ろしいのは、こみちが介護士になったこともあり、どこかで自宅に居られるつもりでいる節が見え隠れする。
ヘトヘトになって「疲れたぁ〜」と仕事場から帰宅した姿を見ても、「介護が大変」とは理解できていない。
仕事が大変だとは思っていても、介護職として誰かを支えることがどれだけ気を使うものなのかをイメージできない。
してくれないと言っても良いだろう。
例えば今、ブラッとリビングに顔でも出せば「風呂の連絡分かったか?」と得意げに言うだろう。
「連絡しなくても良いし、勝手に入ってくれて構わない」
もう共同生活が始まってから何度も伝えているが、しばらくするとどこで記憶が飛んでしまうのか、またこみちの元に連絡を入れてくるのだ。
仕事で疲れていると、流石に自宅でも「介護」はキツイ。