「論破」では解決しないこと
中高年と呼ばれる年代まで生きていると、時に「何それ?」と思ってしまうような状況や行動に遭遇します。
とは言え、そんな状況も何らかの目的や意図があって、そうなってしまったのでしょう。
それこそ先を見通せる人なら、時に無理をしてでも停滞している現状を打破するために踏ん張ります。
しかし、先が見えなければ、行き詰まっていることにも気づきませんし、頑張れと言われても何をどう頑張ればいいのかさえ分からないのです。
つまり、先を見通せる人ほど「何それ?」に遭遇するのですが、「そう思うこと」だけでは何も解決しないことをもう一度考え直すべきです。
誰に何を伝えれば、協力してもらえるのか。
協力は難しくとも、一部分でも手伝ってもらえたら助かります。
「苦しい状況でも踏ん張れる」というのは、とても貴重な能力で、普通は「楽」なところにしか人は集まって来ません。
なぜなら、見ている景色がそれだけ違うからです。
でもそこを批判したり、愚痴ったりしても、相手は当分変わることはないので、自分が変わって行くしかありません。
こみち家の父親も、本当に全く手伝ってくれません。
三度の食事も、用意されてもらうのが当たり前になっています。
「自分の食器を洗っている」分だけ、家事手伝いに貢献しているという認識でしょう。
「仕事をしていないのだから、作って当たり前だよ」と言ったところで、料理の基本も知らないので、ある意味、何かしてもらうなら「料理とは何か?」から時間と手間を掛けて知ってもらう必要があります。
そこに3か月、半年と使って、さらに洗濯も同様に同じだけ時間を掛ける。
ある意味、それが十代までに学ぶべき「教育」の大きな目的だったはずです。
「何かを記憶している」ということではなく、「学ぶ方法」を身につけるために。
言われないとできない人は、時に不思議に思える行動をします。
でも、だからダメではありません。
それが「世の常」だからです。
言い換えれば、これから何か一歩を踏み出そうとする場合に、正論だけで進んでも評価にはつながりません。
評価されたいなら、目の前の人に信頼される行動を選択するべきです。
なぜなら、彼らに信頼されることができたら、手伝ってもらえますし、協力してくれます。
そして、それが「評価」となるからです。