結局、介護って何?

 改めて思う「介護」という課題

叔母の件で、家族会議を開きましたが、結局のところ父親は自分から判断し行動することができません。

今朝も廊下で倒れてしまったのですが、昼ごろにはいつもの病院へ行き、食事もしっかりと摂って、風呂にも入れています。

家族としては、妹である叔母のことをどうするのか、どうしたいのか、そのためにどこまで今の生活を変えることができるのかと父親に対して思うのですが、昨日は「オレがどうにかする!」と言ったものの、1時間もすれば「明日は病院だった」と自分の予定を思い出して叔母のために何かすることも諦めてしまいます。

妻は、あまり意見しませんが、これまで夫婦で貯めてきたお金を出すつもりらしく、それが100万円だとしても、仕方ないと思っているようです。

しかし、既に父親自身も介護される立場に思えるので、叔母のために返済が見込めない出資には二の足を踏んでしまうこみちがいて、しかも夫婦で計画している事業がまた一年、二年と遅れてしまうのも懸念されます。

良い人であろうとすると、本当に自分の資材を投げ出すしかありませんし、それが誰かを介護するという意味なら、個人が個人を支えるのは限界や線引きが必要です。

そうでないと、妻はコツコツと貯めたお金を叔母に使うでしょうし、さらに父親にも出すでしょう。

しかしながら、父親は仕事を辞めてもう十年以上働いていませんし、年金だって十分な金額ではないので、施設入所も金額的に支援がないと難しいのは明らかです。

そうなれば、入所から毎月5万とか10万円を支出し続けることになるでしょうし、母親まで施設となれば、こみち夫婦の未来は3人の介護で終わってしまうでしょう。

だからこそ、正直なところ叔母に関してはできる範囲では支援しても、父親が動けないならそれはこみち夫婦で支える問題と考えるべきではないとしてもやむを得ないはなしです。

また明日、叔母の家に行き、先日の水漏れの件に加えて、禁止されている石油ストーブの使用を止めさせなければいけなくて、本来なら父親に説得して欲しい状況でも足が悪くて動けないと言うので、どうしたものかと思いながらもこみちが説得に向かいます。

多分、父親はもう自分のことだけで精一杯で、母親の苦労や労りを促しても状況を理解できていない可能性があるほど、反応に微妙なところが見られます。

もしも、父親を在宅介護として扱うなら、叔母の件は少し距離を置かせて欲しいのが本音なのですが、妻はそれこそ「男前」で、自身の苦労を選んでしまうみたいです。

こみち自身も介護士で十分に稼げているとは言えませんし、サラリーマン時代の半分とかになっているので、本当ならもっといろんなことに挑戦したいですし、そのためにお金を使いたいです。

考えると、貯めた事業資金だけでなく、将来の生活費についても支出しかねない妻に、介護とは何かを上手く説明することができません。

誰かの助けになりたいけれど、自身の苦労を選んで生きる覚悟までできるのかは別問題で、どこまで負担することが介護なのか、家族という意識や扶助の気持ちをどこまで感じるべきかは本当に難しい気がします。