これも「コロナウイルス」の影響なのか?

利用者の不穏


どういう訳か、「不穏」と聞くと、利用者が落ち着きを失ってソワソワした状態に見えることを言う。

車イスを使う利用者が急に立ち上がろうとしたり、何度言っても頑として受け入れなかったりすると、介護士たちは「不穏になっている」と判断する。

ある利用者を起こしに行った介護士が、「〇〇さん、不穏で起きません!」と説明をした。

「そうそう、さっきも大声を出していたわ!」と別の介護士が迷惑そうに言う。

こみちは、そんな介護士たちを見て、本当に「介護」が好きなのだろうかと思ってしまう。

少なくとも、利用者が大声を出す時は、その人なりの「訴え」がある。

介護士を呼びたいのかも知れないし、トイレに行きたいのかも知れない。

もっと個人的な理由があるのかも知れない。

例えば、こみちがもう90歳で、自分の身に周りのことさえ出来なくなっていて、妻や子どもからの支援もあてに出来ない状況だったら、何を考えるだろうか。

当然、いつまで生きていられるだろうかと思うだろうし、妻や子どものことも考える。

そして、これまで住んでいた家のことや、残してある財産もどうなっただろうかと思うだろう。

もっと別の視線で言えば、勤務していた会社までの道のりで見えた景色や、旅行で訪れた場所、人との出会いもふと頭に過ぎるかも知れない。

安くて美味かった駅近くの立ち食い蕎麦屋の味を懐かしく感じるだろう。

身の回りのことを自分一人で出来なくなるように、頭に浮かんだ懐かしい場所まで一人で訪ねることはできない。

親切にしてくれる介護士の一人にお願いしたら、タクシーで連れて行ってくれるかも知れない。

「オーイ!」

大きな声で叫んだ。

やっと顔を出した介護士は笑顔で、「懐かしいですね!」と同じセリフを繰り返している。

こちらがどんなに思い入れがあると説明しても、介護士はいつまでも笑っているだけなのだ。

「この後、おやつタイムですよ!」

しばらくすると、笑顔だった介護士は立ち去ったのだ。

その後は、何度叫んでも介護士は顔を出すことはない。

あまりに放置されて、叫ぶ気力を失った。

力を無くしたのではなく、介護士たちには頼れないことを悟ったのだ。

最近、スプーンが口もとに来たら、それを食べている。

味もよく分からないし、お腹がいっぱいなのかも分からない。

パクパクと食べれば介護士は上機嫌になるし、車イスの上でジッとしていれば安心した様子見える。

その時々を生きるだけ。

やがて迎えが来たら、今日と同じ明日が来ないと言うことだろう。

寄り添いが上手い人などいない!?


高齢者と介護士の関係だけでなく、営業マンと顧客の関係でも同じようなことが言える。

「契約」を取りたいだけで、アフターフォローなど眼中にないのだろうと思わせる営業マンは、少し話せば気がつくものだ。

契約とは無関係の、でもそこに契約したい動機が隠れているのに、そんな話題はうわの空で聞いている。

「ここにサインを!」

そんな瞬間だけ、目を輝かせているのを見れば、契約の半分でもしてくれたら「ヨシ」とする他ない。

介護施設にいる利用者も、最初はあれこれと妄想し、お願いもして来た。

でも、面倒くさそうな応対の介護士を見ていると、段々と言うことが制限されてしまう。

渋くて苦味の強いお茶なのに、「早く飲んで!」と急かされる。

おまけに、「高齢者は水分不足になりやすい」とどこかで聞いた話を何度も繰り返し聞かされる。

「寄り添い」を「騙しのテクニック」と勘違いしている介護士も多い。

「ちょっとだけ」と言いながら、自分の希望通りに従わせようとするのだ。

「うるさい!!」と怒鳴ってみると、手のひらを返したように猫撫で声になり、「うるさい!!」ともう一度叫べば、「勝手にしなさい!」と捨て台詞を残して去ってしまった。

乱暴に扱われることもある。

「痛い!」と訴えれば、「あらそう!?」ととぼける。

もしも自宅で暮らしていた頃に戻れたなら、ココには来ないだろう。

でもそんなことを考えても、あの頃には戻れない。

ただ黙って時が過ぎるのを待っているのだ。

もしも、介護士が利用者の目線になれたとしたら、そんなにペチャクチャと雄弁に話すことはなくなるだろう。

さも味方ですよと言う雰囲気で近づくこともしない。

「どうしますか?」

ただそう言って、今できることを端的に説明してくれるだろう。

「実はサラリーマン時代に通っていた蕎麦屋があってね…」

「私にもありますよ。新橋に会社があったので」

新橋というのは、首都圏の人には馴染み深い地名だ。

サラリーマンがたくさんいて、ほろ酔い加減で帰宅する姿が見られる。

「ホォ〜。キミはサラリーマンだったのか?」

「エエ、3年前までは。でも今は介護士として働いています」

すっかり記憶力も劣ってしまい、だからと言ってメモを取ることもしない。

名前を忘れても困ることはないし、介護士のことは「キミ」で十分だからだ。

それにしても、思ってもいなかった。

介護士として働いている彼らにも、いろんな人生があって、今に至るからだ。

スプーンに乗せた食べ物が、毎回量が違う。

しかも口の先端までしか運んでくれないから、どうにも食べ難い。

「これ、嫌いですか?」

横目でみると、心配そうな介護士と目が合った。

「こっちはどうかな?」

不器用にすくったスプーンを、口もとまで運んで来た。

仕方なく口を開けば、また微妙なところまで差し込んで来るのだ。

でも、この介護士を嫌いにはなれない。

きっとサラリーマン時代にはこんな仕事を想像していなかったはずだ。

しかし、何があったのかは知らないが、介護士として働くことになり、似合わないユニフォームに身を包んで懸命に働こうとしている。

「ありがとう」

小さな声で言ってみた。

「エエ? こちらこそ、どういたしまして」

介護士はとても喜んでいたが、差し込むスプーンの加減は相変わらずだった。

ある利用者の発言


「こみちくん。もう俺も94歳だ。もう先が長くないと感じているよ」

「そんなことを言わないでくださいよ!」

「イヤイヤ、本当なんだ。だから、今すぐタクシーを呼んでくれないか?」

「タクシー?」

「そうだ。会って話しておきたい人がいるんだ」

「でも今すぐと言うのは…」

そんな話を聞いて、利用者の戯言だと思うのは自由です。

また、現実的にタクシーを呼んでどうなるのかと言う指摘もあるでしょう。

でもそうではないことも介護士なら理解できるはずです。

なぜなら、利用者たちの中には「お迎え」が来て、昨日までの生活が今日には無くなるからです。

それが来るまで、ただ施設にいることだけしかできないのでしょか。

だとしたら「寄り添い」は必要なのでしょうか。

今の時代、本人が行けなくても映像で見ることは可能です。

懐かしい場所がどこにあるのか分かれば、それを叶えることも不可能ではありません。

一方で、大切なのは「記憶に残る思い出」の部分。

真実を知りたいとは限りません。

つまり、実際に連れて行っても、そこに懐かしさを感じることができるかは利用者の想い一つです。

こみち的には、寄り添い方はいくらでもあると思います。

テレビ電話でリモート通話してもいいでしょう。

介護士として働いてみて、こみちの場合にはそんな部分に興味を感じます。

施設にいるから全てをあきらめれるしか無いとは思えないからです。

しかし、ケアマネでさえ、「利用者のわがままに付き合っていられません!」と言う人がいます。

「わがまま!?」

ちょっとびっくりですが、そんな人がケアプランを作るのです。

ケアマネと言う肩書きも安泰ではありません。

多忙な割に安い報酬です。

しかし、そんな仕事が好きでなったのに、「わがまま」と言ってしまえる思考回路に愕然としました。

介護の何が面白くて、その仕事を選んだのか。

逆にこみちは、それが難しくて、介護士を避けていました。

現実を知れば知るだけ、人の暮らしは本当に深いものだからです。

これまでに何度も挫折し、裏切られた経験をして人は大人なります。

介護士が叶えてくれないことも承知しているでしょう。

でもそこまでのプロセスとして、どんな風に利用者と関われるかが問題なのです。

「できません!」

そりゃそうだ。

ではなく、自身の人生を振り返った時に気になる人や場所があって、それを聞いて欲しくなったのです。

そう言うと、「聞けば良いのか?」と身も蓋もないことを言い出す人がいます。

結局のところ、自分が同じ年代になった時、どんな風にして欲しくなるかが答えでしょう。

そこに向き合えることが、「寄り添い」を理解することですし、介護の奥深さを知ることにもつながります。