「どう生きたいのか?」と向き合うために

介護施設が問われる「延命治療」の話


「生きる」を満たすには、栄養摂取が不可欠になります。

もしも、何らか理由で口や食堂が使えない場合には、「栄養摂取」ができません。

そこで、「経管栄養」という手法を用い、例えば鼻の穴からチューブを通し、又は喉のあたりに穴を設け、さらには「胃」の外側に直接経路を作るなどして、栄養摂取できる環境を作ることもできます。

こみちの勤務している施設にも、そのような手法を用いて栄養摂取を行い、今までと変わらない生活を継続される人もいるのです。

本人と家族の思い


「生きていて欲しい」と願う気持ちは、誰にでもあるでしょう。

しかし、中高年になると健康診断の結果や、普段の違和感など、生活の中で以前とは異なる状況を感じるものです。

まして、自分の足腰が弱りトイレに行くことも難しくなった時に、「これからどう生きたいのか?」が段々と目の前に迫ってきます。

これは具体的な話ですが、家族にすれば自宅での介護を知りたいと思う人や、介護施設を検討したい人などが現れてくるのでしょう。

その延長線上の話として、「食べることができなくなったら」という問題があります。

実際には、「排せつできない」という問題もあって、医療的な手法を用いて解決することになります。

その意味では、本人から「延命を希望する意思」があるなら、医療や介護の立場は簡単です。

しかし、本人が望んでいない、もしくは決断できない状況で、家族が希望する場合の対応です。

口から食べることができない場合、食べ物は「栄養摂取」となるでしょう。

つまり、ご飯やおかずがあって、何から食べようと考えるような食事ではなく、その人が生きるために必要な栄養を液体をチューブを使って投入するだけです。

「自分らしい生き方」を見つけるきっかけも、食事ではなくなることもあり、本人が望まない場合にはとてもデリケートな判断が伴います。

まして、施設で暮らし、時々家族が訪れるような場合には、日々の生活を直視することが少なく、本人の負担を察してあげる機会が減ります。

介護士として「自分が老いた時を想像しているか?」


施設側が提案するマニュアルを熟知することが介護士の仕事ではありません。

また、研修などで学んだ内容に従っていても、利用者本人が不満に感じていたら、介護士としては何かできることがないのかと思うでしょう。

しかしながら、介護士の仕事は分刻みであって、ゆっくりと利用者に向き合えない職場も少なくありません。

その理由は、介護士の社会的な信用や役割をどう理解しているのかにも関わります。

つまり、個々に異なる利用者の気持ちに寄り添うことができなければ、そもそも介護士が時間を掛けて歩みよっても利用者は心を開いてはくれません。

「笑顔になる」という表情が心を開いた証拠ではなく、むしろ不満を口にしてくれることが心を開いた証拠だったりするからです。

「〇〇ちゃんは、可愛いなぁ〜」

ある介護士が、利用者の頭を撫でながら、そんな風に話し掛けています。

仕草や表情から出た言葉だと思うのですが、自分の孫くらい年の離れた相手に頭を撫でられる行為を受け止める利用者の気持ちになると、こみちとしては胸が痛くなります。

それを違和感に感じないのならそれはそれなのですが、どういう状況だとしても目上の人の頭を撫でるという行為は考えられません。

逆に自分が同じようなことをされたら、「へへへ」と笑っていられるかと思うのです。

依存しなければいけないという弱みを利用者は感じ、多少の無礼にも我慢しているのではないかと思うと、個人的には完璧とは言わないまでもできる限り不快なく過ごして欲しいという気持ちが強いからです。

それは利用者のことを考えてというよりも、自分自身がそうされた時に情けない気持ちになるでしょうし、「なぜ生きているのか?」を考えてしまいます。

でも、介護士も様々な理由で働きに来ていて、利用者のことをどこまで想定しているかはわかりません。

ただ、自分が老いた時にして欲しくない行為をしないことは、介護士でもできるのではないかと思ったりします。