結局、「逃げる」を選ぶ父親の行動

 家族で決めた「役割」

こみち家には、均等では無いものの、それぞれに役割を決めました。

こみちは朝晩の食事、食材の買い物、洗濯、掃除などです。

ざっくり、1日の家事労働は食器洗いなども含めて3時間くらいです。

一方、父親の役割は、ご飯の釜を洗うこと。

本当は洗った後に、お米も研いで欲しいのですが、それは覚えてくれません。

そして、頭が痛くとか、体調が悪い時は、当然のように役割を放棄します。

最初は申し訳なさそうな態度も見せていましたが、今は起きていてもしなくなりました。

興味深いのは、何もしないということではなく、気分次第でお湯を沸かしたり、爪楊枝ケースに補充したり、自分でしたいと思ったことは昔と変わらずにできます。

しかし、相手や今後を考えて何をするべきかという想像が苦手なのか、割と簡単に放棄したり、逃げてしまいます。

妻との雑談で、発達障害の話題をしていた時、もしかしたら父親の耳にも届いていないかと思ったことがありました。

自分目線ではできるのに、他人目線では行動できない…。

実際、父親の行動で、特徴的なのは、その行為の結果に必ず父親のメリットが含まれていること。

つまり、洗いものをした時も、みなさんに何かした時も、褒められるとか、できて嬉しいと思う状況が必要です。

知らぬ間に済ませてしまうということができないので、誰かがいて「凄いね!」と寄り添いがないと一人で完結できません。

昔、車で灯油を買ってくれていた頃、買って来たら「灯油、買って来たぞ!」と必ず家族の誰かに報告していました。

その時は特に何も考えず、「ありがとう」と答えていたのですが、「凄く頑張った」を認めて欲しい人だったみたいです。

なので、家事分担として当たり前になって行為を淡々と果たすことができません。

マイナスと「0」にする行動が苦手で、不利になると逃げ出します。

時々、こみちが父親の役割だった釜洗いをしていて、テレビをずっと寝転んで観ている父親に「釜くらい洗えないの?」と問いただしたくなります。

でも、それが父親で、そうやってずっと生きて来たんだと思うのです。

例えば、「お前だってご飯食べるんだろ! 釜くらい洗えよ!」と怒鳴ったとしても、父親はきっと萎縮するか、逃げ出すか、恨むかしかありません。

頑張ろうとか、そうだよなという発想にはならないのです。

それは、「なぜしなければいけないのか?」の答えを知らないからです。

なので、父親がこみちに「しなさい」とは言いません。

あくまでも、「おい、出掛けるぞ!」と家族に伝えるだけでした。

子どもの頃にこみちが「行かない」と答えたら、多分、怒ることもせずに父親だけで出掛けてしまったでしょう。

そこに母親がいて、「行きましょう」と父親の行動に従うようなサポートをしていたでしょう。

食材置き場に、焼き肉のタレが新しく買ってありました。

買って来たのは母親ですが、その前日に全く同じものをこみちが買っていたのです。

たまたま偶然ではなく、「何か不足しているものは…」と母親も食材置き場を見たのでしょう。

そして「焼肉のタレ」を視界に入れて、それが「あったのかなかったのか」そんな感じでスーパーの売り場で「そう言えば焼肉のタレ」と思い出すのです。

カレー粉も3箱あって、粉末の出汁も2箱あります。

こみちが買って来ると、翌日にまた追加されていることが多いのです。

一方で、母親にお願いしている朝食用のカット野菜、2日続けて買って来ませんでした。

食べているのは両親だけなのですが、作って欲しいというリクエストの割に買って来ません。

なので、ポテトサラダを朝から作ることになって、ちょっと面倒に思いました。

ウインナーを焼いて、卵焼きを二切れずつ添えて、両親のおかずです。

買って欲しいものは買って来ないで、既にあるものをまた買ってしまう。

行動力がある母親ですが、最近は何をするべきかが分からないようで、同じことを何度も繰り返してしまいます。

「メモをしな!」と言うこともやめました。

母親にはできないからです。

そして、また同じ物を買ってしまう。

記憶力の低下は老いとも関係ありそうですが、父親同様に方法を変えられない母親も、どこか似ているように思います。

そして、そんな両親なので、こみちも似たような部分を受け継いでいるのでしょう。

上手く行かないと言いながら、同じミスを続けているのは、親子で同じということのようです。