絶望する前に在宅介護で考えること

 ミニトマトの話から

最近、母親の買い物はとても変です。

こみちがミニトマトを買って来た日、その夕方に母親もミニトマトを買って来ました。

まぁそれはタイミングもあったはずで、仕方がないでしょう。

問題はここからで、翌日にもミニトマトを買って来たんです。

実はこれ、ミニトマトだけの話ではなく、時に牛乳やシメジ、ピーマンなどなど、同じ物が二度三度と繰り返されます。

そして、今朝、家族分の朝食を作っていて思ったのが、そのトマトを両親が自分たち用に皿に入れて食べていたのですが、「ヘタ」を取っていなかったんです。

もちろん、食べる時に外せばいいのですが、一般的ヘタ周辺をよく洗って食べると思うので、食べる時に外すだけでは気になります。

こみちが朝食用として使う時、洗うのはもちろんですが、時に気になれば包丁でヘタ周辺の窪みを切り取ったりします。

農薬の残りやすい部分とも聞くので、少しでも健康になるなら、ひと手間掛けたいからです。

母親がヘタ周辺のことを知らないとは思えません。

むしろ、知っていてもしないことに不安を感じます。

正直に言えば、「洗って食べているのか?」と。

まぁ洗わずに食べてもすぐに健康被害が出るとも思いませんが、それはトマトのことだけではなく、例えば母親が完全に家にいる生活になった時に、昔のイメージほど家事ができるのだろうかとも思ってしまいます。

と言うのも、まともに料理を作らなくなったので、冷凍の炒飯をフライパンで炒めるくらいはできても、白米を使って自家製炒飯を作ることはもうできないからです。

言ってしまえば、魚を焼くことも煮ることもスキルとしてはできなくないでしょうが、手間として掛けられるのかというとかなり最近の様子を見る限り怪しく感じます。

本音を言えば、家事全てをこみちが担当した方がずっとやり易く、部分的に母親に期待すると時間的にもやりづらくなるのが見えています。

父親はいろいろ口を挟んできますが、結局は何もできない人。

母親はいろいろとしてくれるのですが、よく見ると不完全なことも多く、できないことをそのまま放置していることも少なくありません。

こみち自身を考えた時に、フルタイムで働く不安もありますが、そうなったら誰が食事や掃除、洗濯、買い物をするのでしょうか。

かと言って、それらをこみちがこなせたとしても、ずっと両親が生きている限り続けることはあまりにデメリットがあり過ぎるます。

ただ生きるためにこみち自身も老いていく。

その後、二人が居なくなって、例えば妻が居たとしても、こみちたち二人で老いが迫る暮らしを続けなければいけません。

その時に両親の介護だけを考えて今を生きるのはかなりその後の人生を苦しくさせます。

昨日の晩、こみちが家族分の洗い物をしていた時に、石油ファンヒーターの継続を促すチャイムが鳴りました。

大体そのタイミングでファンヒーターを使うのはやめて、エアコンの暖房に切り替えるのですが、それは父親だけがリビングでテレビを観ることになり、火事の予防もあってのことです。

だから、洗い物を止めずに、そのままファンヒーターが自動で消えるのを望んでいたんです。

「チッ!」

そう言ったのは父親でした。

でもこみちはもうそれに反応せずに洗い物を続けます。

寝転んでいた父親が継続のボタンを押したのですが、ただ何も考えずテレビを見ているだけの人のために、「押すね!」とはならないでしょう。

しかもエアコンに切り替えることにもなっているので。

つまり、「チッ!」と舌打ちするのは、それくらいしてくれたら良いのにという気持ちだと思います。

でも、その些細なことが生きていると無数にあるので、一個は些細でも「処理」して行くことがやはり負担なのです。

父親にとっては「継続ボタンを押す」それだけが今の生活の心配ごと。

でも他の家族は迫り来る老いに意気消沈しているのです。

その隔たりにももう父親は理解ができないくらいなので、そんな父親に家族が合わせ続けるのは無理があります。

今の暮らしをどう続けるかではなく、どう生き続けられる暮らしを見つかられるかなのです。