現役介護士は「介護現場」で何を学んだのか?

誰にでも迫る「老い」を知ること

中高年になり「健康」が当たり前ではなくなったと感じる年代を迎えて、「老後」は避けることができない現実となった。

ところが「老後」を本当にイメージできたかと言えば、やはり実際に介護士としていろいろな利用者と接して分かることも多い。

こみちが勤務しているのは、一般的に利用者とより密接なケアを心がける「ユニット」と呼ばれる形式の介護現場になる。

同じ介護施設であっても、他部署に入所する場合と比較しても、「ユニット」は高い料金を支払って利用できるのが特徴なのだ。

より細やかなサービスを求めて他部署から移動する利用者もいれば、割高な料金がネックとなり他部署に移る利用者もいる。

どちらかと言うと、他部署に移動するのは稀で、ユニットが合わないと退所を選択することになるだろう。

ただ、こみちが知る限り、サービスの質が問題となるよりも「月額料金の負担」や「人生最期を見据えた施設選び」から退所に至るケースが多い。

例えば、我々中高年世代が40年間、国民年金に加入していても、その年金額だけで「ユニット」を利用するのは難しいだろう。

なぜなら、ユニット入所する利用者の多くは、会社の経営者やその配偶者などで、社会的に見ても裕福な家庭である。

先日、ユニットから他部署に移動した先輩介護士と話す機会があった。

「ユニットと何が違うんでしょう?」

こみちの質問に、「スピード」だと答えてくれた。

もう少し具体的に説明すれば、利用者の支援をする際の「声かけ」や「誘導」に要する時間が減るらしい。

つまり、ある利用者をトイレに案内する際に、「トイレに行きますか?」と言うようなアプローチもなく、必要時には速やかに案内して用を済ませるという訳だ。

そうすることで、同じ時間で2人、3人と案内できるということになる。

サービスを受ける利用者になれば、心の準備をしている時間的猶予は少なく、気づけば連れて行かれている状況だろう。

その意味では、「寄り添いある介護サービス」とは、時間的配慮に富んだケアを指している。

しかしこれはよく考えると奥が深い話で、物事の動機やきっかけを省いた行為は、時に相手を物として扱い、そして利用者自身も心に葛藤を生じるだろう。

「なぜ、食べるのか?」

「なぜ、寝ることも許されないのか?」

そんな1つひとつのことを向かい合って説明してくれるか否かは、利用者の日常生活を大きく変えることになるからだ。

場合によっては、他部署の月額料金でさえ、国民年金だけでは困難かもしれない。

つまり、老後誰かに支援を受けたいなら、どれくらい現役時代に蓄えておかなければいけないのかを知ることにもなる。

二十代や三十代の介護士を見ていると

中高年世代とは異なり、高齢者が「自身の将来」にはなっていないようだ。

もちろん、若くして感性豊かな人もいるが、「何でできないの?」と言う言葉に現れていると感じる。

こみちにすれば「こんなことができなくなってしまうのか?」と思う時にも、若い介護士の言葉には出来なくなった利用者を少し責めるような印象を受ける。

もたつくことに疑問を感じるのも分かるのだが、それこそが「老い」であり、自身の行末でもある。

老いると思考はどう変化するのか?

思考は、考慮するべき条件の多さで決まる。

一つの事柄を決定する場合、「好きか嫌い」で決めるのならとてもシンプルだろう。

しかし実際は、日程や相手、料金やタイミングなど、いろんな条件が加わり、決定を難しくさせる。

老いることで、本来ならもっと多くのことを考慮して来たはずなのに、その数が極端に減り、側から見れば「同じような話」を繰り返すようになる。

それは、あるきっかけから導かれる「結論」が限られて、話が広がらないことを意味する。

「またトイレを汚して!」

そんな話は高齢者世帯に多いが、どうすれば改善できるのかを話し合うことも段々と難しくなってしまう。

というのも、「汚れていた?」と口にし次回は注意しようと思う一方で、「注意してもできないなぁ」と本人が諦めてしまうのだ。

その諦めも年齢とは関連性がなく、70代前半で進行する人もいれば、90代後半になってもまだまだ現役と言う人もいるほどだ。

介護士として接する際も、「ワンパターン」の介護が通じないのは、相手によってアプローチが変わるからである。

何より、人は大切にされていることを実感したい生き物で、かなりのことができなくなっていても、「一方的な支援」には拒絶感生じやすい。

何度も何度も介護士を呼ぶ利用者がいるが、「また何ですか?」と言う返事を期待しているのではなく、「どうしましたか?」と自分のために駆けつけてくれることを実感したいのだ。

その意味では、他部署にいる利用者を見ると、ユニットの利用者に比べて笑顔が少ない。

介護士と談話している姿も見ないし、介護士も仕事に追われている印象を受ける。

「すいません。お願いします」と言い出し難いのだろう。

生きるうえで必要なことはカバーされていても、他人から認められない状況が続けば人は自身を失い、自己を尊重しなくなる。

休日明け、ユニットの利用者の表情が一変して驚くこともあるが、それだけ「自分らしさ」を叶えるのは人間らしさを保つうえでも欠かせないことなのだ。

実際に介護士となってみて

中高年の仕事選びという観点では、介護士と言う仕事はオススメだ。

と言うのも、介護士って自分にもできるかなぁと考えている人は、きっと他の仕事も検討したはずだろう。

もっと手前の話をすれば、中高年こそ「スキル」を活かせる仕事選びが必要だ。

介護士の仕事は肉体的にも精神的にも負担が多いから、この仕事が十分にできる人なら他の仕事だってできるはずだからである。

つまり、すぐにも働き始めたい人や、なかなか採用されない人が、介護士を目指すのなら是非とも応援したい。

こみちのような不器用でも、一応は仕事が続いているからだ。

しかし、ある程度仕事が分かって来ると、他人のカバーが増えて、仕事ぶりを評価してもらえない。

昇給面では不満も出てしまうだろう。

これは、5年後、10年後を見据えた時に、キャリア形成に反映されないことにも繋がる。

初心者のうちは、経験させてもらえるだけでもありがたいのだが、一人前になり仕事や責任は増えてもベースアップしないのではモチベーションに繋がらない。

むしろ、この先も体力が続くだろうかと心配になる。

だとしたら、今の段階からスキルを身につけて、それを活かしながら稼げる仕事を見つけるべきだ。

その意味では、介護士は誰にでもオススメできるとは言えない。

特に独立心や夢がある人は、どっぷりと介護だけに浸かってしまうのは危険だろう。

採用されやすい特徴を活かして、当面の生活資金を稼ぎながら、落ち着いて来た時期には何か始めるべきだ。

こみちの場合はブログやYouTubeになるが、その根底には文章やイラスト、カメラなどを続けて行きたいからでもある。

ただ、過去の経験を披露するだけでは成功は難しく、「そこからの一歩」が求められる。

介護士をしていれば、3ヶ月もあればオムツ交換などできるようになるだろう。

しかし、利用者にとって負担の少ない技術や、より衛生的なサービスとなれば、経験が求められる。

その意味では、介護士にありがちな仕事真似るのは簡単で、そこから一歩を踏み出すことが課題なのだ。

よく考えれば、どんな業界に入っても、同じような「壁」に突き当たり、そこを越えるには誰もが悩む。

いつ悩むかが異なるだけで、こみちにすれば体力も気力もある「今」の方がいいと思う。

しかし、事情はそれぞれだから、「一歩」をどこに設定するのかはお任せしたい。

介護士と言う仕事は、他業種を経験しておいた方がいい。

逆に介護士から異業種に移った人が、なかなか介護に戻らないのは、それだけ異業種の方が限られた範囲で評価され、将来の見通しが立つからだろう。

医療から経営、つまり心理学やマネジメントまで、介護士は知っていた方がいい。

しかし、そこまでの知識を得ても、それだけでは報酬として評価されない。

これまでの人生経験を期待された我々中高年にも門を開いてくれるのは、介護がそれだけ幅広い経験に基づくからだろう。

とは言え、これまでのキャリアで稼げるなら、いろいろ考えてみることが大切だ。

現役介護士として、こみちが言えるのはここまでである。

実際、こみちは別の道模索しているし、介護の在り方にも関心がある。

そうする野原、それだけ介護が奥深く、簡単ではないからだ。

知る意味は大いにあると思うが、それだけを知っても意味は少ない。

むしろ、介護の背景にあるものを辿り、その先の一歩に踏み出すことが求められる。