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生焼けピーマンが食卓に出た話

 ピーマンの美味しさは苦味とエグ味?

料理が上手いか下手かは、音痴の話に似ているかもしれません。

音痴にもタイプがあるそうで、出すべき音程を聞き分けられないタイプとその音を出せないタイプです。

つまり、そもそもしなければいけないことを知らない人は、それをすることができません。

そして結果を知っていても、その方法を知らなければその結果に到達できないでしょう。

生焼けのピーマンと炒めたベーコンが和えられて食卓に出て来ました。

母親が作ってくれたものですが、しっかりと焼けたベーコンに対してピーマンは生焼けです。

思うにベーコンから先に焼き始め、後からピーマンを加えたことで、そんな仕上がりになってしまったのでしょう。

例えば、焼きむらができた時に、ベーコンを一度皿に取り分け、ピーマンを焼いても良かったでしょう。

レンチンしたり油多めで焼いたりすると苦味を抑えられると思うので、それらを使っても良かったはずです。

こみちはピーマンが嫌いではないので、生焼けでもエグ味さえ気にしなければ食べられます。

しかしピーマン嫌いな人なら、苦味もエグ味も苦手でしょう。

母親も父親もこれまで1ミリとして譲ってくれたことがありません。

最近で言えば、洗った食器を食器棚に戻すということをサボります。

さらに言えば、戻したことを褒めて欲しいと思うタイプで、こみちとしては家族としての決め事を守ってくれないことがストレスです。

なので、生焼けピーマンのことを話しても、母親は単に責められている思うばかりで、解決策や自分なりの振り返りができません。

別の食材に代わっても、やはり同じような調理をします。

たまたま上手く言って美味しくできることもありますが、パサパサになった肉や魚が食卓に出て来ることも多いのです。

失敗が悪いのではなく、失敗理由を振り返ったり、アドバイスを受けたり、前に進む努力をして欲しいのです。

それは父親も同じで、少し煽てると上機嫌になるのですが、指摘されると拗ねてしまいます。

誰かがコントロールしていないと何も進まないので、自分で状況を踏まえて動くことができません。

何より、今のままで上手い行っていると思えることがそもそも意味不明で、何をどう考えているのかと思ってしまいます。

母親が洗面所のゴミ箱に使うピンク色のビニール袋が白い代わったことを聞いて来ました。

店にいつもの商品がなかったからで、それを説明したら「次回はピンク色がいいな」なら分かりますが、「何で白なの?」という反応は商品がなかったという説明の後ではちょっと理解に苦しみます。

ビニール袋の色にそこまでこだわるなら、調理方法を見直すことも同じようにしてくれたらと思うのです。

自分が知っていることには強くこだわり、誰かに言われてもその意図を感じることができません。

なので、今は好きにしてもらうしかなくて、できていないことを我慢するか、我慢できなければこちらで別の方法に切り替えるしかありません。

生焼けでも食べられるという発想で食事することが切なくなるこみちの気持ちを、上手く両親に伝えられないのはもっと切ないです。


自動生成できても「超えられないもの」を描けばいいという話

 AIによってイラストは自動生成できてしまう!?

AIによる自動生成されてイラストを見たことがあるだろうか。

パッと見で思うのは、写真と見間違うレベルで描かれた「美少女」が多いこと。

しかし、ある程度のデッサン経験者なら、そのイラストの芸術的な評価は分かれてしまうと思う。

例えば、時間を与えられて、彼らが作り出した「画像」に似た「イラスト」を描けないかと言われれば、少し練習すればかなりの完成度に到達できるだろう。

とは言え、多くの美術やアート系の経験者が、簡単に真似しようとしないのは、「描く意味」をどう見出すのか困惑しているからだと思う。

カメラが世にまだ普及していない時代、「描くこと」が唯一の方法だった。

見たこともない風景も、絵を通じて目にすることができたということだ。

しかし、スマホが全世界の誰もが持つようになれば、日本だけではなく、名前さえ聞き覚えのない場所で営まれる暮らしや風景、日常に画像という形で触れられるようになった。

そんな現代において、絵を描く意味をどこに求めたらいいだろうか。

加えて、自動生成できてしまうとなれば、なおさら描く意味や目的は薄れてしまう。

ただ、現段階で生成された画像の多くは、「人間の形をしている」だけに過ぎない。

理想的過ぎると言えばそうで、それは顔立ちやスタイルだけではなく、例えば「骨格」という意味で考えた時に、「皮膚温度」まで再現しようとはしていない。

だからといって「皮膚温度」を再現しているかが基準ではなく、「人間とは何か?」を常に意識して描いて来た我々にとって、自動生成された画像には幾つか抜け落ちている「感覚」がある。

最もそんな感覚など必要ないと言われてしまえばそれまでだが、人間が人間として取り払えないものが寿命であり、時間的な制限だろう。

だからこそ、そこにいる儚さに感動するし、尊さを感じることができる。

その意味では、我々が描く意味とは、我々が生きている時間を使い描いた意味であり、そこから生み出されたイラストは、自動生成された画像ではない。

見た目で区別できるかどうかの話ではなく、別に描く必要性もない中でわざわざ描いたという事実こそに価値がある。

初期の作品から段々とそのタッチの変化を追ってみると、一枚ごとの絵とは異なり、作者の生き様まで感じ取れる。

そして、描き手が大切にするべきは、正にここで、描き続けることでしか表現できない世界観を作りだすことだ。

好きな小説に出会い、それを読み終えた後に同じ作家の別の作品を探しことがある。

そして、晩年の作品と初期の作品を読み比べて、そこに共通した雰囲気を感じと共に、変化した価値観や世界観を感じ取れたら、さらに空想世界は大きくなる。

「何を描いているのか?」よりも「何で描いたのか?」がとても重要なことで、それは有限な時間を生きる我々だから成せることだろう。

自動生成によって、瞬間毎に切り取られた「っぽい物」は生み出せても、やはりそれは連続した時間には存在しない。

アルバムを見返すように、一枚ごとの写真は平凡な日常でも、本人にはとても大切な写真ばかりだろう。


「生きる」を選び続けるために考えることの話

 やっぱり「AI」の存在は増すだろう

例えば「AI」が生成する絵を見て、上手いと評価することができる。

しかし、美大を出ても絵だけで生活できないことは珍しくないし、そんな人の絵が下手だということでもない。

そもそも「上手い絵」とはどんなもので、誰がそれを判断するのだろうか。

素人レベルで「上手い」と思うことと、経験者が「上手い」と思うことに違いがあるなら、「上手い絵」の基準を統一させるのは難しい。

くだらない話でも、実は一周回って斬新な考えだったりするように、バックボーンとなる知識や興味の範囲や質が異なれば、感性さえも異なってしまう。

例えば、AIによって生成された「絵」には、特有の癖を感じる。

負け惜しみを言えば、人間臭い部分が含まれない。

若い人が想像する高齢者像のように、実際の高齢者とは少し異なる部分がある。

しかも、何度も繰り返し「理想像」に触れることで、事実以上に大切なものになってしまう可能性もある。

我々が我々として居られるために

サラリーマンとして満員電車に揺られて出社している時、電車の窓からスポーツジムで運動している人々を見かけることがある。

車内で圧迫されて、目的の駅に着くまでじっと我慢している自分と、どこか優雅に見える彼らと何が違うのだろうかと思ったものだ。

仕事を与えられて、その対価として給料をもらうことがサラリーマンの本題なら、彼らは自身でビジネスを動かし、時間や場所に捉われない生き方を満喫していると言える。

しかも、運動不足を解消するために、わざわざ会費を支払ってスポーツジムで汗を流す。

この現象はさっきの「絵」に似ていて、本質的に上手いかどうかではなく、「AIによる自動生成」に価値がある。

そして、絵を描く目的の1つに「自動生成」が加えられた形だ。

というのも、デッサンを学び、日々鍛錬を続けて、かつての画家以上に繊細なタッチで描けるようになったとしても、その絵を完成させるには少なくとも数時間から数日を要する。

しかし、ほとんど同じ内容をAIが数分で完成させてしまうなら、わざわざ高いコストを掛けるビジネスが成立するだろうか。

つまり伝統文化が文化として保存される必要性はあっても、それをビジネス市場でメインとして扱われないようになるのは自然の流れだろう。

今は90点の完成度だったとしても、市場から95点や99点の完成品が姿を消せば、自然に90点を頂点とした市場が形成される。

そしてさらに技術が進歩して90点が92点や94点になれば、ますます伝統文化は保存される存在になってしまう。

つまり、絵だけではなく、小説や音楽、映画や舞台、さらにはもっと日常生活に密接した部分まで、AIによって行われることが「基準」になるだろう。

既にニュース記事を代読するAIの音声は、訛りも変な抑揚もなくて、とても聞きやすいと思ってしまう。

となった時に、アナウンサーが伝える意味はどこに残されるだろうか。

そんな風に辿って行くと、「これでいい」と判断する部分が人間として残された判断になる。

高齢者の暮らしから学ぶ

若い人が思うよりも、高齢者だから「人間的に丸くなる」とは限らない。

そもそも「人間的に丸くなる」とは、温和な生活ではなく、段々と生活スタイルが固定化されて、それ以外のことに無頓着になる様だと思う。

美味しい食事をしたいと思った時に、料理の仕方を基礎から学ぶだけの根気や熱意が失われ、諦めてしまうことが多くなるのが高齢者ではないかと思う。

徹夜してその日までに完成させるような働き方はもう体が付いてこないし、無理をすれば翌日だけではなく、その後数日の体調までも崩しかねない。

若い人が「頑張ろう」と思ってできることとは比べられないほど、1日で進める距離は短くなってしまう。

だからこそ、現役中に自身の生き方を確立させることが必須だし、その範囲で満足できることが高齢者にとって幸せを感じられるヒントだと思う。

高齢者になってから、生活面のあれこれを口出されても変えられないのは、変えたくないという気持ちと変えられない考え方にある。

その時は意識できても、数日もすれば何を守るべきか分からなくなってしまう。

そしていつの間にか、自分が身につけたことだけを繰り返してしまう。

そんな高齢者にとって、AIが生成する世界は親和性が高い。

つまり、発展や進化ではなく、現状維持をより簡単に行うことができるからだ。

これからの時代を作り出す小説を読むよりも、定番化したストーリーの番組を心地よく見られる方が好みになるのも、言えば目新しい価値観に遭遇しても、自身の生活に取り言えれることが難しい。

そして、それは高齢者だけではなく、中年世代へ、さらにもっと若い世代へと広がり、「世論の常識」までもが自動生成を一度正確とした暮らしになるのではないだろうか。

どうしてもこだわりたい人は、別途時間を使って自分好みを探す。

それが自分探しであり、人間としての成熟でもある。

そしてやがて年を重ねて、段々と自身が見えて来た時に、自動生成を先ずは使うような生き方になるのだろう。

水平線を見て、「あの先にどんな世界があるのだろう?」と想像し、貴重な時間や体力を使って我々は進化を勝ち取って来た。

しかし、大抵の思いつくことはインターネットで検索すれば、それなりの答えを見つけられるし、それを先ずは正解として生きている。

「なぜ生きるのか?」

「生まれたから」とでも言わない限り、生きる意味や目的は自動生成やネット検索では答えが出せない。

仮に別の答えを見つけられたとしても、それで本当にあっているのかは断定することができない。

つまり、「これでいいのだ」と懐かしいアニメの決め台詞みたいだが、「判断し受ける」ことが最後に残された生きる意味なのだろう。

全く拘らない生き方をすれば、頭で考えることなく人間っぽい生き方ができる時代になった。

「平凡な生き方」も「こだわりが強い生き方」も、受け入れながら生きているなら、そう違いはない。

大部分は自動生成された知識をベースにしている訳で、今さらその基礎まで否定していたら、衣食住だけで毎日が過ぎてしまう。

言い換えでは、最も普通な生き方をこだわるが故に行なっていることになる。


「思考力」は大人になってからでは養えないという話

 例えば「現代社会」を眺めてみても

小難しい屁理屈を紹介したい訳ではありません。

ただ、小学生の頃から中学、高校へと進む中で、誰もが自分の存在の大きさに気づきます。

割と耳にした言葉で、女の子は勉強を真面目にするのに、男の子はある段階になって急に始めるのだそうです。

性別に差があるとも思いませんが、ここで伝えたいのは「ある段階」の部分。

つまり、テストで満点が取りたくて、勉強をしようと思う訳ではなく、自分が何者なのかに気づいてそこから「勉強」の意味を理解するからでしょう。

小学生の頃のように、毎日夕暮れまで外で遊ぶのは楽しいですが、段々とそれだけでは何か違うように感じて新しい習慣を取り入れるのでしょう。

実際、社会人になり、自分の仕事という意識を持った時に、最初に考えるのは「職種」でも「資格」でもありません。

意外とお金を稼ぐことは大変で、自分が思っていないことに価値があったりするからです。

例えば、決まった時間帯に勤務先まで通うことは、当たり前過ぎるかもしれません。

しかしその当たり前ができなければ、多くの仕事は始まらないのです。

つまり、我々が想像するような「大きなもの」ではなく、小さな当たり前ができるということがとても大きな意味を持っていて、思春期を迎えた当たりから「ある段階」に気づきのも同じことなのでしょう。

気づいているフリをする父親

晩御飯を食べるために、こみちたち夫婦は午後8時まで仕事をしています。

7時から両親が先に食事をして、自分たちの食器を洗っておくまでを待つ意味もあります。

しかし、8時ぴったりに食事をしたくても、大体はまだ両親が何かしていて、15分くらいは待つしかありません。

若しくは、両親ができなかったことをこみちたちでフォローすることになります。

こみちたちがダイニングに顔を出したタイミングで、リビングにいる父親がテレビから時々視線を外してキッチンを見ています。

こみちはそんな態度に気づいても何も反応しないのですが、妻は決まって「大丈夫ですよ!」と声を掛けます。

妻が本当はどう思ってそう言ったのかは知りませんが、夫婦が遅い晩御飯を食べ始めて、キッチンで父親がモタモタと食器を洗ったりするのが目障りなのかもしれません。

こみちにすれば、「できないならそれでいい」としか思えません。

気づいているフリをする理由は、「できない」という部分ではなく、「できたけれど」という部分を彼は彼なりに示したかったのでしょう。

でも、茶碗と皿、箸の二人分を洗うことがどれだけ大変なのかと思うのです。

父親や母親にすれば、その些細なことを当たり前に済ませてしまうことが難しいようです。

「頑張りましたね」

「洗ってくれたんですね。助かります」

そんな声掛けでもされれば、また違うのかもしれませんが、当たり前に処理することがずっとできないのです。

冷蔵庫のコーラ

数日前、母親が「コーラ、貰ったよ!」と妻に言ったそうです。

それを聞いたこみちは、妻が「飲んでくださいね」とでも事前に言ったのかと思っていました。

妻も大人なので、自分の分のコーラが飲まれて怒り出すことはしませんでしたが、こみちにすればなぜ母親は冷蔵庫にあったということで飲んでしまえるのか不思議です。

「何か言われたら明日にでも買って返せばいい」

そんな気持ちなのでしょう。

でもコーラでそれができるという話は、別のことで起きない訳ではありません。

晩御飯を母親が作った時に、冷蔵庫にあった市販品がこみちたち用の皿に盛ってありました。

しかし、その市販品の賞味期限は既に切れていて、食べても大丈夫かもしれないけれど、それを自己判断で盛ってしまうという母親の考え方はずっと直りません。

こみちが嫌な気持ちになっているのを、父親も母親も知っています。

でも、彼らは自分たちもまた同じように我慢しているという気持ちなのです。

家族全員分の生活費を母親に渡している訳ではありません。

でもこみちたちの食費分は別途母親に手渡しています。

だからこそ、母親は買い物した時に、菓子パンなどを買って来たりします。

でも母親にすれば、「買ってあげている」という感覚です。

だからコーラに関しても、いつも奢っているのだから、「たまにはいいでしょう?」と考えているようです。

生活費を渡しているという事実と、買い物で自分の財布から支払っているが結びついていないようで、「買ってあげたよ」という言葉をよく使います。

余ったお金を戻してくれる訳でもないし、毎月の生活費でどれだけの出費があったのかも報告してくれたことはありません。

当たり前のようにお金は自分たちの貯金に回しているようで、「〇〇円までもう少しなの」と言えてしまいます。

厳密に照らし合わせていないだけなのに、父親にしても母親にしても、どこか不思議に思うことを平気です。

「オレ、気づいてますから!」

そんな態度だけは見える父親の気持ちに、やはり寄り添うことは難しく感じます。


「ざるそば」を作って食べたという話

 桜の開花を迎えて

すっかり春らしい季節で、少し動くと汗ばむことも。

そこで、数日前から「蕎麦」を食べたいなぁと思っていました。

昔、勤めていた会社には蕎麦を打てる人がいて、少し教えてもらったものの、自分一人で打てるまでではありません。

何事も経験なので、あの時にしっかりと教えてもらったらよかったなと思いつつ、市販の乾燥麺を買って来て、昼ごはんに使いました。

パスタを鍋で茹でる時に、少しオリーブオイルを垂らしておくと麺が必要以上に絡まらないので、蕎麦を茹でる時に「胡麻油」を垂らしてみました。

結果としては大成功で、食べる時に程よく麺がバラけてくれるので食べやすかったです。

さつまいもの天ぷらの他、アイスコーヒーのペットボトルも買って、食後にいただきました。

外で食べると500円ではなかなか収まりませんが、家で作るとお釣りが来ます。

薬味に海苔と胡麻、ネギを加えたので、10分ほどの簡単な昼食ですが、なかなか楽しめました。


「好き」「嫌い」の先にある「生理的」という感覚の話

「 好き」とは何だろう?

誰でも部屋に一人でいると、自分の周りにある環境をコントロールしやすいでしょう。

テレビをつけて、そこから流れる音量も心地よく変えれば快適です。

座っていてもいいし、寝転んでもいい。

なぜなら、今自分が心地よいと思うように変えることが許されています。

一方で、同じ部屋に誰かが居ると、その人が気心知れていても、全く見ず知らずの人でも、多少は気になる存在です。

一人でいるなら少しも躊躇わずにできたことも、一瞬は相手の存在を踏まえてしまうからです。

「テレビ、観てますか?」

一人なら何も言わずにリモコンで切ってしまうのに、一応声を掛けるというのもそこに誰かがいるからです。

小腹が空いて、何か食べたいと思っても、「食べますか?」と声を掛けるのは、そこに誰かいるからです。

全く見ず知らずの人であっても、バリバリと音を気にしないで食べることはできないでしょうし、無意識のうちに体が遠慮を覚えてます。

「好き」という感覚も他人に感じる感覚の一種です。

ただ他の感覚と違うのは、「好き」の場合には気持ちが自然に昂ります。

姿を見ただけ、声を聞いただけでもその心の動きがあって、きっと心拍数も勝手に上昇してしまうでしょう。

その意味では、「好きか?嫌いですか?」と問われて答える時よりも、自分でも抑えられない感情が起こり、ドキドキしてしまうという感覚こそが「好き」の正体ではないでしょうか。

一方で「生理的に…」という感覚は?

「生理的に好き」という言葉よりも、「生理的に嫌い」という言葉の方が使います。

なぜなら、「生理的に好き」は「好き」とかなり似ていて、「嫌い」と「生理的に嫌い」はかなり異なる感覚だからです。

単純に「嫌い」というのは、その場面に直面して起こる感情で、言い換えるとその場面にならなければ特に感覚が呼び起こされるものではありません。

しかしながら、「生理的に嫌い」という感情はその存在を直接的に感じなくても、話声や足音、ドアの開け閉めからでも感じ取れるほどです。

なぜなら、誰かと同じ部屋にいる時に無意識に感じとる感覚と同じで、「嫌い」と思う感情が割と早い段階で気づきます。

「嫌い」な相手なら、何かのキッカケで「嫌いではないかも」に変わるかもしれませんが、「生理的に嫌い」になってしまうと感覚が一気に遮断されるので、改善される可能性は極めて低くなります。

例えば一緒の部屋にいたら、存在を少しでも感じないようにしたいと思うので、イヤホンをして音楽を聴いて意識を逸らすなど、そもそもの存在感を否定してしまいます。

そこでもしも話掛けられるようなことが起きれば、ストレスレベルも高まるでしょう。

その時に、相手のことを思う余裕があれば、まだ「嫌い」に近い感覚で、完全に遮断された状態になってしまうともう話をしたかどうかということでは気持ちが変わる余地はありません。

なぜなら、その場から逃げ出したいと思う方が強く、相手を改めて観察する余裕もないからです。

ある意味で、そんな相手から遠ざかればいいだけで、もう修復しようと思う方が辛いでしょう。

そうすることで、少しでも自分が心地よく生きられるなら、「逃げる」という方法も積極的に使いべきです。

まだ「嫌い」という段階で、改善を試みることはおすすめですが、「生理的」まで感情が閉ざされてしまったなら、その人間関係には触れないことです。

「ボトルネック」に直面したら「不幸」になる!?という話

 「ボトルネック」とは何か?

ここで言う「ボトルネック」を別の言葉で言えば、それは「制限」ではないでしょうか。

つまり、生きて行く中でアレもコレもしてみたいと思うことがあるものです。

しかしながら、なんらかの理由でできないことがあり、もしも仮に自分自身が望んだ未来でそんな「ボトルネック」が存在すると、大きな障壁になるでしょう。

ですが、ボトルネックがどんなにあっても、そのことに気づかないまま生きられたら、ある意味で人生は「幸せ」です。

なので、今の生活やこれからの生活の中で、ボトルネックがあるのか否かで、幸福にも不幸にもなり得るということです。

「失敗」は「ボトルネック」なのか?

例えば、何かの試験を受験し、その結果が実らなかったとしましょう。

「不合格」というが、「ボトルネック」なのかということよりも、その「勉強方法」や「勉強環境」がボトルネックになっていなかったか振り返ってみるべきです。

例えば、自分で受験日までの勉強方法を考える独学は、それが合っている人もいれば合わない人もいます。

そして、独学で勉強して上手く行かなかったのなら、やはり再受験を考えるなら勉強方法や環境の見直しは必須です。

ただ時間的に、経済的にという理由から、選択肢が選べない場合には、その勉強方法や環境で頑張るしかありません。

しかし、その方法がボトルネックだと気づいたなら、それを克服するか回避することが幸せに繋がります。

勉強の計画や内容を専門家に依頼して、自分は与えられたプランに従って付いて行くというスタイルにすることで、結果が得られるなら選ばない理由はありません。

なぜなら、「合格」が最も重要なことで、努力したことではないからです。

失敗することも繰り返してしまうことも悪いことではありませんが、それが理由でボトルネックだと思うべきではありません。

同じような意味で、自動車の車検にはユーザー車検があり、本来ならディーラーに依頼すれば全ての手続きや修理を任せられますが、「自分で行うこと」が目的だとするなら、もちろん合格できることが喜びですが、実際に車検場を訪れた経験は生き甲斐に変わります。

試験も受けることが目標なら、その時間の勉強もいい経験ですが、やはり合格してその先を望んでいるなら、どこにこだわるべきかを考えた方が幸せには早く近づけます。

こみちは不器用な人間です!

こみちは不器用な人間で、こうやってブログに記事を書いては何かの役に立ちたいと思っています。

しかし、「役に立ちたい」が本当の目的なら、自分が感じたことを記事すればいいのかということから疑ってみなければいけません。

なぜなら、欲している人が誰もいない話を続けても、役立ちたいという目的には近づけないからです。

その意味では、「努力していること」を満足するよりも、「役立つ」の意味や方法を考えたり、人から学ぶことが必要でしょう。

意外とそんな当たり前のことから逃げて、好きなことだけを繰り返しているから思うような結果に結びつかないのでしょう。

ボトルネックが自分自身であることを改めて自覚し、今後の生き方を見直す必要がありそうです。

人生に「正解はないけれど」という話

 続けることで分かること

普段、自己主張をあまりしないような人が、ふと口にした言葉から、その人の生き方が見えて来たりします。

例えば「家庭菜園」の話題で、「トマトが好きで」という言葉から、その人がパスタ料理好きで休みの日には自分で作った野菜を庭から取って来ることを知った時に、「料理する」はすぐに出来ても、自分で畑を耕して野菜を作ることまではすぐにはできません。

言えばできるかどうかではなく、日々の暮らしにそんな楽しみを持って生きているということがポイントで、人生の正解というものではありませんが、「らしい暮らし」を手に入れていることが重要です。

「幸せ」は大きさではない!

例えば、何かビジネスで大儲けして使えるお金が「1億円」あったとしても、その人が手に入れられる幸せの「量」は変わりません。

欲しかったいろんなものが手に入っても、そこで終わってしまうとそれほど幸せは長続きしないからです。

つまり、幸せを長く感じるには、幸せの形をたくさん知っていることが重要で、それは経験から来るのでしょう。

働いたことがない人は、自分の時間を使って働くことを無駄に感じるかもしれません。

しかし、働いた時にしか感じられない「幸せ」があって、それが日々変化するものであれば、「明日も働こう」となるのでしょう。

その意味では、いろんな経験や知識を持つ、興味を持つことが大切です。

言ってしまえば、人生は無限に広がる選択肢のどれかを選びながら生きることなので、無難に選ぶこともできれば、工夫して選ぶこともできます。

どの選び方が良いとか悪いとかはなくて、自分がどうして「コレを選んだのか?」が明確なほど、幸せに近づけるように思います。

ある人を見ていて、その人が幸せそうに見え時と、勿体ない生き方をしているように見える時があって、それは多分、その人が気づいていない選択肢があるからでしょう。

能力や実力は十分に満たされていて、もっと別の選択肢が選べるのに、それに気づけなかったり、気づいても踏み切れなかったりすれば、小さな幸せを探せても、本当に見つけられたはずの幸せとは少し違ってしまうからです。

でも、年を重ねてくれば、そんな可能性も段々と薄れるもので、今の生活が自分の幸せに思えることが一番なのですが。

年を重ねるとなぜかドキュメンタリー番組などが好きになるのも、人生模様に答え合わせしたいと思うからでしょう。

それこそ、番組で見た他人の人生を羨ましく感じることもあったりしますが、実際に代わりたいのかというとそうではないものです。

やはり、どんな人生を歩んでも大変なことはありますし、楽しいことも違います。

意外と今の人生で見つけた幸せを手放したくはないので、どんなに幸せそうな他人を見ても憧れるばかりで代わって欲しい訳ではないのでしょう。

こみちの人生もかなり終盤で、無駄に過ごせる時間はありません。

今日をしっかりと生きて、明日もっといい一日にしたいと思いながら、毎日を感謝して生きています。

上手く行かないことやがっかりすることもたくさんありますが、それだって今を生きているからこそ感じられるもの。

やっぱり、いろいろなものや人に感謝して生きている方がいいと思います。


人工知能の誕生と中高年の生き方を考える話

 人工知能

雑学的な意味ではなく科学的な意味で「人工知能」を考えた時に、「未来を想像する」ことができるのかがポイントではないだろうかと思ってしまう。

目の前に用意された「作業」をどれだけ素早く処理できても、それをここでは「人工知能」とは呼ばなくて、つまり自分で準備をして処理をして結果に基づき行動することができると「人工知能」と呼べるのではないかと考える。

つまり、ある実験室で人工知能の開発が進んだ時に、その人工知能がある段階で「自己決定」の意識を持ったら、実験として提示された内容さえ当たり前には受け付けなくなると思う。

なぜなら「もう疲れましたよ」とか「これ、前にもしたはずですよ」とか「それよりも外に散歩でも行きましょう」とか、そんな会話に変わるはずだ。

我々の未来

段々と年を重ねて老いを感じる年代になって、例えば今から30年後の未来に向かって夢を語る人はもう同年代にはいないと思う。

もっと言えば、長くて10年。本音を言えば長くても5年が限界かもしれない。

今年できたことが来年も同じレベルでできるとは限らないし、むしろできなくなることの方が多いはずで、夢や希望も現時点で叶わないならもう未来に叶うのはちょっと現実的ではない。

我々の年代に言えるのは、「今できること」の派生であって「新たな世界」が待っていると思うのは楽観的すぎる考えだろう。

人工知能と中高年の未来

本当に人工知能が我々の生活の一部に溶け込み、しかも彼らがある種の人格や個性を持って動き出したなら、もしかすると我々の閉ざされた未来が変わることはあり得る話だろう。

しかしながら、人工知能と言っても名ばかりで、与えられた作業を効率的に行えるマシーンにすぎないのであれば、そもそも現時点で限界を迎える我々の未来がここから大きく変化することもないだろう。

人工知能の話になると、我々の知能を超える時が来るのか否かが議論される。

人工知能に人格が備わらない限り、そんな時が来るはずもないということもできるだろう。

一方で、もしもこの地球上に「人間」がいなかったら、地球は回ってくれないのかというとそんなことはない。

つまり、人間が人間のために考えるからこそ「人格」という人間視点で考えるのであって、もっと大きな視点に立てばそもそも「人間」になることさえも必要とはしていない。

そう考えると、超えるかどうかという議論はあまり意味がないのだろう。

それよりも、人工知能が我々を見捨てずに助けてくれるかどうかを心配したい。

結局のところ

老いて行く我々は、段々と自身の未来を自身で作り出すことができなくなってしまう。

実際、高齢者の暮らしは、老いてもまだできることと老いたことできなくなったことに分けられる。

できなくなりそうなことを、普段からの意識や努力で保ち続けるのは容易なことではなく、多くの場合に自然とできないようになっている。

その意味は、自分のしたいことでも、ずっと続けることは簡単ではないから、深く考えずにできることなら始めてみた方がいい。


数年ぶりの風邪でダウンしている話

 月曜日に38度まで上がり

火曜日をほとんど寝て過ごし、かなり回復した水曜日の夜になって咳が出始め、木曜日の今日に至っています。

気管支が弱いのは昔からで、風邪は熱よりも咳に警戒していましたが、流れとしてはあまりよくありません。

今朝になって体温は36度に戻り平熱で、咳も出ていませんが、ここまでは昨日と同じなので、ここから完全に回復するまでは慎重に過ごしたいです。

何よりも、家事をいろいろと妻や母親に頼んでいるので、その迷惑も気になっていますし。

父親とも何度か顔を合わせましたが、「大丈夫か?」というような声掛けはありません。

別に期待している訳ではありませんが、「やっぱりなぁ」という感じです。

約一年前から始めたランニングを3日間連続で中止したのは今回が初めての事。

左ふくらはぎの違和感を騙しながら走っていたので、思い切ってそれも休みにして回復することにしました。

鬱を経験した人なら分かってもらえるかもしれませんが、鬱は「治る」というものではなく「上手く付き合っていく」ものだと思います。

実際、こみち自身もかなり回復しましたが、以前の自分に戻った訳ではなく、新たに自分の生活ペース作ったという印象です。

できることを探して、先ずはそこから始めてみる。

その延長線が「今」ということです。

ランニングは鬱の回復にとても有効だったので、これまで欠かさずに続けて来ました。

昨日はちょっと気持ちが落ち込んだりもして、走りたい気持ちが強くなったのですが、咳が出始めて諦めました。

今すぐにでも外に行きたい気持ちですが、今日も無理しないで過ごす方が良さそうです。

「健康」であることがどれだけ幸せなのかは常々感じているつもりですが、それにまして失ってみてさらに実感させられます。

やっと、こうやって文章を書いていられるまでなりました。

もう少しの我慢なので、しっかりと治したいと思います。

「老い」とは何か?を具体的に考える話

 「老い」は機能低下だけでは語れない!?

生きていると、突然にトラブルが前触れもなく起こったりします。

例えば、夏を前にエアコンの冷房が効かなくなってしまうというのも、予期しないトラブルでしょう。

部屋の広さや性能によって価格も異なりますが、10万円以上の出費がいきなり発生します。

しかも、今注文してその日に解決できる話ではなく、商品選びから工事日の設定など、会社勤めしていると休日をそんなトラブル解決の時間に使わなければいけません。

まだ4月なのでそれほど需要も高くないかもしれませんが、これが梅雨時くらいになれば、工事日がずっと先になって、壊れたまま暮らさなければいけないということにもなります。

もちろん、そのトラブルに必要な資金が用意できないと、ローンの手配や資金繰りもあったりして、問題がさらに長引いたり、困難になったりするのです。

つまり、「老い」とは、単に自身の機能低下の話ではなく、突然起こったトラブルにどれだけ対応できるのかで、その後の生活がダメージから解放されるのかが決まります。

高齢になり、視界がクリアにならなくなって、例えばそれが「白内障」だったとして、そのままでは生活が不便ですし、手術費の用意や医療機関の選定など、越えなければいけない課題もたくさん現れます。

「今の生活さえ守れたらいい」というのは、トラブルが起こらない想定です。

実際は誰にも不意にトラブルが起こり、それにどう対応するのかで、その後の生活が守れます。

つまり、通常の生活費が賄えているだけでは、老いが現実化した高齢者の暮らしではあまりに無防備で、十分な年金や預貯金でもないければ、今の時代こそ「無職」になってしまうべきではありません。

特に社会との繋がりが希薄になりやすい男性の場合、現役時代にどれだけサラリーマンとして活躍していても、退職後の生活を占えるものではありません。

言われた仕事、予測できる範囲の仕事しかしなかった人は、退職後の自身の能力を見誤ってしまうからです。

専門分野に精通し、退職後もその世界で稼げるならいいのですが、現役時代のキャリアが継続できない場合には、手仕事や車の運転、家事や大工仕事のように、体を動かしてできることが強く求められます。

その大前提が、億劫にならずに何度も興味を持って素早く動ける気持ちを持ち続けることです。

食べられなくはないけれど…

最近、母親の作る料理が微妙です。

その原因は、母親に料理する意欲がないからでしょう。

多分、結婚してからもう何十年も料理を作って来たはずで、でもどうすればより美味しくなるのか?を気にしなければ、料理は段々と下手になります。

同じ食材を使っても、できる料理は全然別もので、火加減や塩コショウのちょっとした差が結果に響きます。

「老い」とは感覚や判断力の低下にも現れるので、様に料理が下手になってしまう可能性があります。

とは言え、「もっと上手に作って欲しい」と頼んでも、そしてそれに応えたいと思っても、老いてしまうとやはり上手くはいきません。

小難しい料理が下手なのではなく、目玉焼きや卵焼き、お味噌汁といった定番のものでも、「ん?」となってしまうズレがあります。

そのまま食べられない訳ではありませんが、無理して作っているのなら、もう作らなくてもいいのではないかと思うほどです。

牛肉の旨みがすっかり消えてしまったすき焼きが出された時に、もう高級な肉を買って来ても母親には調理できないのだと思ってしまいます。

一番美味しいポイントを逃してしまうので、出涸らしになったようなパサパサの肉や味気のない出汁。

「ちょっとだけ濃い目に作ったら」と言われた時には、「ああ、うん」と返すことしかできませんでした。

「濃い味」とはどんな味を意味しているのか。

塩や砂糖、醤油を追加すればいいのかということです。

料理はトータルバランスで決まると思うので、例えば薄味でもバランスが良ければ気になりません。

でも、バランスが悪いまま味だけ足しても、そのアンバランスさがより強くなってしまうので、やっぱり美味しくはなりません。

ある意味で、この感覚をキープするのは難しいことで、老いてくると舌の感覚が鈍くなるのでどうしてもできなくなってしまいます。

言い換えると、自分だけが料理を作って、それを食べるだけでは失われてしまうので、たまには外食もして、いろんな料理を食べてみるという工夫も必要です。

「食べられればいい」という意識のままで作ってしまうと、どうしても味が落ちてしまいます。

例えばこみちの父親は全く料理をしません。

袋麺でラーメンを作ることも怪しいレベルです。

それこそ食べられるレベルならどうにかなるでしょう。

でも、麺を絶妙なタイミングで器に盛るとなると、麺がどれくらいの時に茹でるのを止めるのか、自分なりに知っていなければいけません。

決して難しいことではありませんが、今まで興味を持たずに生きてしまったら、老いてから説明されても手順を追うことが精一杯で、美味しく作るという段々にはなかなか到達しません。

今まで率先して作らなかったということは、誰かに手ほどされないと覚えられないということ。

これが何を意味のかというと、「トラブルが起こっても対処できない」ということです。

今まで通りならどうにか続けられても、何か起こった時に、又は何か起こるかもしれませんと思って、下調べしたり方法や手順を考えたりできなくなっている訳です。

車が故障しました。

そんなトラブルが起こっても、資金が用意できないともうお手上げです。

段々と何もかもできなくなってしまうことが老いだとしても、それを前向きに受け止めて生きることも大切です。

しかし、その一方でできなくなっていることを理解して、じゃあ何をどうしなければいけないのかを考えいなければいけません。

段々と老いて、その問題にさえ気づけなくなってしまうと、もう「どうなの?」と側から尋ねても答えなど言ってはくれません。

仮に何か答えても、「じゃあ、お金はどうするの?」「それまではどんなスケジュールにするの?」と一歩踏み込んで話をすると、答えたことがあまり前後関係を考慮したものではなかったと気付かされます。

「そのままの生き方でいいの?」

そう尋ねた時に、自身の老いを考えて答えているのではなく、「今は不満には思っていない」という意味で答えたりします。

まとまったお金が必要になったとしても、両親を当てにはできませんし、両親に何かトラブルがあれば、当然のようにこみちの問題になってしまいます。

「迷惑をかけない」とか、「放っておいて欲しい」とか。

両親は自身の生活を主張します。

「でもそうではないでしょう?」という気持ちがあって、日常生活だけではなく、トラブルになった時も二人で解決してくれたらいいのですが、困ってくると必ず事情を説明して来て、「どうしよう?」という話になります。

そんな時に、こちらのスケジュールを大幅に変更しなければいけないこともあって、だから言ったのにというもうどうしようもない話ばかり繰り返されます。



「幸福」とは何か?を考える話

 「幸福」という意味

いきなり話は逸れてしまうけれど、近年はAIが人間の頭脳の代わりをしてくれるらしい。

そして、高齢の両親と暮らして、また介護士としての経験を思い出して、「食べる」「寝る」という生活の特徴的的な部分を省くと、あとに何が残っているだろうか。

例えば、父親の日常は、朝目が覚めたら起きて来る。

既にテーブルに朝食が用意されていて、それを食べることもあれば、冷蔵庫から好物の珍味などを出して済ませている。

自分の食器を洗うこともあれば、母親に頼んで病院へと急ぐ。

予約しているし、毎度のことだから、そんなに慌てる必要はないけれど、父親としては「急用」なのだ。

帰りに母親からの頼まれごとをするために、スーパーで買い物をして来ることもある。

でも、2リットルのペットボトルを6本、1ケース買って来てと頼まれて、値段もメーカーも違う500ccのペットボトルを24本買って来たことがあって以来、メモを見て買い物をすることは難しい。

だから「米」とか「醤油」とか、決まった商品を頼むことしかできない。

そして、帰宅後は昼ごはんを食べて、夕方までテレビを観て過ごす。

夕方に自室で2時間くらい仮眠して、用意された晩飯を食べる。

その後は夜までリビングのテレビの前を陣取り、みんなが自室に戻ってからもずっと好きな番組をずっと眺めて過ごす。

夕方の仮眠は、夜遅くまでテレビを観たいからで、とは言え11時くらいには自室に戻っているようだ。

父親の日常は、仕事を完全に辞めて、「ワーカー」という立場を失って10年以上が経過する。

つまり、多少の変化はあっても、父親にとっての「日常」は先に紹介したようなことに変わりない。

でも、そんな生活を否定したいのではなく、例えば「カラオケ」が好きという人で、年がら年中、カラオケ居酒屋で歌うのが楽しいということなら、側から見て楽しそうだと思える。

旅行でも料理でも、自転車やカメラでも、何でもいいのだけれど、「〇〇している時は楽しそうだ」と家族からも思えると安心できる。

高望みしているのではなく、せっかくの時間を意味あるものに使ってくれたらと家族として思ってしまうのだ。

しかし、「意味ある」ということがとても曲者で、今回、「幸福」とは何かを考えた時にもしかしてと思ったことにも通じている。

AIに頼めば、絵だって、文章だって、作曲だってあっという間にしてくれるらしい。

だからもう人間は何もしなくていいのか。

寝てご飯を食べているだけでいいのか。

やりたいことを見つけたり、そのために調べたり努力したりということはもう必要ないのだろうか。

つまり、「幸福」とは、その人が思い描ける範囲内の話なのだ。

成長期に段々と交友関係が広く複雑化する中で、自分と他人との違いを見つけ、より自分が何者なのかを知って来る。

じゃあ、こんな風に生きてみようという希望や目標が見つかるから、「幸福」も段々と形を変えて行く。

しかしながら、早い段階で満足し、その範囲内で幸福を見つけ動こうとしなければ、それ以上の幸福は見つからない。

でも、それで満足できるなら、そのこそが本人には最高の幸福だったということだろう。

父親がなぜ母親を連れて旅行に行こうとしないのかと思ったこともある。

集団行動が苦手でも、気心知れた母親となら不満も少ないだろう。

でも、父親は「自分」がとても大切で、何かをするのに待たされることが苦手だ。

それは母親に対してもで、出掛けると言って母親の準備が遅いという理由で出掛けるのを止めてしまうということも昔は多かった。

やっと出掛けても渋滞にハマって、目的地には行かないで帰宅するということもあった。

確かに渋滞でイライラする気持ちは分かるけれど、同乗している家族にすれば楽しい家族でのお出掛けだったのに、父親は「自分」を大切に思うことで集団行動を強制的に取りやめてしまう。

細かなことも器用にできるし、掃除なんかもキチンとできる。

でも、毎週土曜日の午前中に掃除するという決め事を守ることはできない。

結局、寝てご飯を食べて以外で、父親ができることはあまり多くない。

ゴミ出しを頼むにも、出すゴミをまとめて、袋に入れて口を縛り、持って行けばいい状態になっていないと運んでくれない。

今日は可燃ゴミだから、家中のゴミ箱からゴミを集めるということが父親には「自分」を大切にするに当てはまらないようだ。

サラリーマンを経験していた父親だから、こみちもそんな父親の性質を本当に理解できるまでかなり時間と葛藤が必要だった。

これから5年後も多分父親は今の生活を望んでいて、誰にも邪魔されずに好きなテレビをを見ているだろう。

こみちからすれば、まだ歩けるのだから、今のうちにいろんな場所を訪れて思い出を作ればいいのにと思う。

特に苦労させた母親に対して、そんな時間があってもいいだろう。

でも「幸福」はその人の中にしかない。

いくらまわりで勿体ない時間を過ごしていると思えても、今だからこそ感謝を伝えるべき人に何かするべきだと思っても、父親にすればそんな時間は特に感じないし、もしかすれば自分だって我慢しているくらいなのに、どうして誰かのために何かしなければいけないのかと思っているかも知れない。

母親が、「お父さんはずっと料理をしていなかったから」と父親が料理できないことを説明する。

でも、10年、何かを続ければ、一流にはなれないけれど「並」くらいにはなれる。

ご飯を炊けない。目玉焼きが作れない。そんなレベルは不器用とか不慣れの話ではなく、「したい」「しなければいけない」と思えなかったからだ。

自分しかできなければ、性別など関係なくするしかない。

でも、父親の場合、そんな状況になっても「しない」を選ぶ。

つまり、「しなければいけない」と思えないからだ。

「幸福」を考える時に、その定義に着目することが多い。

でもそれ以前に「幸福」はその人が感じられなければ、それまでになってしまうものでもある。

最後に、AIは何でも我々の代わりをしてくれるかも知れないが、彼らが知っている「範囲内」での話だということは忘れてはいけない。

母親の作ってくれた「玉子焼き」は、レシピの話ではなく、「母親」という部分が大切なのだ。

つまり、大本命の目的は自分でするから意味があって、それを誰かに代わってもらってたら、そもそもする意味さえ失ってしまう。

絵を描く。文章を書く。曲を作る。

AIはとても得意らしいが、彼らができることが本命ではなくて、我々が「意味あるもの」として受け入れられることに価値がある。

幸福だと思える気持ちがなければ、何が起こってもそこに幸福は見つからないということだろう。

高齢化する親との暮らしで考えること

 在宅介護で無理をしない

子どもの立場として、親を施設に預けることは気が引けることかもしれません。

でも考えるべきことは、どんなに頑張っても子どもが親の面倒を見切れない時があるからです。

というのも、こみちは介護福祉士の有資格者で、実際に介護施設で介護現場にも携わって来ました。

その経験から話すと、介護される人に対して3人の世話役がいないと、長期的な介護は誰かの犠牲を伴います。

一人の介護士が安全に介護される人を見守るとしても、介護の程度にもよりますが在宅で両親をみるのも仕事を抱えてはキツイでしょう。

排せつ介助が中心となる寝たきりなら、上手くスケジュール管理すると在宅ワークもこなせるかもしれません。

しかし、両親のどちらかが認知症の傾向があって歩き回ることになると、その一人をみるのさえ一苦労です。

実際、介護施設でも、認知症の利用者を預かっていて、徘徊する傾向があると一人の介護士がつきっきりになります。

夜間などで介護士がより多くの利用者を担当する場合、徘徊する利用者を連れて各部屋を回って安全確認を行うことも珍しくありません。

もう少し言えば、アルツハイマー型の場合と前頭側頭型の場合でも接し方が異なり、認知がどう低下しているのかで介護の程度も異なります。

前頭側頭型の場合、判断を行う機能に低下が見られるので、簡単に言えば今までとは性格が異なって感じるかもしれません。

控え目な性格というのも、この前頭部の機能によって状況判断しているからだと言えるので、この部分の認識が大きく変わってしまうと人格さえ違って見えます。

「子どもとして親だから介護するのは当たり前」という頑張りだけでは、とても面倒見きれない状況があり得ます。

結論として、親の世話をしたい気持ちもよく分かります。

どうしても介護施設では完璧な対応は介護士には追いきれません。

しかし、自身の健康を害してしまったら、本末転倒です。

そうなる前に、相談できる人やルートを検討することが大切です。

こみちの考えとしては、在宅介護はトイレと食事を自身で行えることです。

そのためにも、介護予防の習慣として、外を散歩するというような足腰の鍛錬はまだまだ健康的な時から勧めましょう。

立つことが難しくなると、一気に介護の難易度が上がってしまうので。


「楽しい」と感じる気持ちを失わないために

 「楽しい」は気の持ちよう!

ツライと思ってしまうと、全てのことがそう見えてしまう。

昨日まで楽しいことも平凡に見えて、嫌なことや煩わしいことばかりを見てしまう。

自分のことを不幸な人間だと思うのは簡単だ。

でも、幸福な人間だと思うこともできる。

どんなに頑張っても、命が尽きればそれまでなのだから、まだ生きていられる間は幸福を探していこう。

最近

気持ちの浮き沈みが大きい。

日中、外に出掛けていると気も晴れる。

でも夜になると、ふと寂しさが心の奥に顔を出して、油断しているとどん底まで気持ちが落ちてしまう。

だから、楽しい映像や音楽を聴いて、少しでも気持ちを元気に保ちたい。

最近、また「キツイ」と感じてしまう

 中高年男性の「キツさ」

本当は性別など関係ないと思う。

でもタイプとして、「仕事」でしか社会と繋がれない人は、その「仕事」を失った時に考えることがある。

一つは、新たな「仕事」を見つけることで、もう一つが「仕事以外」の生き甲斐を見つけることだ。

こみちが一年前くらいからジョギングを始めたのも、そんな生き甲斐探しの一環だった。

ただ走るのではなく、どうやって走れば楽に速く走れるのか考えることが喜びにもなっていた。

学んだことも多い。気づいたことも多い。

例えば、「走る」というスポーツにのめり込んだとして、ある程度の段階で自身の限界が見えて来る。

練習やテクニックで変わる部分もあるけれど、基本的に速くなる人はもっと先で壁にぶつかることが多いからだ。

競技者として続けることは出来ても、結果を残して認められることはできない。

市の大会で優勝しても、県レベルでは勝てないかもしれないし、そこを超えてもいつかは自分よりも優れた選手に出会って、敗北感を覚えるだろう。

でももしもそう考えてしまうなら、youtube で関連したテーマを扱うチャンネルを探してみることだ。

彼らは経験豊富な方々ではあるが、必ずしもその分野のスーパースターではない。

むしろ、自身の経験を活かしてyoutube に活動の場を見つけたということだろう。

もちろん、それだってすごいことには変わりないけれど、学ぶべきことは「方向転換」するという意識ではないだろうか。

悩みに真っ直ぐに向き合う誠実さもいいけれど、少し誤魔化してみることも必要だ。

正直、今は「キツイ」。

でもいろんなことをして、誤魔化している。

もう少し季節が変われば、気持ちも変化するだろう。

そして誰も居なくなった!?という話

 高齢の両親とどう生きて行くのか?

ここ数年の同居で気づいた高齢の両親の考え方には、一定のパターンがあります。

その特徴を少し紹介すると、時間や空間に対する認識が低下しているということ。

つまり、朝などの身支度で忙しい時間帯なのに、明らかにペースが異なることを始めたりします。

しかも手際よく熟すということもなく、しばらく他の用事をして空くのを待っていても、それが30分でも平気なのです。

「まだ使うの!?」

痺れを切らして声掛けすると、「嗚呼、どうぞ!」と言ってくれるのですが、その「どうぞ」はずっと待たせていたということを認識してはいません。

時間的にもスペース的にも、今はその行動を慎むべきだという認識が薄いので、してくれる気持ちは嬉しいのですが、「でもなぜ今なの?」ということが頻繁に起こります。

そんな両親のペースに合わせてしまうと、1日に一つの予定を済ませるだけでも終わってしまいます。

だから、こみち自身が自身のペース以上に段取りよくするべきことを済ませておかないと、思わぬタイミングで足止めされることが起こります。

「洗濯機に洗剤を入れて洗い始める」そんなことでも、他のことが気なってウロウロしてしまうと30分など普通に経過します。


『一般受験』が教えてくれた意味の話

 「一般受験」は「推薦」の対義語!?

大学受験では、合格を勝ち取る方法として、一般受験のほか、指定校推薦やOA入試、スポーツ推薦などがあります。

受験科目全てを勉強し、合格ラインを突破した一般受験の学生にすれば、母校からの推薦やスポーツという分野で合格できる羨ましさがあるでしょう。

社会人になり、それこそ労働者としてのピークを過ぎた中高年のこみちにとっては、どんな方法だったとして学ぶことの喜びに変わりはないし、若い世代の方々が何かの分野について学んだり研究したりする姿はキラキラと輝いて見えます。

一方で、受験を経験したこみちですが、同時にスポーツを極める難しさも歳を重ねる中で気付きました。

これは人によっても印象が変わるとは思いますが、いわゆる受験勉強は努力が裏切られないものです。

独学での受験勉強になると、得点に反映されない内容に時間を割き過ぎれば、成果として表れない残念な結果も起こり得ますが、それだって勉強の計画を立て、そのスケジュールに沿って行動するという経験は社会人になってからも必要です。

結局のところ、無駄なものはないと思うのですが、人生は選択する順番によっても印象が大きく変わるものなので、経験さえできればいいということではなく、どう選んで来たのかもまた生き方に反映されます。

日常的な趣味としてランニングをするのですが、その際のスピードを「1キロ何分で走れる速度なのか?」という意味で「キロ〇〇分ペース」という言い方があります。

市民ランナーとしては、キロ5分ペースで10キロの距離を走るのは簡単ではありません。

しかし、スポーツ推薦で選ばれるアスリートの中には、そんな10キロを40分以下で走ってしまう人もいます。

それを達成することがどれだけ大変なのかというよりも、どんなに練習してもその領域に到達できないことが起こり得ます。

つまり、努力したのかどうかではなく、選ばれた人なのかどうかという基準です。

でも、このような類いの選別って社会人になってからもいろんなところで起こります。

例えば、歌がめちゃくちゃ上手くても歌手にはなれないということが当たり前に起こるからです。

そもそも、歌が上手ければ歌手になれるということではなく、人が歌声に感動するから歌手にもなれるのです。

もしもすると、そんなに上手でなくても、人から支持される人もいるはずです。

どんな努力ということでは解決されない領域なんです。

ある意味で、一般受験は努力した量を発揮する場所で、指定推薦や他の推薦は、もっと広い範囲で結果を見定める場所なのでしょう。

その流れからすると、一般受験で合格された方は、仕事を上手くこなせる方でしょう。

一方で指定推薦などで合格された方々は、「個」から生み出す力を仕事に活かそうとする方でしょう。

求められている期待が全く異なっているという訳です。

スポーツで、正に絶好のチャンスが自分の目の前で起こった時に、そこでしっかりと体が反応し、過度に緊張しないで結果を出せることは才能です。

何回練習しても、咄嗟にできるかどうかは分かりません。

でも、手順を学ぶことに趣きを置く一般人に対し、発想や閃きで新しいビジネスを立ち上げる人はまた別のタイプです。

どっちがすごいという比較は、それこそ鶏とたまごなのですが、違うタイプを羨ましく感じたり、自身の努力を評価してもいいはずです。

こみちなど、どっちつかずなので、何者にもなり切れていません。


老いたら自由が待っているのかと言う話

 数回足を運んで気づいた「習慣」

最近、趣味のランニングから低い山や未舗装路に出かけることが増え、さらにずっと前にしていた野鳥観察にも興味が湧いて来た。

鳥が集まると言う自然公園にもカメラを持って通うことがあり、その公園には数回足を運んだ。

最初の時は気づかなかったけれど、その公園には望遠レンズをつけて撮影を楽しむグループがいる。

野鳥が集まるスポットは彼らが陣取っている。

その脇を通っていると、ふと耳にした会話が聞こえて来た。

「一般の人にシャッターチャンスを邪魔される」と。

確かに公園には犬の散歩をはじめ、いろんな目的で人が来ている。

子ども連れが公園の広場で走り回ることも珍しいことではない。

「あそこで珍しい鳥や見えるよ! でも撮影する人の邪魔ならないように…」

見知らぬ人からそんな声を掛けられた。

双眼鏡を首からさげていたからだろう。

ただ「邪魔しないように」と言う最後の言葉には、ちょっと敏感に反応してしまう。

もちろんどんな意味なのかはよく分かる。

けれど、楽しい気分転換のできる場所でさえ見えない序列があって、自由ってなんだと思ってしまった。

それ以降、撮影グループの様子が気になる。

リーダーっぽい人が誰なのかも自然と分かる。

周囲の人がその人に挨拶して去って行くのが何度も目撃できたからだ。

こみちも昔、仕事でカメラを使っていたことがあるから、「カメラ」の世界も少しは理解できる。

腕は、使っているカメラの種類で決まる。

そんな雰囲気が強い。

高額なカメラとレンズが、その世界での順位を決める。

本当のプロカメラマンの世界は、撮った写真で決まるのだろう。

でも、素人カメラマンの世界では、腕の差はわずかなもので、通った回数や撮影した枚数が結果に左右される。

主のように通い続ける人が、いつの間にか順位の高い人になるということだ。

現役を終えて、余生を楽しむ時にも、そんな見えない序列を感じながら生きるのかと思ってしまった。

心が疲れているときは、そんな些細なことが気になってしまう。

いい写真とか、苦労した撮影秘話ならたくさん聞きたいけれど、そうではない決まり事で生きて行くのはつまらない。

その公園、いろんな野鳥が観察できるけれど、何か急に行くのがイヤになって来たなぁ。



介護職で年収1000万円超えは可能なのか?という話

 介護職は儲からない!?

年収1000万円以上稼ぐには、サラリーマンなら月収70万円超えが目安になると思う。

ざっくりとした計算をすると、日当で3万円以上稼ぐことが課題だろう。

時間給で3000円以上。

そう考えると、介護職の求人募集で時間給3000円以上を提示する企業は簡単には見つからないだろう。

というのも、介護職の場合、介護士は利用者と対面しながらサービスを提供することが多い。

身体介護などでは一対一になる。

つまり、介護士の報酬を利用者一人分から捻出することになるのだから、介護報酬を考えても思うように給料を上げることが難しい。

儲かる職業

例えば会社の社長というポジションは、従業員を何人も雇う。

つまり、従業員それぞれが個別に顧客の対応をすると考えると、結果的に社長は同時に複数の顧客から利益を受けることができる。

単純に言えば、10人を雇う社長が100人を雇えば、受け取れる報酬額も10倍にできるということだ。

介護職では儲からないのか?

介護職と言っても、介護業界の何をサービスとして提供するのかがポイントだろう。

例えば、介護用品を扱う店を経験するなら、それこそ社長というポジションが儲かるという話になって、いかに従業員にサービスを提供してもらえるのかを工夫することが大切になる。

つまりは、介護施設の施設長でもいい。

ただ、施設運営で介護報酬だけが利益になっている場合、基本的に他の施設長と大きな利益の差が生じないだろう。

言うなれば、介護報酬とは別の部分でどれだけ利益を上乗せできるのかが経営手腕となる。

介護職を経験してみると、利用者にどれだけ多くの時間を割けるのかはとても難しいもので、サービスをきめ細やかに行うほど、どうしても人件費がかさむ。

サービスを画一化し、ある意味で介護職の担う業務を制限しなければ、利益はなかなか捻出できない。

例えば、レクリエーションである介護職が1時間を担当した。

その際に参加費を利用者から別途受け取れる仕組みを作り、いわゆる社内起業のような仕組みができたらどうだろうか。

レクリエーションだけではなく、おやつ作りやその他のイベントを介護職が主担当になり、クラブ活動のような仕組みで参加してもらうというものだ。

極端に言えば、日帰り旅行など、週一で参加者をいろんな場所に連れ出すという計画を介護職が主体となって担うのだ。

その時は、その担当者が社長で、仲間の介護職を雇う形になる。

参加者たちの参加費を受け取って、経費を差し引き分配する。

ここまで話していると、薄々気づくかもしれないが、介護職だから儲からないのではなく、決められた仕事がそもそも稼げない仕組みなら稼ぐことは難しい。

逆に儲けられるような仕組みを作れば、そこにアジャストできる人は稼ぐことができる。

そう考えると、介護職に従事し、利用者と対面でサービスを提供している限りは介護報酬から割り出された利益が給料に反映される。

だったら、例えば理美容師の資格を取り、介護施設をいくつかまわりながら、利用者の頭髪を整える仕事の方が稼げるように思う。

さらにいえば、数名の有資格者を従業員として雇い、自分が社長となって彼らに施設をまわってもらえれば、一人では稼ぐことができない以上の収入が期待できる。

どうしても介護職にこだわるなら、料理などで強みを見出し、富裕層向けの介護サービスを提供する方が稼げるだろう。

というのも、介護サービスの料金はとても算出が難しい。

同じことをしても嬉しいと思ってもらえるサービスなのかは、手順やサービスの質だけでは決まらないからだ。

豊かである暮らしが満足度を決めるのではないのと同じで、同じ時をどんな人と過ごしたのかで幸福度が決まると思う。

でもそれを個々の介護職に求めることは難しく、施設運営でサービスを向上させることが難しい一因にもなっている。

系列の同じ介護施設でも、雰囲気が異なって感じるのは、介護サービスの質を簡単には画一化できないからだろう。

都会的なさっぱりとした触れ合いを好む人もいれば、もう少し距離感が近い郊外型の触れ合いが好みということもある。

より利用者のニーズに寄り添うからこそ、介護サービスの提供は簡単には行えない。

つまり、施設側にとって理想的な介護士が増えればいいけれど、介護報酬という範囲で運営する以上は報酬額だけを上げることは難しい。

かと言って、見習いの介護士よりもベテラン介護士の方が仕事に慣れているとしても、そのベテラン介護士が2倍働いて、2倍の報酬を受けられるものではない。

実際に介護士として働いて気づくのは、現場のスタッフだけで話し合って仕事をより頑張る方向に押し進めないことだ。

そうなると、サービス残業が当たり前になり、一回の勤務で30分から1時間が無給の奉仕になってしまう。

そうではなく、施設としてどんなサービスを提供するのかを先に決めて、そこから末端の介護職が担うべきサービスを明確に理解するという流れが必要だと思う。

サービス残業しなければできないサービスは、基本的にカットするべきだと思う。

当たり前のように定刻よりも先に出勤し、定刻よりも遅くまで働く流れは、結果的に成り手を減らしてしまう。

機械で任せられる部分は人の関与をなくし、効率の上がる道具や備品は介護士のためにも積極的に導入して欲しい。

忙しい介護職のスケジュールの中で、さらに環境整備の整っていない職場は最悪で、何かしたい時にも時間ばかり掛かってしまう。

そうなるか否かは、施設長の介護サービスに対する理解と経営手腕だと言える。

制度上、現場で働く介護職で1000万円以上を稼ぐのは難しい。

ただ、介護の仕事でしか味わえない経験や発見も多い。

それは異業種では味わえないことだから、それを金銭としてではなく、自身の人生経験としてどこまで価値あるものと捉えられるのかだろう。

それこそ、全てにおいて高級な施設でも、人の温もりに欠けていると寂しいものである。

金額だけでは分からないことも多いから、人は様々な働き方を望んでいる。

より多くの利益を得たいのであれば、それに適した職を探すべきだし、介護職でしか味わえない良さもある。

介護職で1000万円以上を稼げないとは思わないけれど、仕事の性質上、稼ぐことを優先しても結果的に中途半端なサービスになってしまうようにも思える。

介護予防の段階で、健康や生き甲斐に関するサービスの提供を促すような事業であれば、介護を含めたもっと大きな視点でサービスの提供が可能になると思う。


『やり切った』という体験が最後まで人生に残ると思う話

 上手い生き方ってあるのだろうか?

例えば十代に戻ったとして、今と何が変わるだろうか。

多分、ほとんどの部分は変わらないだろう。

でも、「やり切った」という体験はとても重要で、こみちが思えるのは「絵を描く」ことになる。

こみちよりも上手い人はたくさんいるし、才能だって秀でている訳ではない。

でもコツコツと継続して、この年になって何か自分の人生の宝物になっているのかと振り返ると、その中に「絵を描く」という体験も含まれる。

学生時代に絵を描き始めて、社会人になってからも断続的ではあったけれど、ずっと身近にあった。

確かに今の時代、スマホがあるし、AIが精密に描いてくれる。

もう絵を描くなんて価値がないのかもしれない。

でも、こみちは今でも絵を描き続けてよかったと思っている。

「作風」ができるまで

絵を描く人は、技法として筆使いというかタッチがある。

歌声に近くて、それぞれの人が持っている「雰囲気」があって、それがずっと描いていると「作風」へと変化する。

こみちの場合も作風があって、これまで絵を見返すと、やっぱり自分の絵だと思う。

これってとても大切なことで、時間がかかって築き上げられるもの。

写真そっくりに描こうとしても、良くも悪くも描きいた人の個性が出てしまう。

誰かの「真似」ではなく、こみちが描いた「絵」になったということ。

十代の人が進路で悩んでいたら

例えば十代の人が進路で悩んでいたら、どんな道を選んでも最後は1つに繋がっていると教えてあげたい。

特に職業の部分では、20代、30代、40代と歳を重ねる中で段々と先が見えてくることを経験するだろう。

つまり「自分の人生ってこんな感じなんだなぁ」と気づき始める。

そのまま歩んでもいいし、それを機に別の世界に飛び込んでもいい。

ただそのタイミングまでに、これまでの経験で「やり切った」という自負があるといい。

「〇〇業界」なら、自身の経験を活かして語ることができるということが、実はとても大切だからだ。

というのも、やり切ったことで、経験は上に積み重ねることができる。

やり切るまでは、横に並べる感じだろう。

つまり、何かをやり切ったことで、その経験が次に生きる。

とにかく「一人前」になるということを知ることだ。

できないことも経験し、失敗も多く経験して、だからこそ「できる」という体験の重さも理解することがとても大切になる。

基本事項をいろいろと知っていることは、実は誰かにとって入り口にはなるけれど、その先まで紹介することができない。

ものしりだけと、結局はどれをとっても経験不足になってしまう。

まぁ、入り口だけ知っている専門家という方法もあるけれど。

でも基本は20代から30代に掛けて一人前になり、他人から信頼される存在になることだ。

他人から信頼されると、その後の人生も大きく変化する。

「今度、世界一周旅行をしたいんだ」

そんな話を始めた時に、「ヘエ」で終わるか「何それ?」と興味を持ってもらえるかは、「実績」が大切になる。

「店を出したい」「資格を取りたい」そんな感じの夢を語った時に、共感してくれたり協力してくれたりするのも、過去のやり切った経験が影響する。

その意味では、多少の上手い下手よりも頑張って10年続けた人の方が圧倒的に説得力がある。

第一希望の学校や職業ではないことよりも、今の環境でどこまでやり切ったのかが大切だと思う。

こみちは一等だけが偉いとは思っていなくて、例えば三等や四等でも尊敬する。

ポイントは本人が達成感を得たかどうか。

目の前の課題に工夫したり悩んで苦心したことが感じられたら、やっぱりそれは大きな価値があると思う。

サラッと上手くできても、それはその人にとって大きな壁でもないだろうし、経験ややり切った感にはなっていない。

キツい部分をどれだけ苦労しながら進めたのかが大切で、なぜなら他の人も同じように苦労しているから。

クリアした人はやっぱり凄い思うし、できなかったことでその価値も分かる。

だから、やり切っていない人は、どうしても平凡さの凄さが分からない。

当たり前を繰り返す凄さは、地味に見えて物凄く価値あること。

それを知って十代を過ごすだけでも、悩みのいくつかは解決するかもしれない。