自分らしく働くには?

最近の介護現場では


今日、合同ミーティングがありました。

こみちの所属部署だけでなく、他部署からも集まる大掛かりな会議です。

施設長の挨拶で始まり、看護部長や介護現場の各リーダーまで、組織の要となる役職者が、問題点や改善点を報告するものです。

「利用者に寄り添った介護サービスを目指す!」

未だに、こんな抽象的なテーマを掲げる人もいます。

実は今日の介護現場で、新しい入所者がみえました。

午後、排せつ介助を行う時間帯となっても、誰も利用者の元に向かおうとしません。

というのも、フェイスシートなどである程度の情報を受け取っていても、実際とは異なることも珍しくないのです。

立てないと思っていたら「歩けた」と言うことも、無いとは言えないほどです。

まして、初の介助は、介護士もいろいろ不安があります。

スキル的なこともそうですが、利用者の性格や態度に困ってしまうことも起こり得るからです。

そうだとしても、最初から足を運ばない姿勢はどうかと思います。

なぜなら、肝心な時には顔を出さないのに、何でもない仕事を2人3人で行っていることもあるからです。

中高年の皆さんはどう思いますか?

新人介護士の一人が、雑務には目も向けず、打ち合わせや手順の確認には参加するのです。

こみちは何をしているかと言うと、先輩達が残した仕事をこなしています。

「キミはこっちの仕事でしょう!?」

確かに利用者に関する情報などは、知っていて損はありません。

逆を言えば、その情報を活かして仕事をするべきです。

しかし、組織としてフォーメーションが確立していない場合、方針を決める先輩たちが情報を精査し、我々のような後輩は指示を仰ぎながら動くしかありません。

これを、こみちまで方針に顔を突っ込んだら、「じゃあ、キミが責任を持ってまとめて欲しい!」となるでしょう。

つまり、情報を得て指揮をとるとは、最終的な責任まで背負うことを意味します。

正社員がアルバイトやパートと異なるのは、仕事ができるとかできないではなく、「責任」を持って最後までやり切れるのかではないでしょうか。

時間が来たら仕事を終えるアルバイトやパートに、求人出勤をお願いしても、断られるかもしれません。

逆に正社員なら、そこは組織のためにも精一杯頑張るでしょう。

ある意味、その新人介護士が後輩でも常勤スタッフなら分かります。

しかし、パートスタッフということを踏まえれば、ミーティングや打ち合わせに参加することよりも、現場の仕事をしっかりとこなすことに意識を向けて欲しいのです。

もちろん、アンテナを張ることも大切なので、そこはうまく「どうなったんですか?」と結果だけを拾いあげればいいはずです。

こみちたちが分担して現場仕事をしている中で、先輩達に混じって新人介護士も加わっているという状況が、段々と日常化しています。

「それはコレでお願いします!」


一瞬、耳を疑いました。

この頃、新人介護士が「ありがとうございます。助かります」と言うのです。

こみちが利用者の介助を終えてステーションに戻る時に、すれ違い様のひと言として。

年齢的なギャップと思えば、特に気にもしませんが、それでも「ン?」となるわけです。

さらに、「コレでお願いします」とまで言われると、どっちが先輩なのかと悩むのです。

ここで言う先輩と後輩の分類は、「責任の所在」を明確にするためです。

こみちとしては、誰かに指示する以上は、その責任まで自分が取る覚悟が伴います。

きっとサラリーマン時代、正社員として派遣スタッフに指示する時は、その責任まで自分が持つしかありません。

「あのスタッフが間違えたから…」

そんな説明は時間的にも不要で、指示した人がどうしてしっかりとフォローしなかったのかが問われるからです。

だから、こみちが介護士として働き出した時も、先輩の作業に指摘を加えてことはありません。

なぜなら、それで今まで回っていたのですし、今の段階ではそれがスタンダードだからです。

こみちが現場を仕切る立場になった時に、やり方や手順を見直せばいいのです。

ところが、新人介護士は、そこを何段階も飛び越えて、側から見れば対等どころか逆転しているように見えるでしょう。

もしもそれだけの覚悟があるなら、いろいろな場面でも先頭切って動いて欲しいのです。

いざとなるとそっぽを向いて、都合の良い時だけしゃしゃり出る行動に、ちょっと煩わしさや面倒くささを感じます。

しなければいけないことはもう十分に理解できているのだから、それを先ずこみちや新人介護士は片付けていけばいいのです。

時には、先輩たちのミーティングも、「今そんなに長くしないといけませんか?」と感じることもあります。

しかしそこは、先輩後輩の関係なので仕方ないでしょう。

こみちのサラリーマン時代、「実力主義」を掲げる会社だったので、自分で企画して仕事をまとめれば、先輩も後輩も関係ありませんでした。

スキルや経験、知恵を授かりたい時に、先輩たちに話を持ちかける感じです。

昼休みの休憩も自由でしたし、出勤時間もあって無いようなものでした。

というのも、自分が抱える仕事によっては、朝から出先に直行することも多かったからです。

「仕事を責任持ってやり切ること」が、自由に働くことの必須条件でした。

ある意味、今の介護施設で、こみちが先頭切って動くことはありません。

どちらかといえば、指示を受けてやり切るのがスタイルです。

でもそれは、「長く安定して働ける“介護士”と言う仕事を覚えるため」だからです。

介護施設が抱える様々な問題に一手を打ちたいわけではありません。

介護保険制度の特性を考慮すれば、介護サービスの質を向上したくても人件費を増やすことは難しいでしょう。

つまり、個々の介護士に支払う報酬を増やすには、より効率的な働き方でなければ成立しません。

そこは「寄り添い」ではないのです。

だからこそ、「利用者への寄り添い」と言う課題で、介護現場が良くなるとは思えません。

本来、利用者が求めるのは「個としての承認欲求」でしょう。

それは作業では補えず、話をして築けるものなのです。

言い換えれば、時間を掛けないと生まれないもので、介護士としての理想的な働き方とは矛盾します。

だからこそ、介護士の報酬を簡単に2倍にはできません。

そこは、結果で評価されるサラリーマンとは異なる部分です。

この頃、介護士と言う働き方にちょっと飽きて来たのかもしれません。

頑張り所も無いですし、達成感も薄れているからです。

もちろん、利用者との関係には心癒されます。

それが無ければ、介護士のして働いていないほどです。

何のために生きているのか?


ある利用者から言われました。

施設で暮らしていれば、三食決まって食べられます。

しかし、自分の時間も限られていますし、趣味に没頭できるような環境は難しいでしょう。

そこは老健と有料老人ホームとでは異なるかもしれません。

真面目な話として、利用者の中には自宅復帰が困難な方もいます。

身体的なことではなく、家族が受け取らないと言うケースです。

リハビリをしてどんなに回復しても、そもそも自宅に帰れるわけではなく、例えば特養などに移れるまでの待機だったりするわけです。

「何で生きているの?」

答えに詰まります。

「楽しいことだけ考えたら?」

それがこみちの精一杯の答えでした。

すると、その方はお好きな歌を歌い出し、微笑んでくれました。

利用者自身も自分の立場を理解しています。

でもそんな顔は見せないようにしているのです。

逆を言えば、自宅復帰が可能な利用者で、リハビリを頑張っている人は幸せでしょう。

目標もありますし、達成感もあるからです。

それだけ、人の生きる意味を掘り下げるのは簡単ではありません。

介護士として背負うものの大きさと、仕事での見返りがとてもアンバランスです。

しかし、介護士の中には、いろいろ考えの人がいます。

きっとこみちとは異なる考え方なのでしょう。

最近、こみちは淡々と仕事をしています。

それが、介護士の仕事だと感じるからです。