介護士の仕事
介護士の仕事は、60代を超えた高齢者との向き合いから始まる。
実際に介護士の仕事を始めて、たまたま街中で歩く高齢者を見ると、「元気で何より」と微笑ましく思う。
当たり前の話だが、全ての家庭が幸福ではなく、また個々には様々な問題やトラブルを抱えてながら今を生きている。
それは他人が想像するよりも意外なもので、「まさか本当に!?」と思うようなことがあったりするから話は難しい。
例えば、それら全てが100だとして、介護士が関わることができることは10〜30くらいではないかと思う。
残りは、介護士にも想像できないことで、利用者自身が胸に秘めたことだろう。
こみちは学生時代に、医学部進学を目指すクラスメートをどこか不思議に思っていた。
なぜなら、「命」や「健康」を守ることを仕事する自信など持てなかったからだ。
当時からこみちはその地に深く根をおろして生きることを恐れていて、だからこそ田舎を出て都会暮らしに憧れた。
でも、中高年になり、またこうして人の命や健康に関わる仕事をして、当時から恐れていた、疑問に思っていたことが、すべて介護士としての「壁」として現れた。
コロナ禍対策として始まったワクチン接種。
少なくとも、感染予防策としての期待は相当なものだ。
しかし接種に向けて気になることもある。
十分な検体が行われていない緊急事態もあって、例えば施設を利用している世間との接触が極めて限られた高齢者に、ワクチン接種は必要なのだろうか。
有効な手段という意味では、接種に期待もある。
一方で、ワクチン接種後の僅かな異変が確認できないわけでもない。
因果関係を検証する立場にいないから、不用意な発言は控えるが、それでも一定割合で利用者の体調不良は起きているように思う。
もしも、接種が原因でその寿命が尽きてしまったら。
大きなリスクを回避するということは、それだけ注意も必要になる。
ワクチン接種を唯一の解決策とする前に、ワクチン接種に耐えうる健康状態の指針は作れなかったのだろうか。
「先ずは打ってみる」それによって、健康を崩した時、高齢の利用者はとても脆い存在だ。
ワクチン接種をしなければ…。
認知症の利用者が、ワクチン接種時に大暴れをして、結果的に接種が中断された。
でも、接種を受け入れるまでのプロセスとして、我々を含む多くの人は、「ワクチン接種」を受け入れるべきものと理解している。
でも、その根拠はどこになるのか。
もしも、接種後に急変した場合には、因果関係を医療機関で調査し、その結果によっては国からの給付金を受けられるようにする必要はないのだろうか。
たまたま、大半の人には大きな問題にはならなかったのかもしれないが、だから万が一の対策が無くてもいいことにはならない。
何より、ワクチンとの因果関係どころか、老衰として処理されてしまったら、利用者もその家族も施設を相手に裁判を起こすこともしないだろう。
異変を確認し、最期を迎えるまでの期間中の対応に問題はなかったのだろうか。
未知の経験を理由に、正当な対応だったと結論づけることもあるだろう。
しかし、自身の未熟さに疑問を持つこともない医療従事者ほど怖い存在はない。
介護士になって、限界値を強く理解する。
一方で、医師ならどうしただろうかという想像もする。
急変した利用者を数日間も様子観察にしてしまうだろうか。
その時点で、医療従事者としては疑問が残る。
もしも医師になれば、そんな過ちを指摘し、速やかに信頼できる医療施設で診察してもらえるなら、医師であることの意味は大きい。
コロナ禍になり、人が生きるということを考える機会も増え、悔いの残らない介護を行うには、介護士の知識や経験だけではどうしても不足してしまう。
かと言って、ミスや間違いを見抜くこともできずに、何かおかしいことが起こって人が寿命を尽きて行く姿に触れると、自身の未熟さや医療、介護などの業界で働く重みにも苦しむ。
どこか他人に無頓着な態度を取る介護士や看護師を見るたび、こみちは介護士として働くことに本当の辛さに直面する。
みなさんはどうだろうか。
なかなか奥が深いテーマだと思う。