仕事ではなくボランティアでいい!?
その原因はどこにあるのだろう。
こみちが過去に感じていた「介護」の根本は、触れ合いにあった。
昔から、いやもっと子ども時代は、いろんな人と仲良くなれることが多かった。
それは人気者と言うことではなく、悩んでいる人や困っている人から「助けて」といってもらいやい雰囲気だったのだろう。
しかしいつからか、彼らだけでなくもっと別の人に対しても拒絶反応が強くなり、こうして欲しいのだろう」と感じることを避けてしまうようになっていた。
介護の仕事を始める時、一番に思ったのは「できない」だった。
現場の具体的な仕事をイメージしてと言うよりも、「人に優しくする」ことは容易ではなく、それを仕事にして自分に務まるのかと思ったからだ。
介護の仕事をして、例えば「在宅復帰」と言う目的に向かって支援するのはアリでも、「家族との事情で自宅には戻れない」と分かった利用者の生活支援を「老健」が担うのはどこか腑に落ちない。
確かに、人がひとり自宅に戻った時の家族の負担は、「1」ではなく「1000」や「1万」くらいになることもある。
「家族なのだから」「自分の親でしょう」だけでは支えきれない感情も理解できる。
もしも、そんなしがらみを支えるのが介護士なら、それには納得できる。
しかしイメージとしては「特養」や「有料」を職場に選んだ時ではないかと言うのがホンネだ。
老人介護であっても、老健はリハビリや医療的ケアを通じて在宅復帰を支援するのが目的だと信じたい。
でも、実際にはそんなケースは数えるほどに過ぎず、大半は介護方針とは無縁なルーティーンになっている。
困った利用者を見ても、すぐに駆けつけない姿を目の当たりにして、そんなために「介護士」をするのかと思うと、仕事のやる気が失せてしまう。
正直なところ、介護士の現場仕事に興味は感じていない。
報酬と言う意味で反映される可能性は薄いし、そもそも人材が集まらないから改善策も限られている。
見ていてそこに気持ちを注ぐくらいなら、別の場所にと思ってしまうのだ。
ただ、利用者との触れ合いが嫌いになったのではない。
だからタイムスケジュールに追われた介護士ではなく、ボランティアとして関わるくらいが理想なのかもしれない。
しかし今はコロナ禍もあって、行動が制限されることも少なくない。
その意味では、葛藤しつつも介護士を続けるしかないのかもと感じる。
もっとこうしたいと思うことはあるのに、でもそれをしないから、自分自身も行き場を失っているのだろう。
介護士はたくさんの経験ができる。
老いてどうなるのかを知ることは大切だ。
でも仕事として考えると、そこには拭えない矛盾もある。
介護に対する志を話そうとする人も少ないが、そのために何か一歩を踏み出せる人はもっと少ない。
介護がビジネスのセオリーとは相反していて、介護報酬からの収益に依存してしまうのは無理もない。
どうしても、目の前にある範囲で済ませるしかないから、どんなに焦ったくても変えられないもどかしさがつきまとう。