整理整頓の必要性

プロローグ


貴方は、整理整頓をしているだろうか?

整理整頓と聞くと、物を片付けることを想像した人も多いだろう。

それは間違いではないし、そんな風に捉えることも重要だ。

しかし、ここでいう「整理整頓」とは、次のステップに進むための「準備」をも意味する。

ある高齢者との会話で、「先生は何と言っていたの?」と尋ねると、「詳しい病名まで覚えていない! とにかく全身が痛くて、何もできないんだ!」と答える。

「病名が分からないのに、どうすればいいの?」

「だって痛いんだ。動きたくない!」

そう、会話がループした状態に陥っている。

「〇〇病院なら、リウマチの専門医がいるみたい。今度、そこに行ってみたら?」

「だから、リウマチじゃないと言っているだろう! こっちは体が痛いんだ!!」

ふて寝でもするかのように、高齢者がその場を去ってしまう。

もしも、状況を打開したいなら、診察した病院に電話でも掛けて病名を確認するべきだし、その掛かり付け医で対応できないなら、専門医がいる病院を探さなければ前に進まない。

または、動きたくないという理由にしたいのなら、そのまま放置しておくか、どこがどんな風に痛いのか、どんな動きならできそうなのかを確認してもいいだろう。

この状況も「整理整頓」すると解決できる。

ところが、最終的な目標が曖昧になるので、関わった人も何をすれば良いのか分からずに、高齢者に働きかけしないことになる。

高齢者が、自身の現状を正確に理解していたり、デメリットやアクシデントを受け入れるつもりなら、問題はそれほど難しいはない。

しかし、高齢者が放置したことで心身機能が低下すれば、結果的に周囲も困ることになる。

美大を出ても「絵」で食べられない現実


これは昔から耳にしたことがある話だ。

絵を学んでも、それだけで食べて行くことは難しい。

それは小説家にも言えることだ。

例えば企画書を書くとき、初心者は書き方のイロハを調べる。

そして、企画書を立てる目的を決めるように教えられるだろう。

その理由はとても簡単なことで、「目的」を決めなければ進めないからだ。

そのためには、「目的」を最初に提示して、その理由を紹介していくテクニックも見つけるだろう。

改めて、「美大」を出ても「絵」で食べていけないのはどうしてだろうか。

美大生というと、デッサンというイメージがある。

白い無機質なモチーフを鉛筆などで絵にする作業だ。

何度も何度も練習して、描けるようにするのだ。

そこまでの努力は大したものだと思う。

しかし、今どき、スマホを使えば「1秒」で出来上がる。

写真と絵の違いを、一般人はどれだけ意味深く捉えるだろうか。

冷凍食品がレンジで温めるだけで美味しいように、技術の進歩によって「こだわり」も見直す時期が来る。

料理人であれば、レンジ調理では補えない部分を磨き上げる意識が必要だ。

そして、レンジ調理とは何かこそが、「整理整頓」なのである。

巷で、写真と見間違える精度で書かれた絵を見かける。

本当に上手に描くなぁと感心する一方で、そこからどう表現するのかみたい気もする。

「1秒」できることを、「手作業」でしているという価値観にどれだけ大きな意味を持たせられるだろうか。

まるで建造物が出来上がるように、美しく描かれていく工程は、絵画でも眺めていて楽しい。

しかし、それは「絵」の魅力ではなく、「映像」や「エンターテインメント」なのだ。

美大でどんなことを学ぶのかは知らないけれど、もしもせっかく「絵」を学んだのにその道のプロになれないなら、「整理整頓」をしてみると良いだろう。

例えば、建築を志した若者が100人集まっても、建築家として生きていけるのは数名だ。

残りの人は、構造計算のプロや営業のプロなど、建築に関わる別の分野で自身の強みを生かして行く。

ある意味で、それが大学での「整理整頓」だろう。

中高年からの「整理整頓」


もしかすると、何もしなくても成功者になれるかもしれない。

ちょっとした努力や発想だけで、面白いように儲かることがあるかもしれない。

もちろん何事も「0」ではないから、全否定されるべきではない。

しかし、ロスのある選択肢を選ぶ以上は、そのリスクについても納得しておくべきだ。

若い頃からキャリアを磨いて来た同年代が悠々自適に暮らしていたとしても、同じように努力したり何かに熱中していなかったのだから、今の結果も致し方ないだろう。

でもそれで終わりではなくて、今気づいたのなら、これから何をすれば良いのかを考えるべきだ。

先にもある高齢者のエピソードを紹介したけれど、「からだが痛い」という結果は一つの答えであって、それとは別にどうしたいのかを考える必要がある。

気を付けたいのは、「資格取得」を目指す時にも「整理整頓」が欠かせないこと。

難関資格を取りさえすれば、未来が輝くと信じてしまうと、心の隙間にできた「…はずなのに」という弱さを見抜かれてしまう。

「頑張ったのだから」ということが目的になってしまったら、結果が出ないことに不満も募るだろう。

本来なら、その資格でどんなことができるかを「整理整頓」するべきなのだ。

しかし、慣れとは怖いもので、淡々と繰り返すことにが心地よくなると、結果の伴わないことに意義を見出したくなる。

介護業界では


個々の利用者に100%の満足を提供するには、相当の支援が必要になる。

一方で、最小限の支援だけでは、事務的になってしまうだろう。

人に親切にすることは良いことだけど、それを全うさせるために自身が壊れてしまっては意味がない。

どこまで努力し、どこからは諦めてもらう。

そんな線引きも介護では必要になる。

高い理想を掲げても、それを日頃の介護で補えないなら、継続可能な支援を探すべきだ。

介護職を長く続けるためにも、仕事の取り組み方や「副業」という保険も考えておきたい。

介護が楽しいからと言って、毎日の業務だけに追われてしまうと、場合によっては「介護職って何だろう?」と疑問を感じるからだ。